絶望の正体
阿満 利麿 あま・としまろ  2009年8月29日(土曜日)中日新聞「人生のページ」より
「自己中心」が挫折招く [上]

 少々古い言葉だが、「世も末だ」と実感する機会は増えこそすれ減ることはない昨今だ。そのなかにあって、苦しみや矛盾を解決しようと行動している人も少なくない。問題は、解決を阻む壁の厚さに疲れて、良心的な人であればあるほど、しばしば「絶望」に襲われ、ついには無力感にとりつかれてしまうことが少なくないことだ。しかし、ひとたび「絶望」や「無力感」にとりつかれると、果たして一歩も動けなくなるのであろうか。

 アメリカ人の仏教徒で、長年、環境保護運動にたずさわってきた、J・メーシーは、自らの経験に基づいて、そうではないと、つぎのようにのべている。「絶望」や「無力感」は、「自己実現」という「迷信」のなせる仕業なのであり、「絶望」という事態は、「自分が自分の主人」であり続けることができなくなる恐怖にほかならないのだ、と(『大切な暮らしに立ち返ろう』、邦訳はない)。
 「絶望」というと、言葉は大げさだが、その正体は「自己実現」の挫折にしかすぎない、というのだ。「自己実現」も近年の流行語だが、メーシーは、それをあっさりと「迷信」といってのけている。もちろん、そこには、「主体的である」ことと、「自己実現」とは異なるということが当然の前提となっている。「主体的」ということは、何ごとにつけても、しっかりした判断ができるということだ。メーシーは、このような「主体性」を否定しているわけでは決してない。彼女が「迷信」という言葉で批判しているのは、他者から切り離された自己というものが存在し得ると信じ、その自己主張を貫くことが正義だと思う愚かさなのだ。


 そもそも現代の苦しみは、戦争や環境問題から社会の腐敗にいたるまで、地球規模、人類規模である。したがって、あたかも自分だけがそれから逃れられる、あるいは無関心であり得る、と考えることは「妄想」でしかないし、また、私一人の力で問題を解決することもできないのは当然のこと。大事なことは、そこで「自己実現」を目指すのではなく、自分自身もまた相互依存的関係にあることに目覚めることなのだ。
 私たちはややもすると個人の独立性に目を奪われがちだが、実際は、複雑な相互関係の中の結節点なのである。仏教の言葉でいえば、人間もまた「縁起」的存在にほかならない。「縁起」とは関係性のことで、日本語でいえば、「縁」に当たる。「縁」は偶然と必然が織りなす複雑な関係を意味している。

 それはともかく、メーシーは、この「縁起」の教えに着目して、他者から切り離された、肥大化した自己を中心に行動するのではなく、自己を「縁起的存在」だと認識することによって、「絶望」から解放される道が発見されると主張しているのだ。
 現代の苦しみと向き合って、その解決のために生きるということは、狭い「自己中心」から「縁起の網のなかの自己」という、自己変革を経なければならない、ということだろう。「自己中心」に立ったままではのっぴきならない行き詰まりも、「縁起」から見れば、新たな話し合いの機会ともなるのだ。そうであってこそ、運動に不可欠の持続力も生まれるというもの。問題を一身に引き受けて、ついに「燃え尽きてしまう」という不毛な現象を克服するためにも、このような、いわば「縁起的自己」への変革は必要なことではないか。
 メーシーの言葉でいえば、「絶望」を超えるのは、「エゴ・セルフ」(自己への関心だけが肥大化してるエゴ)から「エコ・セルフ」(他者との共存を認める、エコロジカルな自己)への転換ということになる。

「凡夫」同士、助け合おう [下]

 「絶望」は、自分が正しいと思う主張が受け入れられないところに生まれてくる。道理が通じないから「絶望」するのだ。「絶望」する自分は、少なくとも道理にかなっているはずだと信じている。それが支持を得ないのであるから「絶望」するのだ。だが、よく観察すると、道理が分からないのは彼らであって、自分は正しい、という自己正当化の気持ちが「絶望」の裏側には流れているのではないか。

 もし、その自己正当化を怪しいと思う気持ちがあれば、「失望」することはあっても、「絶望」に陥ることはないのではないか。こういうのも、日本社会では、案外、自己を冷静に見る伝統があるように思われるからだ。
 それにくらべると、前回紹介した、メーシーの、「絶望」とは自己が無力だと分かる恐怖心だという考えは、自我の強い欧米の風土ならではの発想のように思われる。人に弱味を見せない、すべて順調だ、と高言することが常識となっている社会だからこそ、自己に自信がもてなくなることを極度に恐れるのだろう。
 一方、日本社会では、自分の弱さをさらけ出して人の共感を得るという生き方が肯定されているように思われる。その典型は、漫才などの「お笑い」であろう。漫才発祥の地は大阪というが、大阪は真宗が盛んな地域であり、人はみな「凡夫」だという思いが行き渡っている。だから、わざと人前で弱味をさらけ出して、笑いを誘うコツが日頃から身に付いているのだ。その洗練された姿が漫才ではないか。

 ここであらためて「凡夫」という人間の見方を考えてみよう。仏教では、ある時期まで、「凡夫」は「聖人」の反対語であった。修行をして悟ることができるのが「聖人」であるのに対して、修行もできない、劣った人間のことを「凡夫」とよんでいた。しかし、ある時から、人間には「聖人」と「凡夫」の区別があるのではなく、人間はおしなべてすべて、例外なく「凡夫」だという考えが生まれてくる。理由は、欲望、とくに自己愛から解放されることは人間には不可能だという認識による。そしてその「凡夫」のための仏教として浄土仏教が提唱されてきたのだ。その旗手が法然にほかならない。


 世俗的には、エライ人もいるし、愚かというしかない人もいるだろう。評価の区別は色々ある。だが、仏になるという視点からは、人間はすべて、例外なく「凡夫」だというのである。関西人の言い方でいえば、「アホ」な人、ということになる。
 このような「凡夫」からすれば、自己正当化はだれでもすることであり、とりたてて驚くことではない。道理や正義を主張していても、それは縁に恵まれての行為であり、たまたまのことだという思いがどこかにある。だから、自分の考える正義や道理が受け入れられなくとも、さほどがっかりはしない。相手が自分のいうことに反対するのは、それなりの事情があるからだろう、と冷静でいることができる。
 お互いに「アホ」な存在だという思いを共有しているならば、一方が絶対の正義で、他方が絶対の悪だというレッテル貼りはできない。どんなに理不尽な主張をする人間でも、また信頼できる一面もあるはず。それは己を振り返ればただちに了解できることであろう。私はいつも正義や道理にばかり貫かれているわけではない。場合によれば理不尽な主張もするではないか。

 浄土仏教が日本人にもたらした功績は色々あるが、「凡夫」、つまりお互いにアホな人間同士だという人間観は、とても大切だと考えている。個々の人間は「アホ」から抜け出すことは難しいが、互いにその弱点をカバーしながら、少しは道理や正義に近づこうとするコンセンサスづくりにおいては大きな力を発揮するのではないか。「絶望」の正体を知っていればこそ、つぎのステップが見えるのだ。「凡夫」は、「末世」にも、いや「末世」だからこそ有効な人間観ではないだろうか。

あま・としまろ 1939年生まれ。京大教育学部卒。NHKディレクターを経て明治学院大教授。現在、同名誉教授。著書に『日本人はなぜ無宗教なのか』『仏教と日本人』(以上ちくま新書)『歎異抄』(ちくま学芸文庫)など。