#5 息子

子供

 赤い光が視界いっぱいに揺らめいている。
 内臓を不快なまでに突き刺すクリムゾン。
 その炎は、小田切にある記憶を呼び起こしていた。
「加奈子、加奈子ぉ!」
 ゆめだ。
「駄目です、小田切さん。病室はもう!」
「うるさい! 加奈子が中にいるんだ!」
 嫌な、夢だ。
「もう・・・・・・手遅れです」
「加奈子を、加奈子を!」
「小田切さん!」
「・・・・・・加奈子ぉぉぉぉ!」
 現実ではないと小田切には分かっていた。彼はその場に居合わせてはいなかった。それなのに、何度も同じ夢を見る。いつもこれで終わりだ。炎に巻かれる加奈子を助けられなくて。
 炎の強烈な赤がしだいにゆるやいでいく。
 小田切は夢が醒めるのを待った。だが、今日に限ってその夢は醒めようとはしなかった。
 その赤は違うものに変わりつつあった。黒ずんだうごめく赤に。
 いつもとは違う経験に小田切は怖れを抱いた。
 ドクッ ドクッ ドクッ
 脈打つ赤。これは‥‥
 思い出した!
 小田切は冷水を浴びせられたようにいきなり目を覚ました。
 寝巻きの下で冷たい汗がびっしょりと肌に浮かんでいた。
 真夏のホラー、だな。
 小田切は自嘲気味に心の中でそうつぶやいた。
 十二年前、加奈子は入院中に火事で死んだ。五度目の体外受精が失敗して二か月後のことだった。
 彼女は自ら死を選んだのだ。
 度重なる体外受精の失敗に情緒不安定となった彼女は、ベッドの上で安物のライターの炎に見入っていることが多くなった。何度看護婦に取り上げられても、またどこからか手に入れて、その炎を見つめていた。
 そんな彼女が小田切には憐れに思えたが、その頃は既にかける言葉も持たなくなっていた。
 そして、夢の最後に現れたイメージは、彼女をそこまで追い込むことになったおおもとの原因と言えるかもしれない。
「圭太、いつも残さずに食べてるか?」
「うん」
 圭太は口の周りをケチャップで真っ赤にし、元気よく答えた。
 あれ以来鮎子の助勢がめっきり減ったため、今日の朝食は昨日の残り物だった。
「だってねえ、オムライスすきでしょ、カレーライスもすきだし、ハンバーグも、グラタンもすきなんだよ。あゆ子おばちゃん、おりょうりうまいんだよ」
 妻が生きていれば、この食生活に今以上に付き合うことになったのかと思うと、複雑な気分だった。
「にんじんが嫌いじゃないか」
 父に額をはじかれ、圭太は口をとがらせて反論した。
「にんじんは、おウマさんのこうぶつだから、とっちゃダメなんだ」
 圭太はスプーンで皿をぐりぐりいわせながら少し悔しそうな顔をした。
 いつの間にこんなへ理屈を言うようになったのだろう。
 普通の父親同様、小田切にとっても、へ理屈でも我が子の成長は嬉しいものだった。
 ふと見ると、圭太はスプーンで自分の皿を一面ケチャップの赤で塗りたくり、そこににんじんを配し、芸術家気取りだった。
「圭太、食べ物で遊ぶんじゃない」
「ちゃんと食べたよ?」
「にんじんも食べなさい」
 小田切は普段そういう点では甘い父親だったが、今日は珍しく厳しく注意した。ケチャップの赤が無性に気に障ったのだ。
 大学時代の解剖実習。それが小田切が医者をあきらめるきっかけとなった。
 別に失神するわけではない。血を見るのが怖いわけでもない。
 だが、なぜか生きた動物の体内を開いて見た時、自分は医者にはなれないと悟ったのだ。
「ねえ、おとうさん」
 我慢してにんじんをのみ込んだ圭太が複雑な表情で尋ねた。
「きのうのおねえちゃん、だれ?」
 小田切は顔をしかめた。
 小田切自身昨夜のショックを整理しきれず、結果、圭太にはカナのことを何も説明しないままになっていた。
 圭太は部屋に入っていたとはいえ、あれだけ大声で怒鳴れば会話の幾許かは聞こえているはずだった。何らかの説明が必要なことを小田切は認めていた。
 それにしても、なぜあんなことになったのだろう。
 あの年頃の少女につきものの情緒不安定、という言葉で片付けるわけにはいかなかった。あの時の彼女の言葉には、小田切と妻の加奈子しか知り得ない事実が含まれていたのだから。もはや偶然などではありえなかった。おまけに、その余波は由美子にまで及んでいる。
 小田切は圭太が自分をじっと見つめているのに気がつき、せき払いをした。
「会社の人の娘さんだよ。なんでも、よその家の絵を描く宿題が出たらしいんだ」
 圭太は黙ってそれを聞いていた。
「だから、部屋の中を見せてあげたんだ。それだけのことだ」
「もう、こないの?」
「え?」
「ここで、えをかくんでしょ?」
「‥‥いや、いいんだ。続きは自分の家で描くそうだから」
「ちぇ」
 圭太は残念そうに口をとがらせた。
 小田切は圭太の表情に注意しながらコーヒーカップを口に運んだ。
「でもさあ、あのおねえちゃん、キレイだったよね」
 こいつ、ああいうのが好みなのか。
 小田切は吹き出したコーヒーをぬぐいながら曖昧な相づちを打った。
「圭太。昨日のこと、鮎子おばさんには内緒だからな」
「どうして?」
「どうしてもだ」
 圭太の目が納得していないのを見て、小田切は仕方なく和解案を出した。
