伝えてゆきたいこと
法然院貫主 梶田 真章 かじた・しんしょう 2009年11月7日(土曜日)中日新聞「人生のページ」より
挨拶は相手への気遣い 時代経ても社会に不可欠 [上]
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三年前から毎年十月の初めに京都市内の公立高校に出向き、一年生に「心の健康」という題で話をさせていただいている。「解わかり切ったことだから真剣には聞いてもらえないかな」と思いつつ、最初の年に「おはよう」「いただきます」などの意味を説明したところ、挨拶あいさつの意味を初めて聞いたとの感想が生徒たちから返ってきたので驚き、二年目以降も続けている。
二〇〇六年に惜しまれつつ九十六歳で他界された白川静先生が、十三年余の歳月を費やして残された三部作の一つ『字通』によれば、「挨拶」 は「禅家で一問一答を一挨一拶といい、それより応対・応対の意となった」と説かれている。つまり「挨拶」は元々「問答を交わして相手の悟りの深浅を試みること」であり、真剣に向き合い、相手の境地を探ることを意味した。
私の一日は本堂で一切の生きとし生けるものを悟らせようとの本願を立てて極楽を構えて下さっている阿弥陀あみだ仏と私を支える一切の生き物との御縁ごえんに対する感謝の祈りで始まる。広い意味での挨拶と言えよう。転じて、日常的な挨拶の意味を考えてみると、「おはようございます」は「早くからご苦労さまです」との労いたわりの言葉、「こんにちは」「こんばんは」は、その後に時候やご機嫌伺いを省略した言葉、「いただきます」は、今から食べる米・野菜・魚や肉のいのち、または生産者や料理人への謝罪や感謝の言葉、「ごちそうさま」は「馳走ちそう」、つまり、走り回って私のために食材を集めて下さった方々に対する御礼の言葉、「おやすみなさい」は今日の御縁による仕事を全うした相手に対して、「そろそろお休み下さい」との労ねぎらいの言葉であると言えるだろう。つまり、元来、日本人の挨拶は、「グッモーニング」「グッナイト」などと違い、常に相手に対する感謝、労り、思い遣やりを込めたものであり、相手に対して敵意がないことを示す以上のものであることを伝えてゆきたい。
更に、気になるのが日本語の中で「おかげさま」と並ぶ最も美しい言葉の一つである「ありがとう」の昨今の使われ方である。この言葉は「めったに無いことをして下さって有あり難がたいことだ」と、相手との尊き御縁を感謝して心を込めて発せられてきた筈はずである。昔は「ままならない」のが人生であり、自分の思い通りの結果になったのは、良き因縁が整った有り難いことであると受け止められていたが、便利な暮らしを享受するようになった現代では、人生は意のままになるもので、相手にはしてもらって当たり前という感覚が強く、折角せっかくの「ありがとう」が軽い気持ちで口にされることが多くなっているのは残念なことである。
「グッバイ」ヤ「アディオス」は「神の御加護がありますように」、「シーユーアゲイン」や「再見」は「また会いましょう」、「フェアウェル」は「ご機嫌よう」。この三つが、国や民族を越えた共通の別れの挨拶として使われてきた言葉だが、日本特有の挨拶である「さようなら」は「然様さようならば、別れましょう」の略で、御縁によって仲間として共に過ごした貴重な時間が終わり、次の御縁による各々おのおのの仕事へ移る時に気持ちの区切りをつける言葉である。したがって万感の思いを込めてこの言葉で呼びかけるのが、身近な人がこの世から旅立たれる際ということになる。「本当にお疲れさまでした。さようなら」と。
高度経済成長以降、仲間ではなく他人に囲まれて暮らす社会になってしまった日本だが、仲間意識を取り戻すために、相手を気遣う挨拶を心から交わせる社会を再構築してゆきたく思う。年配者は人生で培ってこられた知恵を子や孫や若者に躊躇ちゅうちょせずに自信を持って伝えていただきたい。伝える努力をしない限り、挨拶の意味という簡単なことも伝わってゆかないのである。有り難い御縁により生きとし生けるものに支えられていることを感謝しつつ、人との関係を地道に築く日常的な喜びを大切にして、丁寧に暮らしてゆければと願っている。
合掌
凡夫であることの自覚 お寺は帰ってくるところ [下]
