#7-2 真実

炎

 月 日
 今日『彼女が死んだ』と大学病院の知人から連絡が入った。
 思ったほどショックは大きくない。普段と変わらぬ平静さでその知らせを聞いた。
 不用意に使っていたライターで火事を起こしたということだった。
 炎に巻かれて逝く。彼女らしい逝き方だと言えるのかもしれない。
 だが、本当に事故だったのだろうか。不妊治療がうまくいかなかったせいならば俺にも責任の一端はあるのかもしれない。
 しかし、彼女は子供ではなく、『分身』を残したのだ。世界の誰もがなしえなかったものを。
 そして、それは小田切ではなく、この俺の手に残された。
 それだけで、俺は満足だ。

 月 日
 あの子が初めてしゃべった。
 第一声は『えーじ』
 そうだ、俺の名を呼んでくれたのだ。まだ歩くことさえままならぬ彼女のその小さな手で、俺の顔を撫でるようにして、そう言ってくれたのだ。
 このために俺は奇跡を起こしたのだ。
 生まれ変わった彼女は、俺だけのものだ。決して誰にも渡しはしない。これからも俺の名前だけを口にするのだ。

 月 日
 初めての七五三。晴れ着を着たあの子と近くの神社に参拝する。
 あの子は階段の途中でこけて、晴れ着を汚したのをいつまでも気にしていた。他の子供が持っている飴を買ってやってようやく気がそれたようだったが、その飴を大事そうにかかえて、家に戻っても食べようとはしない。
 相変わらず表情が乏しいのが気にはなるが、時折俺に見せる笑顔が全てを振り払ってくれる。

 月 日
 今日は彼女の四周忌だった。この日に小田切と会うようになって、三年目だ。
 しおれている奴の姿を見るのは、何とも言えない快感だ。奴はいまだにショックから立ち直っていないように見える。自業自得だ。奴が彼女を殺したのも同じことだ。
 それに比べて俺は。何度も口をすべらせかけて、あの子のことを言いそうになる。
 ひたすら過去にひたるだけの男を眺めるのは、動物園の猿を見る以上に飽きないものだ。ついつい飲み過ぎる。

 月 日
 なぜだ。日に日に疑問は深まってゆく。なぜこの子は彼女とこうも違うのだ。
 彼女はこんな殺伐とした目をしていなかった。彼女の声はこんなに平坦ではなかった。彼女の性格はもっと‥‥
 なぜだ。俺は焦りすぎているのか。
 成長すれば、孵化するようにあの彼女が俺の目の前に現れるのか。俺はそれまで待たねばならないというのか。
 同じ加奈子を手に入れたと思っていたのに‥‥

 月 日
 最近、あの子がしきりに不調を訴える。身体のではなく、「心」の不調だ。しばしば幻覚を見るらしい。幻覚を見ている間は誰か他の人物になりきっているようだ。
 特異症状なのか。それとも、それとは関係ないのか。先例がないだけに全く判断がつかない。
 明日にでも知り合いの精神科医に連れて行こう。

 月 日
 あの子の態度がおかしい。急変した。俺への態度に敵意が垣間見える。
 いくら理由を聞いても曖昧な返事しか返ってこない。あの子も来年は中学生だ。反抗期というやつだろうか。時が来れば、あの彼女に戻るのだろうか。
 ‥‥なぜ、こんな風になってしまったのだ。何が悪かったというのだ。俺はただ、同じものが欲しかっただけなのに‥‥


