仏像の美
石上 善應 いしがみ・ぜんのう  2009年9月26日(土曜日)中日新聞「人生のページ」より
微光で優しいお顔 [上]

 東京で開催された「国宝 阿修羅あしゅら展」の入場者が九十四万人にのぼったとは、ただ驚くのみであった。興福寺の常設の場所ではこんなことは一度もなかったのに。事実、最近、唐招提寺や薬師寺などの仏像展も、奈良のすぐれた仏像なので、すごい人出であって、異常なブームとも思える。
 この人気にはそれなりの背景があった。最近では、各出版社が寺院や仏像をビジュアル版の出版物として次々と発行した。週間「日本の仏像」第1号は阿修羅像が日本人の好みにあったのか、この仏から紹介されていた。それぞれ工夫もされ、手ごろな書物として、人びとに訴えているのかと思うほどに目につくのである。さらに、カルチャーセンターなどで写経や写仏が流行し、たまたま仏像の話が始まれば、質問の中に、この仏の身につけている衣のこととか、仏像の背後はどうなっているのかなど細かく聞かれるほどになっている。それほどに仏像の姿形を精細に知ることが求められてきている。中には曼陀羅まんだらを正確に描写する人たちすら数多い時代である。
 かつて会津八一あいづやいちの『鹿鳴集ろくめいしゅう』(ときには『自註鹿鳴集)』)をふところに入れて仏に対峙たいじし、次いで和辻哲郎の『古寺巡礼』をもとに仏像の微を探勝する。さらに、その後には亀井勝一郎の『大和古寺風物誌』を手に、み仏との対話を静かに味わう人びとがいた。
 この三冊に共通するのは、いずれも大和の古寺が中心であったことである。おそらく、そこには日本人の美の故郷として共通に受けとるものがあった。ここから現代人は日本各地に仏像の造型美を広く感じとっていったのであろう。最近、NHKが仏像百選と題して、民衆に親しまれた仏像も加えて紹介していたのを見て、仏像の美は極めて広く伝播でんぱし、奈良のみではなく、各地で拝まれているみ仏を裾すそ広がり的に受容し、共感の輪が広がっていったものと受けとられる。仏像展を不思議な感情でとらえる必要はなく、多様な見方が確実にできてきて、今日のような爆発的な展観につながったと考えた方がよい。


 以前に、鉈彫なたぼりの仏像を求めて歩いたことがあった。前橋市日輪寺の十一面観音像は、当時収蔵庫に納められていた。鉈彫りとはいえ、見事なみ仏である。裸電球で照らされていて感慨深く見入っているとき、ご住職がその電球を消し、蝋燭ろうそくの灯をあげたりさげたりして、この仏像を照らし直してくれた。このとき、改めて、み仏のあり方を考え直したのである。仏像は長い間、暗い堂内の灯火のもとで拝まれてきた。微妙な光を受けて、み仏はえもいわれない、なつかしいお顔を見せるのである。そのときの仏像のやさしい微笑を忘れることができない。
 谷崎潤一郎の『陰翳礼讃いんえいらいさん』は日本人独特の受けとり方であろうか。「京都や奈良の寺院へ行って、昔風の、うすぐらい、そうしてしかも掃除の行き届いた厠かわやへ案内される毎ごとに、つくづく日本建築の有難ありがたみを感じる」ことから、唐紙や和紙の話題、蝋燭や灯明とうみょうのかもし出す怪しい光の夢の世界にも及んでいる。
  興福寺の阿修羅増にしても、現代人は当初の朱色で彩られた脱活乾湿だつかつかんしつ造の姿ではなく、今の剥落はくらくした色合いに、愁いをこめた、そこはかとなく人間味溢あふれる眼差まなざしに親しみを感じとっているのではないか。会場の明るさの中でも感得するものがあったことに間違いがない。
 かつて中宮寺を訪れ、尼寺の静かな佇たたずまいの中で、ひとり一時間ほどみ仏と対峙していても、どなたも現れず、さまざまな感慨に浸ったときのことを思い出す。現在のお寺の伝承では如意輪にょいりん観音であるが、専門家は菩薩半跏思惟像はんかしゆいぞうと呼ぶが、そのことはどちらでもよく、み仏が涙を浮かべているようにも見え、また毅然きぜんとして凡俗な者に教えを垂れるようにも見えることは不可能にしても、それでも仏像の美は、ひとしく私たちの中に浸透してくることを、心より大事にしたいと思うのである。

夕の光背 計り建立 [下]

