#6−3 旧友

バー

 日は既に落ち、通りにはむし暑い夏の空気だけが漂っていた。
 いつもの店は、相変わらず客も少なくさびれた風で、こんな風に一年に一度の顔合わせにはおあつらえ向きの場所だった。
 小田切はカウンターのはじに席を取り、ボトルを一つ注文した。これも例年のことだ。二人でこれを空けるのはそんなに難しいことではなかった。
 だが、今年はどうだろうか。小田切は自分の齢を考えて苦笑した。
 頭上を通過する列車が刻む心地よいリズムに身を浸しながら、小田切は時折入れ替わる客をぼんやりと眺めていた。
 いつの間にか灰皿には吸い殻が山のようになっていた。
 店の時計が十時を指しているのが目に入る。視線を落とすと腕時計も当然のように同じ時刻を指し示していた。
 仕事が忙しいのか。それとも日にちを間違えているのだろうか。
 小田切はそう思ったが、この日の約束にこれほどまで一方が遅れたことはなかった。これはもはや二人にとって神聖な儀式にも等しくなっていた。
 電話の一本でも入れて確認したかったが、あいにく野沢の住所も電話番号も、小田切は知らなかった。大学病院の電話番号なら分かるが、そこをやめていることは彼との以前の会話で分かっていた。
 小田切はバーの電話を借りて自宅へかけてみることにした。ひょっとしたら、何か連絡が入っているかもしれないと思ったからだ。
 呼び出し音が二十秒程続いたが、電話には誰も出なかった。
 小田切は別れ際の圭太の眠そうな顔を思い出し、あきらめて電話を置いた。
 結局、彼にできることは、ここで待ち続けるか、あきらめて帰るかの二つに一つしかなかった。
 小田切が元の席に戻ろうとした時、店のマスターがカウンター越しに声をかけてきた。
「お客さん、毎年、いらしてる方ですよね」
 初老のマスターと注文以外で言葉を交わすのは、小田切はこれが初めてだった。
 小田切はアルコールで火照った頭で小さくうなずいた。
「お連れの方からこれを預かっております」
 マスターは小田切に一通の黄ばんだ封筒を差し出した。
 封筒には『小田切恭助様』と書かれていた。野沢の筆跡であることが一目で分かった。
 封を切ると、中には古めかしいカギと都内のある住所の書かれたメモが入っていた。
 マスターの話では、野沢はもし自分がこの日十時までこの店に現れず、何の連絡も入らなかった時、連れの男がここにいるようなことがあったらこれを渡してくれと言って、昨年この封筒を自分に託したということだった。
 どういうことだ?
 去年、野沢に変わった所があったかどうか小田切には思い出せなかった。
 それとも、この封筒とは別に野沢の身に何かあったのだろうか。あるいは、単にもう俺と会う気がなくなっただけのことなのか。
「他には何か言ってませんでしたか?」
 小田切の問いにマスターは首を横に振るだけだった。
 つまり、この住所へ行ってみなければ何も分からないのだ。
 こんな夜遅い時間にも関わらず、妙な不安が小田切を行動に駆り立てた。
 彼は支払いを済ませると、大急ぎで大通りに出てタクシーを拾った。




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