#7-1 沈黙の館

ライト

 タクシーが一時間ほど走って着いたところは、ここが都内かと思えるほど寂しい場所だった。明りも少なく、未舗装の道路を挟んで畑と林が長々と続いていた。
 その林が切り開かれた場所に、その館はあった。
 小田切は「NOZAWA」と書かれた表札を門の所で見つけ、安堵した。こんな所までやって来て、万が一違っていたらどうしようかと思っていたところだった。
 小田切は門の所にタクシーを待たせて、館に近づいていった。
 門の向こうには、ただ切り開かれただけの敷地が広々と広がっており、その奥に二階建ての古い白亜の洋館が暗い林を背に重々しく腰を据えていた。明りは館のどこからも見えず、月明りの他は道路沿いの電柱から届く光が唯一の光源だった。
 こんな所に住んでいたのか。
 都心から多少離れているとはいえ、広さといい、建物といいなかなかのものだった。
 小田切は自分の2DKのアパートと比較して肩をすくめた。
 館の中央には、大きな鉄の扉が来訪者を拒むようにいかめしく閉ざされていた。呼び鈴らしきものは一向に見当たらない。
 小田切は拳を握って、その鉄扉を叩いた。
 鈍い音が響いただけで、中からの返事は何もなかった。
 もう寝ているのだろうか。それとも留守か。あるいは‥‥
 小田切はポケットの中の鍵を握り締めた。
 もう一度扉を叩いてみたが、やはり返事はなかった。
 留守でも入れ、ということだろうか。
 小田切は困惑しながら、それを鍵穴に差し込み、ゆっくりと回転させた。確かな手ごたえを感じると、力を入れて小田切は扉を引いた。
 !
 扉は、小田切の意志に反して開こうとはしなかった。
 ‥‥
 小田切はもう一度、今度は逆の方向に鍵を回した。すると、再びガチャリ、と重い音が響いた。
 小田切はゆっくりと扉を引いた。今度は予想通り、扉は不気味な音を立てて館への入口を開いた。
 扉はもとから開いていた。その事実は館の中へ入ることを小田切に余計に躊躇させた。
「ごめんください‥‥」
 暗いホールに向かって、小田切は見知らぬ他人の家のように小声で呼びかけた。
 小田切の直感は家人が留守であることを告げていた。
 出直して来るべきか。
 そんな思いが小田切の心をよぎった。
 だが、明日からは仕事が忙しくなるため次にいつ来られるかは分からない。その間、野沢の残したこの謎に耐えられるかどうか自信がなかった。
 鍵を渡されているのだから、少なくとも不法侵入ではないはずだ。
 そう考えると、小田切は意を決して、暗闇の中へと踏み込んだ。
 がらんとしたホールの奥は、左右にのびる廊下と二階への階段が、さらに深い闇をまとって小田切を待ち受けていた。
 小田切は左の廊下を進むことにした。
 窓から差し込む月明りのおかげで、探索行はかろうじて可能だった。
 それでも、板張りの廊下は一歩歩く度に不気味な音をたて小田切の心臓を締めつけた。
 これではまるで肝だめしだ。
 廊下の片側に並んでいる部屋を順次のぞいていく。一見普通の家庭の居間とバスルームだが、人のいる気配はなかった。
 野沢はどこに行ったのだろうか?