 俊乗房重源ちょうげんといえば、平家によって焼尽と化した東大寺を復興するため、大勧進かんじん職となって努力し成功された高僧として知られている。その上、入宋にっそうすること三度、もっとも新しい宋様式の建築と仏像をもたらした。それを大仏様だいぶつようと呼び、仏像は快慶かいけいに造らせたことでも有名である。
 以前に、兵庫県小野市にある浄土寺の浄土堂(阿弥陀堂)が修復のため解体され、その復元が完成したということを聞いた時、たまたまこの近くに行くことが決まり、数人で出かけたことがあった。
 訪れたのは秋の彼岸会のころで、その上、夕方の五時近くのことであった。果たして拝観できるかどうかは不安ではあったが私ども数人しかいないのに、まことに快く浄土堂の扉を開けてくれた。
 正方形のお堂の中心に天井を張らず、化粧屋根裏が高くせりあがった中心に、5メートル30センチの阿弥陀如来が俗に逆手来迎さかてらいごうと呼ばれる印相をして屹立きつりつしている。さらに、観音・勢至の両脇侍きょうじが3メートル70センチ余で空中に住立じゅうりゅうしているように雲に乗り、来迎三尊の姿をしているのである。
 このお堂の断面図の模型を千葉県佐倉にある国立歴史民族博物館で見て、その構造に驚きもした。迎講むかえこうなど念仏を唱えながら、この阿弥陀三尊の周りを行道するため、なんの装飾も置かない、極めて珍しい造形であり、その空間のひろがりは仏と拝む人間との間に一切の異物をさし入れない、あたたかみのある見事なお堂である。
 阿弥陀三尊はお堂の西側を背後にしているので、私どもが東側から拝むわけであるが、夕方の五時、格子の蔀戸しとみどを通して夕日がみ仏の背後から燦々さんさんとふり注ぎ、私は東側の扉を背後にして、しばらくは口をきくこともできなかった思い出がある。浄土堂の復元の中心は、この西側の蔀戸にあったようである。
 しかも、この西側の外には池が配置されていた。池が変って田圃たんぼになっていても、西日の反射には大いに役立つ。そこまで計算されていた重源の配慮に感動すらしてくる。


 かつて西村公朝師がNHKで仏像の解説をなさった。あまりにも評判がよく、再放送もされた。その時の説明を後になって聞いたことがあった。西村師は当初、この仏像が快慶作とはどうしても思えなかったそうである。ところが、このお堂で西日を受けて変化するのを見て、改めて快慶作と感じたと述べられたのである。
 私が訪れたのは西村師がNHKで話される前のことであったが、放送後、彼岸の頃の夕日の時間はじつに多くの人が拝観に来られて、お寺の方ではしばらく仕事が手につかなくなったそうである。西村師はそのことも恐縮して語っておられたものである。
 空中に住立する三尊仏でいかにも軽快といいたいが、5メートルもあるみ仏を、他へ移して見せることはまずできないことである。
 このように、一つひとつの仏像には、大変な苦労が秘められていることを掘り起こす必要がある。
 滋賀県の湖北には向源こうげん寺(渡岸どうがん寺)があり、その少し北に石道しゃくどう寺がある。この十一面観音を初めて拝んだ時、言いようのない感動にひたった。石道寺はこの地区で大事に管理されてきていたが、無住のこともあってお寺に行くべき参道がなかった。田圃の畦道あぜみちを歩いて、やっと参道らしいところへ辿たどり着く。仏の厨子ずしの扉もこの周辺独自のものであって、開けるのにも大変なようである。それだけに格別な思いが込められているようである。
 三度目に訪れた時、このみ仏が妙に明るくきらきらして見えた。気がついて本堂の正面を見れば田圃に水が漲みなぎっており、それが太陽の光で反射して輝いていたのであった。それを見て、このみ仏の安らかな姿に見入ったのであった。ところが、その後、行ってみて、本堂の正面に参道が広く作られ、田圃は少なくなっていた。確かに入ってくる道は立派にできた。それだけに観光客が増えたことになるのだろう。参道ができた分、田圃は縮小されてしまった。どちらがよいのか、私には湖北で大事にされている、このみ仏のことを思い出しながら、仏像が置かれている環境の変遷に、言うに言われない思いがするのである。

いしがみ・ぜんのう 1929年、北海道小樽市生まれ。大正大大学院修了。同大仏教学部教授を経て同大名誉教授、淑徳短大学長、浄土宗総合研究所所長。著書に『信ずる心 弥勒菩薩』(集英社)『往生要集』(日本放送出版協会)など。