#6−1 遊園地

観覧車

 トゥルルルルル‥‥
 トゥルルルルル‥‥
 翌朝、小田切は目覚ましと間違えそうな電話の音で目を覚ました。彼は眠たい目をこすりながらベッドから起き出した。
「もしもし」
 多少の不快感を持って取った電話は小田切に対して無言だった。
 壁の時計を見ると、七時を少し回ったところだった。
 うんざりして今度は少し強く言った。
「用がないなら切りますよ」
 そう言って受話器を置こうとした時、返事があった。
『あるわ』
 その一言は小田切の眠気を吹き飛ばした。完全な不意打ちだった。
 小田切は咄嗟に圭太がまだ起きていないことを確認すると、一呼吸おいて更なる不意打ちに備えた。
「‥‥それで?」
 にもかかわらず、彼女の言葉は小田切の意表を突いたものだった。
「ゆうえんち?」
 小田切はその言葉を口に出して反芻した。何というか、彼女には似つかわしくない単語に思えたからだ。
「まさか、行くのか? 俺と、君が?」
『‥‥』
「今日は、用事がある」
 さすがに妻の十二周忌だけははずすつもりはなかった。いくら相手が彼女でもこれはゆずるつもりはなかった。
『知ってるわ』
「‥‥」
 だが、カナに会って話したいことがあるのも事実だった。それは妻の加奈子にも関係することだ。
 言い訳がましいとは思いながら、小田切はその誘惑を容易に振り払うことはできなかった。
 彼女は受話器の向こうで黙り込んだまま小田切の言葉を待っていた。
 最後には例の写真を切り札に持ち出してくるのだと思うと、食い下がるのも時間の無駄のように思えた。
 妻の実家に行くのは多少遅れても問題ないだろうという結論に達し、小田切は心を決めた。
「午前中いっぱい。場所もこっちが決める。それでいいか?」
『いいわ』
 小田切は都心の遊園地を選び、待ち合わせの時刻を伝えた。
 電話を切ると、小田切は一人で簡単な朝食をとり、支度を整えた。
 圭太が起きるまでにはまだ時間があった。どちらかと言えば寝ていてくれた方が都合がいい。
 小田切は台所にかけてあるボードに圭太に伝言を残して家を出た。
 小田切は自分の奇妙な気持ちに気づいていた。
 怖くもあり、待ち遠しくもある。初めてのデートがこんな気分だっただろうか。
 そう思うに至って小田切は愕然とした。
 どこの誰とも分からぬ女子中学生と会うだけでここまで浮かれるとは。自分も立派な中年になったものだと苦笑するしかなかった。
 遊園地入口に着いたのは約束の三十分も前だった。
 空をあおぐと、昨日の天気はすっかり回復し、都会の青空がきれいに広がっていた。
 約束の五分前になってようやくカナがやって来た。だが、小田切は最初、それが彼女だと分からなかった。
 彼女はいつもの見慣れた制服姿ではなく、白いワンピースに身を包んでいた。
 繊細なイメージが増幅され、まるで人形のようだと小田切は思った。
 その姿に新鮮な驚きを覚えながらしばらくの間見とれていたが、彼女と視線が合うと、せき払いをして小田切は言った。
「いきなり困るな。こっちにも予定というものがある」
 見返す彼女の瞳がまた内心を見透かしているようで落ち着かなかった。
「‥‥たまには、遊園地も悪くないがね」
 そう言って、彼は入場券を二人分買った。
 朝一番の遊園地は活気がもの足りないようにも思えた。
 遊園地ではどんな不自然なペアも人ごみにまぎれ目立たないだろうと小田切は思っていたが、どうやらそれは誤算だったようだ。これでは知り合いがいればすぐにバレてしまうだろう。
 そんな不安も最初のうちだけで、小田切は思いの他積極的な彼女にひっぱられ、次々と乗物やアトラクションにつきあわされた。幽霊屋敷、メリーゴーランド、ティーカップにミラーハウス。
 彼が不思議に思ったのは、彼女が最新のアトラクションには全く興味を示さなかったことだった。女子中学生にはレトロがはやっているのかと小田切は首をひねった。
 ジェットコースターでは、カナが目をつぶり、必死に歯をくいしばっているのを横目で見て、小田切は少し安堵した。やはりこの娘も中学生なのだと実感したのだった。
 小田切はソフトクリームを二つ買ってくると、ベンチでぐったりしている彼女にそのひとつを渡した。
 小田切は彼女の隣に腰を下ろし、自分のそれを少しためらった後ほおばった。
「しかし、今日はびっくりしたよ。いきなり遊園地、とはね」
「‥‥」
「若い娘と来ると若返るよ。息子を連れて来るのとはまた違うな。昔は、いろいろと行ったもんだがね。つまり‥‥奥さんとね」
 そう言ってから、小田切は今日乗った乗物に昔も乗ったことがあることに気がついた。
 幽霊屋敷、メリーゴーランド、ティーカップ、ミラーハウス。
 間違いなく、全て加奈子と乗った記憶のあるものばかりだった。
 まさかこれも‥‥ いや、定番ではないか。そもそも、遊園地にあるアトラクションなど限られているのだ。それに、アレに乗りたいとは言っていないではないか。