 左端は大きさからして物置きらしい鍵のかかった小部屋だった。
 小田切は折り返して反対側の廊下も見てみることにした。
 長い廊下を歩きながら小田切は思った。
 都内にこれだけの家を持つとは、医者とはやはり儲かる職業なのだ。
 翻訳業とは雲泥の差だと今さらながら実感させられた。
 反対側の一つ目の部屋には、何やら器具類が雑然として置かれていた。暗闇の中、近づいて目をこらすと、小田切はそれが自分にも多少のなじみがあるものだと分かった。
 それは様々な医療器具であった。ものによっては最新型らしいものもある。
 野沢が開業医をしているとは聞いていなかったが、そういう雰囲気ともどこか違うような気がした。
 疑問には思ったが、小田切は照明のスイッチを探そうとはしなかった。
 もし、誰かいたら‥‥
 いるとすればそれは野沢のはずだが、それでも小田切は心の中の後ろめたさを消すことができなかった。
 次の部屋に入った時、部屋の奥からぼうっとした明りが小田切の目に飛び込んできた。
 小田切は一瞬身構えたが、それ以外何の反応もないと分かると、その光を目指しゆっくりと進んでいった。
 すぐに、それは開けっぱなしにされた冷蔵庫の内光であり、その部屋がダイニングルームであることが分かった。
 その中で大型の冷蔵庫の一番大きな扉だけが、自己の存在を主張してだらしなく口を開いていた。
 誘蛾灯にひかれる蛾のように小田切はその中をのぞき込んだ。
 そして、反射的に顔をそむけた。
 生理的に拒絶する異臭が、そこからは漂っていたのだった。
 顔をしかめてもう一度中を確認したが、中は空っぽだった。上の二つのドアも開けて見るが、卵の一つさえも入っていない。それに加え、霜が溶けたのか、冷蔵庫の周りの床が水浸しになっているのが不気味だった。
 小田切はそそくさとその部屋を出て、中央のホールまで戻って来た。
 こんな所で俺は一体何をしているのだろう。野沢もいないし、これ以上ここにいても無意味なのではないだろうか。
 そう思いながらも、ここで引き返すことにも同様にためらいを感じていた。
 怖いもの見たさ、か‥‥
 小田切は自分にもそういう面があったことを興味深く思いながら、呼吸を整えて、階段を上った。
 螺旋の階段を上っていると、壁に大きな絵が掛けられているのが目に入った。人物画らしいが暗くて詳細は見て取れない。
 二階も下と同じ造りらしく、両側にまっすぐ廊下が延びていた。
 小田切は再び左に進んだ。
 一つ目の部屋にはかすかに人の生活感が感じられた。
 奇妙な感じだった。部屋は、女の子の部屋なのだろうか、ぬいぐるみや人形であふれているのに、そこからは妙に硬い印象しか受けないのだ。
 そう、部屋の主とは別の意志でそこに置かれている、そんな感じだった。
 勿論、野沢の部屋であるはずもない。
 娘が、いるのか?
 娘がいるなどと彼から聞いたことはなかった。それ以前に結婚したとも聞いていない。
 思えば、野沢は自分のことはほとんど話そうとはしなかった。
 部屋の中を歩いていると、何かを踏ん付けた感触があった。
 足下を見ると、紙片が落ちていた。
 小田切はそれを拾い上げると、窓辺に近寄り、月明りに目を細めた。
 !
 引き裂かれた写真の中の人物に小田切は確かに見覚えがあった。
 加奈子
 それには、若かりし頃の彼女が野沢とともに写っていた。
 野沢はまだ加奈子に未練があるということか。いや、それを破り捨てているということは、もう‥‥
 そう思うと、複雑な気持ちだった。
 だが、よく考えるとなぜそんなものが、ここに落ちているのか。小田切にはどうにも説明がつかなかった。答えは野沢自身の口から聞く他はなさそうだった。
 部屋の外に出た時、どこからか不気味な音が聞こえてきて、小田切は足を止めた。
 キィ  キィ  キィ
 ゆっくりと続くそれはしだいに小さくなり、そして、とうとう聞こえなくなった。
 幻聴だ。いや、この建物ならどこがきしんでもおかしくはない。
 そう自分に言い聞かせ、小田切は床にはりついた自分の足を強引に引きはがした。
 彼の恐怖心と好奇心は天秤の上で小刻みに揺れていた。