 小田切はページを閉じた。カルテの所は読み飛ばしたが、もう限界だった。まだ幾らか残っていたが、目はチカチカするし、頭も痛い。これ以上はとても読めそうになかった。
 一気に野沢の十二年を辿り、小田切は頭の中がまだ混乱していた。
 ここに書かれていることが本当だとしたら、
 彼女は、カナは、加奈子の‥‥
 その次に来る事実を小田切は受け止めることができなかった。
 複製
 あり得ない。
 小田切は目に痛みを感じながら日記の表紙を睨みつけた。
 クローンとは、本体と同じ遺伝情報を持っている個体のことである。自然界では一卵性双生児がそれに当たるが、人為的に作ることも不可能ではない。
 畜産業界などでは優秀な家畜を作る目的で牛などのクローン作りが現実に行われている。だが、それは同一の受精卵を分割し、その分割した細胞の核を他の細胞へと移植・培養する方法によるもので、言わば個体発生前の段階から同じ遺伝形質を持つ生物を並行的に作ろうとする試みである。
 それに対し、既に存在している人物の複製を作ろうとするSF的発想のそれは、成体の体細胞の核を、あらかじめ核を抜いた受精卵に入れることによって作られる。
 だが、それも当然成体として生まれてくるわけではない。
 そして、現在では成体からのクローン作りは哺乳類では不可能とされている。
 この日記が事実なら、野沢はそれを十年以上前に成功させていたことになる。いまだ世界で誰も成功したことのない偉業を。それも、加奈子の細胞を使って。
 そんなこと、あるはずがない。
 小田切は何度も自分にそう言い聞かせた。
 加奈子のクローンを作るには、当然加奈子の細胞が必要だ。
 野沢は加奈子が不妊治療で大学病院に入院していた時、治療スタッフの一員であったから、加奈子の細胞を入手することは決して不可能ではない。
 だが、だからといって、野沢がクローンを作った証拠にはならないはずだ。
 では、なぜ、この扉の向こうにいる少女は加奈子と俺しか知らないことを知っているのだ?
 クローンは本体の記憶まで共有する?
 聞いたこともない。
 人間のクローンなど所詮夢物語だ。
 だが、理性の葛藤とは裏腹に、小田切自身の既視感はそれを既に認めていた。
 小田切は震える体を腕で強くつかんだ。
 そして、扉の前に立って彼女に話しかけた。
「そこに、いるのか?」
 返事の代わりに、しばらくして足音が近づいてくるのが聞こえた。
「おい、聞こえるか?」
 今度は少し大きな声で叫んだ。
「ええ」
「どこに行ってた?」
「用事が、あったの」
 扉の向こうからそれ以上の答えは返ってこなかった。
「‥‥君は、本当に、そう、なのか?」
「七歳の頃だった」
 彼女は淡々と話し始めた。
「砂場で遊んでた時、突然、頭の中に、幻が、飛んできた。男の人が、裸の女の人に、おおいかぶさって、激しく、動いてる。その女の人は、あたしじゃない。でも、あたし。大人の、あたし。泣いてるのか、喜んでるのか、分からない。変な、あたし。‥‥幻が消えた後、気持ちが、悪くなって、何度も、何度も、吐いたの、覚えてる」
 彼女の話に小田切は、先日彼女がマンションへ来た時のことをだぶらせた。
「他にも、初恋も、遠足も、失恋も、卒業式も、あたしは、あたしがまだやっていないことを、幻の中で、経験するの。だから、現実のあたしは、あたしの人生は、灰色の、くぐもった道を歩いていくのと、おんなじ。そんな、つまらない人生を、あたしは、生きてく、はずだった」
「野沢は、何もしてくれなかったのか?」
「あの人にとって、あたしは、あたしじゃなかった。その日記を見て、それがあなたの奥さんだって、分かった。あたしが、なぜ、生まれたのか。どうやって、あたしを造ったのか、分かった」
「‥‥」
「あたし、そんなに、そっくり? 小田切加奈子に、似てる?」
「ば、馬鹿な。この日記が事実とは、限らない。野沢の狂言でないと言い切れるのか! あいつは、おかしくなってたんだ」
 小田切の言葉は、彼女も、小田切自身も納得させることはできなかった。
「あたし、知りたかった。もう一人の、自分が。あたしの憎んだ、もう一つの、記憶が‥‥」
「‥‥野沢は、どこだ?」
「‥‥」
「野沢はどうしたんだ?」
「裏庭に、いるわ」
「裏庭?」
「迷ったけど、結局、埋めてあげたの」
「‥‥」
「だから‥‥あなたが裁くの。あの人は、あたしを、勝手に造って、勝手に、つぶすの。まるで自分が、神様みたいに。でも、あの人がいなくなったら、あたしは一人。何も、分からない。だから、裁くのは、あなたしか、いないの」
 小田切の頭は疲労の極で現実感を失いつつあった。
 何だ、これは。何がどうなっているのだ?
 裁く? 何をどう裁けというのだ?
 彼女は、俺に何を望んでいる?
 それよりも、扉の向こうのこの少女が彼を殺したということが、どうしても信じられなかった。
 その時、一瞬できた頭の空白に圭太のことが思い浮かんだ。
「そ、そうだ。圭太は、圭太は無事なんだろうな?」
「‥‥」
「日記は読んだ。約束だぞ!」
