#8-1 ReStart

ラベンダー

 白い天井。白い壁。白いシーツ。それに、白い包帯。
 ほどなく小田切は自分が病院のベッドの上にいることを理解した。
 さらに大きく視線を動かすと、隣のベッドにカナが静かに横たわっていた。
「‥‥生きてるか?」
 返事はなかった。
 彼女の目は虚ろに天井を見上げていた。
 それを見て、小田切はそれ以上の言葉を控えた。彼自身、まだ意識がはっきりしているわけではない。
 小田切は、目を閉じて白の風景を視界から締め出すと、ゆっくりと記憶を回想した。
 あの時、小田切は突然の衝動にかられ再び館に駆け込んだ。
 地面も燃えていた。館の床も燃えていた。 館の中はいつの間にかまかれた油によって至る所で炎の旋律が激しく奏でられていた。
 螺旋階段を駆け上がる小田切の目に炎の中の加奈子の優しげな微笑みが飛び込んできた。
<あなたは、大丈夫>
 そう、彼女が励ましてくれているような気がした。
 二階の炎のまわった部屋で、カナは人形のように放心していた。ベッドの上で膝を抱えた彼女は、炎との結婚を静かに待っているように小田切には見えた。
 彼が彼女の両肩をつかんだ時も、彼女は魂が抜けたように反応しなかった。
 そして、そんな彼女を力まかせに背負って小田切は一層激しくなった炎の中に突っ込んでいったのだ。
 それからのことは小田切も覚えていない。
 だが、二人ともこうして生きている。運がよかったとしか言いようがない。
 包帯だらけになった自分の身体を見て、あらためて背筋が寒くなった。
 包帯姿なのは彼女も同じだった。あとに残らなければいいのにと小田切は真剣にそんな心配をした。
 窓の外の日差しがやけにまぶしかった。鳥のさえずりも別世界のことのように感じられる。すべてが重力の影響を離れ、自由の世界に遊んでいるようだ。
「野沢は、いつかこうなることを覚悟していたのかもしれない。自分がしたことの過ちに、きっと気づいていたんだ。君がやったことは、きっと加奈子が背負ってくれる。だから、君は、君の命は‥‥君のものだ」
 小田切は独り言のようにそうつぶやいた。
 そう言ってから、小田切は心の奥がうずくのを感じた。
 野沢だけではない。命と向き合うことができなかったのは自分も同じではないか。
 医者をあきらめたのもそうだ。いろんな理由をこじつけてはみたが、結局は他人の命に責任を持つことができなかったのだ。いや、他人の命に関わることが怖かったのだ。
 止まってしまうかもしれない。血が吹き出すかもしれない。すべての失敗が頭をよぎった。それを考えると、メスを入れるのがひどく怖かった。
 そして、圭太の時も・・・・・・
 ほおっておけば廃棄されていた受精卵。無事生まれてくる可能性はほとんどなかった。
 だが、その生命の源を自分の決断で廃棄することができなかった。罪悪感を背負うことに耐え切れなかったのだ。
 それならば、やるだけやってしまった方がいい。どうせ失敗するに決まっている。
 自分はやるだけやった。そうなったのは自然の流れだ。体外受精など所詮邪道なのだ。そうなる、はずだった。
 だが、圭太は生まれてきた。
 本当に望んでいたわけではなかった。
 そんないい加減な気持ちでも、母親がいなくても、五年間も冷凍保存されていても、圭太は生まれてきた。
 そんな自分と圭太との距離は、途方もなく遠かったのかもしれない。
 だから、加奈子の代わりに産んでくれた姉に対しても、心の底では憎んでさえいた。どうして無事に産んでくれたのだ、と。
 自分も野沢と何ら変わりはしないのだ。
 加奈子がずっと言いたそうにしていたのは、そんなことだったのかもしれない。
「今さら、何ができる?」
 小田切はぼやける天井を見ながら、そう自問した。
 その時、彼女のつぶやきが聞こえた。
「あなた、誰?」

