父と母の百カ日 …泰道・静子のことども
松原 哲明 まつばら・てつみょう  2009年10月31日(土曜日)中日新聞「人生のページ」より
波のように包んでくれた [上]

 心不全で一ヵ月入院し、その退院の七夕の朝四時半、胸部の痛さで目が覚めた。不吉な予感がした。
 枕元の電話が鳴る。脳硬塞こうそくで八年間寝たきりで自宅療養していた、九十四歳の母の末期の知らせであった。臨終の枕に居合わせなかった私へのシグナルであったのか。命の尊厳さを教えてくれた師母の、息子へのサヨナラの挨拶あいさつであった。仲が良かった母の死因が心不全と聞いたとき、なぜかひどく嬉うれしかった。同病のよしみであろうか。母の病と同じ賽さいの目であることがであった。
 母の胎内で五ヵ月の時、大病を患った母は周囲の大反対を押し切り、一人決断して私を出産までこぎ着けてくれたのである。胎児はもうすでに母の命そのものであった。母とこの隔てではなく、母子一体であった。だから絆きずなは、深いところで交信しあっていた。母からの最後の通信は途切れずにつながっていたのだ。
 波乱は続いた。母の追慕の会で師父(松原泰道)は、今あるのは母・静子のお陰かげと涙した。公の場では初めての言葉であった。それが乾く間もなく、二十二日後に、母に招かれたごとくに、百二歳の幕を下ろした。
 人の死は一生に一回である。その死の一幕を、二人は同じ月に共に切って落とした。生は死と共にあった。死を伴って生きることは、同時に死ぬことである。去って行った二人は、けれど蘇よみがえり、織り姫・彦ひこ星として私たちを見つめている。
 二人の一生から、生きるということを果てしなく学んだ。命は一瞬一瞬、時を刻んで先に進む。一瞬という時点は刹那せつなであり、刹那の連続が人生という一線であろう。刹那は変り続けるから、刹那は、ものではない。刹那は現象であった。人生は現象なのだ。その現象を「空」とした。ブッダの色即是空である。
 行く先である人生の未来は、これと定まったものはない。未来のことは分からない。ブッダは禅の金剛経で未来の心はつかめないとした。無門慧開むもんえかい禅師の言うごとく、未来は賽子さいころの目のように振りわかれる。


 刹那は一時点である。存在は点であると考えたが、刹那が連続して先に進むとすれば、量子学でいう、波のごとしが似つかわしい。
 さて、戦前戦後の苦難の日々を、大正生まれの母は、どこの女性とも同じく、自分を顧みる時を捨て、家族を養い育てた。夜中に、嫁入りの和服を風呂敷に包み、米塩の資に代えるため部屋を出る後ろ姿が、黒い切り絵のように焼き付いている。
 父はいつも講演か、あるいは小さな書斎に居た。誰が何といおうと、時間と競うように、まなびやに潜んでいた。自分の道をひたすら生きた師父は、やがて無量の種を自らのものとしていった。師父の後半は、自在の説法であった。無限の種を蒔き続け、法悦に浸らせ得たのであろう。
 私にとって、偉大な師父母は、波のような存在であった。さざ波の優しさも、波濤はとうの強烈さをも共有していた。何いずれの波も、ただ押し寄せるだけではなかった。正面だけでなく、裏にも回って私を包みきった。
 波に会いたくなって、初秋の九十九里の磯に立っていた。海潮音は、私に命の尊厳と学びの共生きを教えていた。沖合いから、絶え間なく白波が岸にたどり着いている。生きる全すべての現象は、常にどれもが浜辺に行き着くのだ。万物の最後は、岸辺である。此岸しがんの彼方かなたから生き抜いてきた一波は、凪なぎを体験し波乱万丈の時もあったろう。しかし波は必ず彼方の岸に終着する。明日かとも知私の小波も必ず、彼岸に打ち上げられ、疲れ切った一生さえ無に帰れる。
 二人を送り終って百カ日が過ぎようとしている。よい子ではなかったが、長男の責をわずかに果たし終った今、紙面をいただいた。
 故人から学び得たものは、大きな遺産となった。波乱もまた師であった。

まつばら・てつみょう 1939年、東京都生まれ。早稲田大文学部卒後、会社勤務を経て、静岡県三島市・龍沢寺で禅修行。同大大学院修士課程修了。現在、東京・三田の臨済宗妙心寺派龍源寺住職、龍翔院住職。日本キルギス科学技術文化センター理事長。中日文化センター講師。著書に「玄奘のシルクロード」(講談社)、「般 若心経」(主婦の友社)など。