 階段の所まで戻ったところで、その先の部屋のドアが開いたままになっているのを見なければ、そのまま階段を下りてしまっていたかもしれない。
 そこは書斎のようだった。
 野沢の部屋だ。小田切の直感がそう告げていた。
 しっかりした造りの机と壁一面を埋める書棚。机の上には高価そうなパソコンとプリンターが置かれていた。
 小田切は手探りで照明のスイッチを探した。もう尻込みはしていられなかった。野沢の身に何があったのか。それを知る手がかりが埋もれているに違いないこの部屋では、明りをつけるのをためらってはいられなかった。
 しばらくして小田切は机の上の電気スタンドのスイッチをみつけた。
 机の周りだけがぱっと浮き上がった。
 手始めにパソコンの電源を入れてみたが、それは何の反応も示さなかった。不思議に思ってじっくり調べてみると、電源が入っていないことをつきとめた。いや、それ以前に電源コードが抜かれていて、きれいにまとめられていたのだ。
 はっとして、小田切は今まで見てきた部屋を思い出した。
 どの部屋も同じようにきれいに整理整頓されていて、使われている気配がなかったのだ。この部屋もその例に漏れなかった。
 ここにはもう、いないのか? それとも、家具や電気機器などがそのままになっていることを考えれば、長期の不在と見るべきなのだろうか。
 小田切は電気スタンドの灯りを書棚に向けた。膨大な医学書と、彼の日記がきれいに並んでいるのが分かった。
 多少ためらったが、小田切は日記のうちの一冊を取り出して、机の上でそれを開いた。

 月 日
 あの子が初めてしゃべった。
 第一声は「えーじ」

 「えーじ」野沢の名だ。やはり子供がいたのか。
 さらに読み進もうとした時、再び小田切は何かがきしむ音を耳にした。
 キィ  キィ  キィ
 風できしんでいるだけだ。そう言い聞かせてみても無駄だった。その音は今度は確実に小田切に近づきつつあった。
 誰だ、野沢なのか?
 鼓動の早まるのを自覚して小田切はじっと待った。いや、体が硬直してただ待つしかできなかった。
 半開きの扉を凝視する小田切の目に、その扉がゆっくりときしんで開いた。
 ドアの向こうにはじっと小田切を見ている人影があった。
「誰だ!?」
 他人の家であるにもかかわらず、小田切はそう叫んだ。
 小田切は暗闇に目を凝らし、そして、愕然とした。
「‥‥どうして、君が?」
 ドアの陰からは、今朝見たばかりの白のワンピースをまとった少女が現れた。
「あなたこそ‥‥」
 なぜ、彼女が野沢の家に?
 まさか‥‥
「読んだのね」
 そうつぶやいたカナの視線は、小田切を通り越し、机の上に注がれていた。
 反射的に小田切は今まで読んでいたページを閉じた。
「もう、会わないつもり、だったのに」
「違う、俺は、野沢から、伝言と鍵をもらって‥‥」
 自分の言葉に何かしら弁解じみたものを感じながら小田切は次の言葉を探した。
「これは‥‥一体、どういうことなんだ?」
 カナはゆっくりと小田切のもとに歩み寄り、もう一度机の上の閉じられた日記に視線を落とした。
「最後まで、読んでないのね?」
「それより、野沢はどこにいるんだ? 君は野沢の‥‥」
 彼女の瞳に小田切は言葉を失った。その瞳は、今にも割れてしまいそうなぐらい硬い光を発していた。
「‥‥最後まで、読んで。そして‥‥あなたが、裁くの」
 裁く‥‥?
 小田切はその言葉に不吉な音 色を感じとった。
「それとも、あたしと子供でも、作る?」
「‥‥」
「冗談よ」
 彼女はにこりと笑いもせず、そう言った。
「これも、そうだから」
 彼女は書棚に並べられた日記の並びを指さした。
 小田切が茫然としていると、彼女はいつの間にか部屋から出ようとしていた。
「おい?」
「外で、待ってるから」
 ドアが大きな音を立てて閉まり、鍵の閉まる音が聞こえた。
 慌てて小田切はドアに駆け寄った。
「どういうつもりだ!」
「右手に、明りのスイッチ、あるから」
 しばらくドアノブと格闘した挙げ句、どうやっても開かないと分かると、小田切はしだいに落ち着きを取り戻し始めた。
 一体、どうなってるんだ。なぜ彼女がここにいる? 野沢とどういう関係なんだ?