 病室に圭太と鮎子がやって来たのは、それから数時間が立ってからだった。
 圭太は小田切の隣にずっと無言でたたずんでいた。
 小田切が痛みに顔を歪めながら頭をなでてやると、圭太は目に涙を浮かべ、それは小田切の良心を刺すように刺激した。
 一方、鮎子は彼の突然の惨事に驚きながらも、何も尋ねなかった。
 それから鮎子は、入院の手続きから始まり、小田切の会社との連絡、小田切たちを病院に運んでくれたタクシーの運転手の家にお礼の電話をかけたりと何かと急がしくしていたが、帰る前に昨日圭太が一緒に出かけていた女性というのが、須藤由美子という女性だということを教えてくれた。
「姉さん、どうして圭太を産んでくれたの?」
 鮎子は微笑を浮かべて静かに語った。
「圭太は、わたしの血を受けついでないけど、それでも全然かまわないのよ。わたしは、あの子をお腹を大きくして産んだんだから。ちゃんと一つの生命と関わったんだからね。仕事にばっかりかまけて、自分だけの相手を見つけられなかったのは、ちょっと残念かもしれないけどねえ」
 それだけ言うと、鮎子は病室から出ていった。
 カナのことにも、由美子のことにも触れられなかったのは、小田切にはありがたかった。今はゆっくりと考える時間が欲しかった。



 小田切が入院して一週間がたっていた。
「本当にいい迷惑でしたよね」
 福田がふくれっ面で愚痴をこぼした。
 その週は小田切の不在のため仕事の殺人的なラッシュは予想以上のものとなり、福田と由美子のオーバーワークはもとより、営業の理恵や、社長の日置や元山までチェック作業に忙殺させられたのだった。
 ようやく仕事が一段落ついた今日は、皆で飲みに夜の街へと向かうところだった。
「そう言うな。包帯だらけの男に仕事に出てこいとは言えんだろう」
 そう日置が弁護した。
「でも、ホント命に別状がなくてよかったですよねえ。明日でも皆でお見舞いにいきませんかぁ」
 理恵の提案に由美子が答えた。
「確か、今日退院するって聞きましたけど」
「そうですよ、大丈夫ですよ。あの人見かけよりずっとタフですからね。何しろ、中学生を相手にするパワーがあるんですから」
 福田が半分やっかみながらそう言った。
「それはオマエも同じだろ」
 日置の指摘に一同は笑いの渦に包まれた。
 そんな会話の中、由美子はさっきからある視線に気づいていた。
「すみません、ちょっと先に行っててもらえますか」
 福田が不平の声を上げるが
「後から追いかけますから」
 そう言って、由美子は仲間の輪からそそくさと抜け出し、反対方向に歩き出した。
 すると、それを待っていたかのように、ビルの角から二つの小さな影が現れた。
 由美子は眉間にしわを寄せた。一方の人物の存在は彼女の神経をさかなでたが、あえて無視することにして、もう一人の人物に声をかける。
「どうしたの、圭太君?」
 圭太はもじもじしながら背中に隠していたものを由美子に差し出した。
 小さな白い花束だった。その意味を由美子は計りかねた。
「これは?」
「おとうさんのこと、よろしくおねがいします」
 たどたどしく圭太はそう言った。
 驚きながら由美子はちらりと隣の彼女にも視線をやった。
 すると、彼女も圭太と同じように後ろから花束を取り出した。
 品のいい紫のラベンダーだった。
「お願い、します」
「あなた、一体?」
 何か言いたそうにしながらも言葉が出てこない由美子を見て、少女は不思議そうに首をかしげた。
「ボクのおネエちゃんだよ」
 あどけない口調で圭太が言った。
「あたらしくね、おネエちゃんになったの」
 由美子はぽかんと少女を見つめた。
「お父さんの、お見舞いに、来てあげて下さい。お願いします」
 少女はそう言って頭を軽く下げた。
 しばらくの逡巡の後、由美子はにっこりと笑って言った。
「行くわ。‥‥よろしくね、二人とも」
 由美子の瞳に映った二人の笑顔は、人形のそれではなく、天使のようにまばゆく輝いていた。




END


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