 それでも、小田切はおそるおそるカナの方を見ると、彼女の手の中ではソフトクリームが一度も口に運ばれることなく、暑い夏の日差しで溶け始めていた。
 慌てて彼女に言うと
「甘いの、ダメだから」
 彼女は焦点の定まらぬ瞳でそう答え、溶けかかったソフトクリームを小田切に返した。
「‥‥昨日、学校行ったのかい? 家の人何も言わないのか?」
 両手にソフトクリームを持ちながら小田切はそんな質問を向けてみた。
「あたし、お母さんが、欲しかった」
 彼女は地面に溶け落ちたソフトクリームの残骸を見ながら一人言のようにつぶやいた。
「お父さんも、欲しかった」
 小田切は彼女のその言葉を素直に受け入れた。彼女は両親を事故か何かで亡くしたそんなか弱い子供なのだ。自分に父親を重ねて見ていたのだと、そう理解した。
 そう思うと目の前の遠い目をした少女が急に愛しく思えてきた。
「僕にできることがあるなら‥‥」
「でも、一番欲しかったのは、あたし。誰でもない、あたしが欲しかった」
 カナはベンチから立ち上がり、空を指さした。
「あれに、乗りたい」
 彼女の指が指し示していたのは、昔ながらの大観覧車だった。
 !
 あれに、乗りたいのか?
「ああいうのは、ちょっと、遠慮したいんだが‥‥」
 小田切は昔から高い所は苦手だった。いわゆる、高所恐怖症というやつだ。
 だが、彼女の次の言葉で小田切の気持ちは傾いた。
「これで、最後だから」
 地上の遠いざわめきは、卵の中から聞く外界のそれのようにも思えた。
 向かいの席からじっと自分を見つめる彼女に小田切は目のやり場をなくし、窓の外に視線をやった。
 地上の人影と建物がしだいに等しく小さくなっていく。まるで人形の国だ。
 そう、どんな人間もこれだけ離れて見ればその感情をうかがい知ることはできない。
 つまり、自分と目の前の少女の間にもそれだけ距離があるということなのだ。
 このまま別れて、いいのだろうか?
 彼女はこれで最後だとはっきり言った。
 それで肩の荷が降りたというのも事実だが、手放しで喜ぶ気になれないのもまた事実だった。
 彼女が何であるにせよ、今のうちに聞いておかなければいけないことがあるのではないか。
 観覧車の小刻みな振動が小田切の気分を急かしていた。
「‥‥最後まで、僕には君がやってることの意味が分からなかった」
「‥‥」
「君のような中学生が、僕のようなオジサンに本気になるハズがない」
 小田切は彼女の視線を正面から受け止めた。
「かと言って、単なる冗談でやってるとはどうしても思えない」
「‥‥」
「なぜ、知ってるんだ? いや、そんなことはどうでもいい。‥‥君は知っていた。プロポーズのことも、花火のことも、ライターのことも、この観覧車だって! ‥‥だから、教えてほしいんだ」
 小田切はつばをのんだ。
「あの炎の中で、加奈子は俺に何か言い残したんじゃないのか? 俺の頭に浮かぶ彼女は何を言いたそうにしてるんだ?」
 熱病に憑かれたように小田切は今まで抑えていた言葉をついに口走った。
 彼女の答えが待ち遠しく、そしてそれ以上に怖かった。
「どして?」
 視線の強さとは裏腹に、彼女の声はかすれ、いつもより弱々しかった。
「え?」
「どして、あたしが、知ってるの?」
「‥‥」
 観覧車ががたんと大きく揺れた。
「知って、るんだろ?」
 その時、カナの姿が加奈子のそれとだぶった。
 まるで稲妻に打たれたようなショックを小田切は受けた。
 なぜ、今まで気がつかなかったのだ。既視感を生み出すほど彼女の雰囲気は加奈子のそれに似ていたではないか。
「加奈子、なのか?」
 今、自分の目の前にいるのは、彼女の生まれ変わりなのか。そんな非論理的な考えに小田切は取りつかれた。
 そんなハズは‥‥
 ならば、今までのことはどう説明する?
 ‥‥彼女は、加奈子だ。
 それ以外は考えられなかった。
「加奈子‥‥」
 小田切は震える手を彼女の肩にかけた。
 そして、ゆっくりと近より、彼女の体をそっと抱きしめた。
 彼女は抵抗もせず、正面を向いたままそれに従った。
 小田切が嗅いだ匂いは、確かに記憶の中の彼女のそれと酷似していた。
 加奈子、ここにいたのか。
 その時、小田切は自分の頬に暖かいものを感じた。
 俺は、泣いているのか?
 最初はそう思ったが、そうではなかった。
 小田切が感じたのは、触れ合った頬から伝ってきたカナの涙だった。
 小田切の瞳に映った彼女の目は、真っ赤にはれていた。
「‥‥違う。
 わたしは、彼女じゃ、ない」
 かすれた声をふりしぼって彼女はそう言った。
 その時、観覧車の扉が開き、地上のざわめきがその狭い空間に舞い戻った。
 それと同時にカナは観覧車から飛び降り、振り返りもせずに駆けていった。
 喉の渇きだけが小田切に残った。
 その白いワンピースを目に焼きつけることだけが彼にできた精一杯のことだった。
 最後のデートは終わったのだ。




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