 底の見えない激しい疑問の渦からようやくのことではい出すと、小田切は壁のスイッチをみつけ、部屋の明りをつけた。
 印象は大して変わらなかった。殺風景な部屋だ。学者の部屋といってもよい。
 ここで野沢は何をして暮らしていたのだろうか。
 それも日記を読めば分かるのだろうが、それにしても何年分あるのだろう。
 小田切は書棚に並んだ日記を見てため息をついた。
 小田切は、思い出したように懐の携帯電話に手をやった。
 この日記の量では長期戦になるのは確実だった。待たせたタクシーは帰ってしまったかもしれない。これでは明日の朝帰れるかどうかもあやしいところだった。取りあえず、圭太に一言伝えておきたかった。
 腕時計を見ると既に十一時半を回っていた。眠っている圭太を起こすつもりで小田切は電話をかけた。
 意外なことに、電話はすぐにつながった。
「お父さんだ。すまないが、今日は帰れそうに‥‥」
『恭助かい? ちょっと、どういうことなんだい?』
 予想に反して電話に出たのは鮎子だった。
「姉さん。来てたのか」
『それより、圭太、一緒じゃないのかい?』
 嫌な予感がした。
「そっちで寝てるだろ」
『いないのよ。ボードに、お姉ちゃんと出かけてきますって書いてあるけど。もう、こんな時間だよ』
 声から姉が相当に動揺しているのが分かった。
『誰なんだい、その「お姉ちゃん」っていうのは? おまえ、まだ野沢さんと一緒なのかい? 早く帰って‥‥』
「心配しないで。圭太のことは心当たりがある。姉さんは休んでて下さい」
 そう言うと小田切は一方的に電話を切った。そして、ドアの向こうを睨みつけた。
 まさか、ここまでやるとは‥‥
 小田切はもう一度ドアを叩き、声を張り上げた。
「おい! 圭太をどこへやった?」
 返事はすぐに返ってきた。
「何のこと?」
 言葉通り彼女はずっとドアの向こうにいたらしかった。
「とぼけるな! 圭太を連れ出したろう。どういうつもりだ、誘拐じゃないか! 冗談ですまされることじゃないぞ、分かってるのか!」
 一気にまくしたてて小田切はせき込んだ。
「何のこと? それより、日記を‥‥」
「フザけるな! 圭太を返せ! 何なら、ここから警察に電話することだってできるんだぞ!」
 返ってきたのは沈黙であり、小田切は相手の痛いところをついたのを確信した。
「いいのか、何をたくらんでるかは知らないが、警察が来たら‥‥」
「そんなことしたら、あの子、どうなるかしら」
 一転した少女の態度に小田切は絶句した。
 そして、歯ぎしりしながら妥協点を探す。
「読めば、日記を読めば、圭太を返してくれるのか?」
 ドアをはさんで長い間があった。
「‥‥‥‥そうね」
 彼女のかぼそい声に小田切は苛立ちを強めた。
「そうなんだな!」
 今度の間は先よりも短かった。
「‥‥そうよ」
 落ちつけ、いつもの彼女のしゃべり方じゃないか。関係ない。圭太は戻ってくる。
 しかし‥‥どうして俺が、圭太が、こんな娘 に手玉にとられなければならないんだ。
 小田切はその理不尽さが際限なくかき立てる苛立ちを必死で抑えようと、腕に爪を立てた。
 とにかく、まずは、これを読むことだ。
 小田切は書棚から日記を取り出し、机の上に積み上げた。全部で十二冊になった。
 読んでやる。こんな日記が、何だというんだ。
 パラパラとめくった日記の大半は、日記というよりカルテに近いものだった。一人の患者のものらしいが、その世界から随分と遠ざかっている小田切には半分も分からなかった。色褪せた紙が、何年も昔のものだということだけを教えてくれていた。
 そして、その合間に野沢の言葉が綴られたページがあった。






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