縁起の考え方
立川 武蔵 たちかわ・むさし  2009年4月18日(土曜日)中日新聞「人生のページ」より
変化たどるが根本はひとつ
「ものが依りあう」世界観 [上]

 「縁起」とは、しばしば吉凶の前兆や社寺の由来などの意味に用いられるが、本来は仏教の根本思想を指す。
 仏陀(紀元前4、5世紀)は、ものごとは縁起(縁りて起きること)の法則によってあると考えた。宇宙の根本(梵ぼん)や神という不変の実在に依[よ]ってこの世界が生まれたのではなく、無常なる人間の行為に依って世界があると考えた。
 初期インド仏教(仏陀以降、紀元前後まで)の縁起説の代表に十二縁起がある。これは人間の誕生から死までを「Xに依ってYがある」という因果関係の連鎖によって語っている。
 第一項である無明むみょう(迷い)に依って第二項の行ぎょう(勢い)があり、行によって識しき(認識)があり、というようにして、名色みょうしき(名称と対象)、六処ろくしょ(眼・耳・鼻・舌・皮膚・意)、触しょく(対象と感官の接触)などが順次生まれ、最後に第十二項の老死があるという。
 この縁起説は人間の生のあり方を説明する一方で、老死に対処する方法をも示している。つまり、第十一項がなくなれば第十二項はなく、第十項がなくなれば、第十一項はない。それゆえ第一項までのすべての項がなくなれば、老死はなくなるという。
 老死がなくなるといっても不老不死の仙人になるというのではない。生まれた者は必ず死ぬ、とは仏教の前提である。「私は死から免れたい」という迷い(無明)をなくせ、と仏陀は教えた。


 十二縁起では「無明によって行がある」というように無明から行への方向が見られたが、その逆の方向はなかった。だが、紀元後に台頭した大乗仏教では、「Xに依ってYがある」という縁起説が登場した。
 大乗仏教の思想家〝龍樹〟(2〜3世紀)は「行為に依って行為者があり、行為者に依って行為がある」という。彼は行為と行為者の間に縁起の関係を認めた。さらに「花が白い」という場合、その花と白いことも縁起の関係にあると龍樹は考えた。このように大乗仏教において縁起は、従来の十二縁起の思想に加えて、世界の構造一般をも説明する思想ともなった。
 龍樹にとって世界は、われわれの感覚器官を通して獲得した情報を言葉によって構成したものであった。彼は感官の外に外界が実在するとは考えなかった。彼にとって縁起の関係にある二つのもの(XとY)は、文章における主語と述語として表現される。たとえば、「この花は白い」という文章が述べられた際、この花(主語)と白いこと(述語)とは縁起の関係にあると考えられる。
 言葉によって構成された世界は悟りを得るために一度は否定されて空へと至らねばならない、と龍樹は考える。
『般若心経』の「色即是空」も同じことを意味する。つまり、迷いの世界(色)は空でなくてはならない。空に至った言葉は浄化されてよみがえるのである。このように、縁起とは、単にものが相互に依存しているというのではなく、迷いや執着を否定して新しい生の蘇[よみがえ]りを求める思想なのである。
 後世、中国仏教では縁起の関係にあるものの相即関係が強調された。XとYとが互いに依存するのみではなくて、XやYそれぞれの中に世界一切が含まれている十いう。「一即一切、一切即一」という表現が中国仏教で好まれることはそのことを示している。
 中国仏教では、ともかく世界は存在する。インド仏教のように「すべては空である」というようには考えない。日本人たちは中国仏教を通して縁起思想を理解してきたように思われる。


 このように縁起の思想は時代や地域によって変わってきた。しかも、ものが依りあって存するという世界観であり、執着やむさぼりを否定するという実践論でもあることに変わりはない。今日われわれは縁起の思想をどのように受け入れ、実践すべきなのか、考えたい。

世界は「聖なる」統一的生命体
自己否定からの蘇生必要 [下]