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現在する仏教経典の中で最も成立が古く、お釈迦しゃかさま(ブッダ)の生のことばに最も近い経典である『スッタニパータ』(「スッタ」は「たて糸、経」、「ニパータ」は「集まり、集成」で「経の集成」。一一四九の詩から成る)の第八三七の詩には、「私には『これを説く』というものがない。私は、あらゆるものごとに執着があることに気づき、もろもろの見解に<それぞれの>こだわりを見て、執着せず、またよく観察しつつ、内なる安らぎを見た」(羽矢辰夫訳)と説かれている。
三十五歳の時に悟りを得て八十歳で入滅されるまで、四十五年間にわたって説法を続けられたブッダが「『これを説く』というものがない」と言われるのは、不思議な気がされるかもしれないが、これは、これだけが絶対に正しい教えだと説くものはない、という意味である。ブッダの教えは「苦からの解放」を説くものだが、人生を苦と感じていない人には、ブッダの言葉といえども響かない。仏教は「苦の自覚」を持たない人には意味がない。ブッダにとって一番大切なのは、内なる心が常に安らいでいることであり、自身の見解を相手に分からせることにこだわらず、自分と他人を比較せず、因縁によって我が身がどのような状況に置かれようと、これがかけがえのない自分の人生なのだ、と自信を持ち続ければ楽に生きてゆけることをブッダは教えて下さったのである。
しかし、現実の自分は自己中心的であるから、こだわりを無くすことができず、例えば人間には善人と悪人がいると思い込んでしまう。「それから、君は今、君の親戚しんせきなぞの中に、これといって、悪い人間はいないようだといいましたね。しかし悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。そんな鋳型に入れたような悪人は世の中にあるはずがありませんよ。平生はみんな前任なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変わるんだから恐ろしいのです。だから油断ができないんです。」夏目漱石の『こころ』の中で「先生」が「私」に語りかけるこの言葉は八百年前に法然・親鸞が説いた人間観に重なるもので、人間は縁によって善人にも悪人にもなることを端的に示している。今のところ私が人を殺していないのは、私が殺したい人と出会っていないからであって、決して私が善人であるからではない。
関東武者の津戸三郎為守つのとのさぶろうためもりに宛あてた法然上人のお手紙には「念仏を信じない人に無理に念仏の教えを信じさせようとすることは避けた方がよい。なぜなら不信のものを信じさせることは阿弥陀あみだ仏でも力及ばないことなのだから。本人に阿弥陀仏を信じるしか往生おうじょう・成仏の道はないという信心が生じない限り、阿弥陀仏といえども救うことはできない」と答えている。阿弥陀仏が信じさせることができない人を、どうして私が信じさせることができるだろうか。
私は、週に三、四回、「法然・親鸞の人間観~善人・悪人~」という題で、阿弥陀仏の本願と念仏を唱える意味について参拝者に法話をさせていただいている。自分の考えを理解していただけるように伝える努力をすることは大切であるが、伝わるかどうかは聞き手の心次第である。自分を善人だと思っている人は、「阿弥陀仏の名を唱えれば、どんな人間でも極楽に生まれることができる」という法然の教えはすぐには納得できないが、自分を凡夫(愚か者・悪人)だと自覚したときには耳の底に残っていた阿弥陀仏の本願が意味を持ち、念仏を唱えていただけるかもしれない。寺を預かる僧は地道に法を説いておくことに意味があり、話をしたときに信じていただかなくても一向に構わない。私はこのように考えながら法話をしているので心に余裕があり、楽にお話をすることができている。
だが、ビジネスの世界では「解わかるときが来れば解る」では通用しない。競争社会では、すぐに結果が求められるから、時には嘘うそをついてでも相手に解ってもらわなくてはならない。また自分の考えが相手に受け入れられないと、その時の考えが否定されただけなのに自分自身が否定されたと思い込んでしまう。人生は真に辛つらい。そんな時こそ仏さまの慈悲の心に包まれて楽になってほしい。行き詰まられた時には、社会的役割と肩書を一旦いったんはずして寺の門をくぐっていただければと願う。
「阿弥陀さん、ただいま」と。