「‥‥本当に、知らないの」
「嘘もいい加減に‥‥」
「あたしは、何もやってない」
「‥‥」
 この場においてもこの少女が嘘を言っているとは思えなかった。さっきのは日記を読ませるためのハッタリだったのだ。
 では、誰が‥‥
 今の小田切の頭では、答えを導き出すことはできそうになかった。
 壁にぶち当たった彼の思考は、再びこの少女と、野沢と、加奈子のことでマーブル状に静かにうねり始めた。
 野沢がこの鍵を残していたのは、こうなることを予想していたからなのだろうか。それとも、彼女を見せつけて、俺の驚く顔を見たかったからなのだろうか。
 小田切には、加奈子のクローンを造った野沢を、そして、加奈子の死後自分をだまして眺め、楽しんでいた野沢を許しがたい気持ちがあった。
 だが、果たしてそれは死を約束される行いだったのだろうか。
 どう考えても自分にはそれを裁く権利はないように思えた。
 それを裁きうるとしたら、それは目の前の少女でしかいないのではないだろうか。
「初めから、そのつもりで俺の前に現れたのか?」
 彼女はしばらく考えるように黙り込んだ。そして
「あたしは、小田切加奈子とは、違う人間だって、あなたに、証明、してほしかった。それができるのは、あなただけだって、思ったから。でも‥‥」
「‥‥」
 小田切は観覧車の中で取った自分の行動に彼女が激しく反応した理由をようやく悟った。
「‥‥俺のせいか? 俺が悪いのか? いきなり現れて、訳も言わずにまとわりついて、脅迫して、それでも俺が悪いのか?」
「‥‥そんなこと、言ってない」
「‥‥俺には、裁くことなんかできやしない! そんな立場じゃない!」
「でも‥‥」
「野沢の尻拭いを俺にさせようっていうのか。冗談じゃない。まっぴらごめんだ!」
 何もかも放り投げたい気分だった。彼女が自分の前に現れなければ、ただただ平穏な生活が続いていたのだ。
 それなのに、妻のクローン。加奈子の記憶が、目の前に、まだ生きている。
 その現実は、小田切にとって正面から受け止めるにはあまりにも深刻で、唐突すぎた。
「ここを開けてくれ。帰してくれ! もう何の用もない。オマエの顔なんか見たくもない!」
 ドアの向こう側で床が小さなきしみを上げた。
 小田切はドアが開くのをじっと待った。
「窓から、出て」
 ここが二階だということを忘れているかのような発言に小田切は眉をひそめた。
「馬鹿言うな」
「できるだけ、早く出て」
「何を言っている、ここを開けろ!」
 彼女の足音はそれには答えず、ゆっくり遠ざかっていった。
 小田切は再びドアのノブと格闘したが、すぐに舌打ちして窓際へと駆け寄った。
 彼女は一体何をやらかすつもりなのだ。
 窓を開けると、生温かい風が部屋に吹き込んできた。
 下を見ると、暗くてはっきりとは見えないが、飛び降りて無事でいられる高さではない。死にはしないかもしれないが、骨の一本や二本の覚悟はいりそうだった。
 小田切は部屋の中を見回して、やるべきことを頭の中で組み立てた。
 ベッドのシーツとカーテンをつなぎあわせれば即席のロープになる。地上には届かないまでも、半分くらいの高さにはなるだろう。そこからなら飛び降りても何とかなるかもしれない。
 小田切は急いでロープを作ると、ベッドの足にくくりつけ、窓から下に放り投げた。
 窓枠を乗り越え、即席のロープに身をあずける。
 ロープをつたう彼の体重に、ベッドの足が悲鳴を上げるのが聞こえる。まるでアクションスターだ。
 ロープの途中で、こげ臭い匂いが鼻をついた。
 下を見ると、地面は館の両サイドからものすごい早さで火の海となりつつあった。勿論、館そのものからも炎は上がりつつある。
 火事!?
 小田切は慌ててロープを滑り下りた。手の皮がすりむけてひりひりする。
 覚悟を決める暇もなくロープの終わりがきて地面に飛び降りるはめになった。
 バランスをくずして足首をねじったが、それどころではない。
 やたらに火の回りが早かった。ガソリンの匂いが辺りに充満している。
 燃え始めた芝生の上を小田切は必死に駆けた。
 そして、門の所まで辿り着くと、ようやく後ろを振り返った。
 燃えている。白亜の館が地面から沸き立った炎で華やかに彩られていた。
 その光景の中に、小田切は彼女の姿を認めた。
 バカな!
 自分の部屋の窓から、彼女は小田切の方をじっと見下ろしていた。
 彼女が、火を放ったのか!?
 小田切は心臓に杭を打ち込まれたような気がした。自分が彼女を許さなかったから、裁くことを放棄したから、彼女は自らの命を断とうとしているのか?
 炎の中で悠然としている彼女の姿が、どこか加奈子のそれとダブった。
 これも加奈子の記憶の再現なのか?
 脚が震えていた。
 踏み出すべきか。とどまるべきか。それは一瞬の偶然にまかされているかのような気がした。
 そして、その一瞬が、訪れた。
 





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