 「縁起の考え方」[上]では、この世界が人間の行為の積み重ねによって作られたものであること、その世界は一度は否定されて新しいよみがえりを求めねばならないことを見た。また特に中国や日本の仏教において、世界の中のもろもろのものが互いに依存している、つまり縁起の理法によって貫かれていると考えられていることも見た。
 このような縁起の考え方を今日われわれはどのように受け継ぐべきなのか。
 インドの仏教と中国、日本などの東アジアの仏教との大きな違いは、世界観の相違に基づいている。たとえば世界が仏の身体であるというように、世界が有機的な統一体であるという考え方はインド後期仏教にないわけではないが、この考え方は中国、日本の仏教でよりいっそう顕著である。
 この違いの原因はインドと東アジアとの自然観の違いにあると思われる。中国や日本の仏教における世界観はそれぞれの地域の自然観を反映している。山、川、樹木さらに小石にさえも生命あるいは精霊の存在を認めることは中国や日本において普通のことである。さらに、自然の中のあらゆるものが相即(対立するように見えて一体不離)の関係にあるとわれわれは考えている。このような考え方は仏教の縁起理論と相通じるものがある。というよりも中国人や日本人はそれぞれの自然観によって仏教を受容したというべきであろう。
 東アジアの仏教におけるこのような「縁起的自然観」にあっては、自然あるいは世界が「聖なるもの」としての価値を有する。世界は人間たちが住むための単なる容器ではなく、人間が快適な生活を送るための素材に過ぎないというわけでもない。人間と動物たち、そして山も海も共に生きる縁起せるもの(縁起体)なのである。
 このような縁起観は、世界の人々にとって意味ある考え方だと思う。この縁起的自然観は、インドにおける初期仏教の縁起思想とはいささか異なっており、初期仏教の伝統を今日まで守っている東南アジアのテーラヴァーダ仏教(上座仏教じょうざぶっきょう)の人々には奇異に聞こえるかもしれない。しかし、この縁起的自然観は、今日、東アジアの仏教が世界に向かって発信できる思想の一つなのだと思う。
 仏教の思想は、他の宗教と同様、歴史の中で変化してきた。われわれは自分たちをつちかってきた伝統の中にありつつも、伝統の中から自分たちにとって必要なものを選び出し、それを育てて発信していかねばならない。
 しかし、この東アジアの縁起観には弱点がある。というのは、仏教は当初からおおむね一個人と世界との関係に終始してきた。つまり、仏教は多数の人間たちが社会を形成しており、その中の個体が悟りを求めるべきであるという観点にはたってこなかったのである。
 仏陀の出発点が人間の老死にいかに対処すべきであるかということであったゆえに、それはいたし方ないことかもしれない。十二縁起の思想に見られるように伝統的に仏教は死に向かう一人の人間が煩悩(心の汚れ)などを除いていく過程を重視したが、自己と他者との交わり、一つの集団と他の集団との関係に対してはそれほどの関心を払ってこなかった。今日、われわれは人と人とが依りあって社会を形成していることも縁起の一つのあり方と解釈することができる。


 今日の仏教徒たちは、仏教の伝統にしたがって自己が言葉によって構築した世界を一度は否定しなければならない。この自己否定によって自己は縁起なるものとしてよみがえることができる。
 他者がもしも存在しないならば、自己も存在しない。自己が真に自己であるためには、他者の中で否定されてよみがえる必要がある。
 集団もそれ自体の意志をもち、行為をなす場合、縁起せる世界に留意すべきである。企業、地方自治体、そして国家なども「自己」に対して反問を行う必要がある。今こそ、人類全体が自分たちのなしてきた、あるいはこれからなそうとする行為に対して反問を行うべき時である。
 東アジアの縁起的自然観にあっては、自然あるいは世界が「聖なる」統一的生命体であると先に述べた。これは縁起の法則に従った際の結果を先取りして自然に照射しているのである。
 縁起は、自然を含めた世界が統一的生命体であり、その一部にすぎない人間たちが自らの言葉によって構築した世界を自己否定によってよみがえらせるべきことを教えている。

たちかわ・むさし 1942年、名古屋市生まれ。名古屋大卒。文学博士(名古屋大学)。Ph.D.(ハーバード大)。現在、愛知学院大教授。国立民俗学博物館名誉教授。2008年春紫綬褒章。専門は仏教が苦。著書に『ブッディスト・セオロジー』(5巻/講談社)など。