「言うこと聞けば、新しいゲーム機買ってやるから。前から欲しがってたろ」
「ホントぉ」
 モノで子供に言うことを聞かせる教育はすまいと誓ってきたが、背に腹は変えられなかった。それに、どうせ加奈子の命日には毎年何かを買ってやることにしているのだ。一つが二つになっても大したことはあるまい。
 そんな会話の途中、電話のベルが鳴った。
 昨夜のことを考えると、どちらからの電話でも喜ぶ気にはなれなかった。
 小田切は電話を取りに出ようとする圭太にストップをかけ、自分で電話を取った。
「‥‥もしもし」
 息をのんで返答を待つ彼の耳に聞こえたのは、意外なことに男の声だった。
『おはよう。俺だ』
 声の主は日置だった。
 小田切は安堵して胸にたまった息を吐き出した。
「どうしたんですか、こんな朝っぱらから?」
『できれば、どこかで会えないか』
「今日は、ちょっと‥‥」
 いつ、カナから連絡があるかと思うと、外出などする気にはなれなかった。いない間にまた家に来られて、圭太と二人きりになられることを想像すると、ぞっとした。
「急用、ですか?」
『‥‥ちょっと若者に苦言を呈そうと思ってな』
 そのもったいぶった言い方が日置の内心のためらいを表しているように小田切には思えた。
「苦言、ですか?」
 小田切は思わず苦笑したが、次の言葉でそれもすぐに消えた。
『昨夜、由美子から電話があった』
「‥‥」
『おまえ、一体何やってるんだ。相手は中学生だぞ。れっきとした犯罪じゃないか』
 小田切はこもった声で答えた。
「何もしてませんよ」
『何もしてなくても、普通は街で声をかけられた中学生を家には入れんよ』
「家には圭太もいます」
『そうだ、自分の息子と大して年の変わらん娘 に何を勘違いしてるんだ』
「いい加減にして下さいよ」
 思わず小田切は不快感を声に出した。
「勘違いしてるのはそっちの方ですよ」
『由美子を泣かしておいて、何だ、その言いぐさは!』
 日置の口から由美子との関係を示唆されたのはこれが初めてのことだった。
 反射的に小田切も言葉を返していた。
「あんたには関係ないでしょう! そんなに彼女が大事なら、あんたがつかまえておけばいい!」
 売り言葉に買い言葉の応酬の後には、短い沈黙が流れた。
『そうだな‥‥俺には、もう関係ないことだ。オマエと彼女の問題だ。だがな、小田切。友人として忠告させてくれ。中学生相手に本気になるような馬鹿なマネは即刻やめろ、いいな』
 今さら友人の忠告と言われても、その言葉通り受け取るような芸当は小田切にはできなかった。
「本気になんかなってませんよ。単に脅迫されてるだけです」
『脅迫?』
 小田切は口をすべらせたことを後悔した。
『どういうことだ?』
 説明するのは面倒だったが、日置相手にいまさら口をつぐむことは不可能だった。
「‥‥変な、合成写真を撮られましてね」
『向こうの要求は?』
「‥‥さあ」
 カナが望んだのは小田切のことが知りたいということだけだった。むしろ彼女の興味は加奈子にあるように思えなくもなかった。
 どちらにせよ、そのことを考えれば、脅迫というのも何か違うような気がした。
 彼女は一体何を知りたいというのだ。
 その時、電話の向こうで日置が吹き出すのが分かった。
『おまえ、からかわれてるんだろ、それは。違うか?』
 そうなのかもしれない。だが、彼女を見ていると、そのような気楽さは微塵も感じられなかった。それが不気味であり、怖くもあった。
『そんな小娘、相手にしなけりゃいいだろ。おまえの方が、その娘に興味があるんじゃないのか?』
「写真をバラまくって言ってるんですよ」
『それがどうした。どんな写真かは知らんが、おまえは歌手でも、政治家でもない。ただのちっぽけな会社の一サラリーマンだ。そんな写真を誰が喜ぶ?』
「‥‥何が、圭太に結びつくか、分かりません」
 今度は日置が沈黙する番だった。
「危険は犯したくないんです」
 そのはずだった。だが、そのためにもっと大きな危険に踏み込んでしまったような気が小田切はしていた。
『‥‥はっきり言わせてもらう。心配のしすぎだ。それに圭太君のことだってな、今じゃ日本だけでも一万人を越える体外授精児がいるっていうじゃないか。精子バンクだってできる時代なんだ。いくら凍結受精卵を使った、母親が死んだ後の子供だと言ったって、もうそんなものを暴こうって奴らはいやしない。おまえが思ってるほど、圭太君は特別じゃなくなってるんだ。もう、圭太君は森の中に隠されたんだ。おまえがそんなに心配することはないんだよ』
 彼の言うことは間違っていない。おそらくは自分が被害妄想なのだ。
 だが、彼には分かりはしない。他人には、こんな子供を持つ親の気持ちが分かるはずはないのだ。
 小田切は唇を噛んで受話器を置いた。
 食卓に戻ると、早速ゲームを買いに行こうとせがんでくる圭太を、小田切はやっとのことで思い止どまらせた。カナからの連絡を待っているとは言えないので、ちょうど小雨がぱらついて来たことを理由に、小田切は気乗りしない圭太を旧型のTVゲームの対戦に引き込んだ。
 素早いパズル・アクション系のゲームで、小田切は息子に手も足も出ないことをすぐに悟った。何度やっても連敗記録を延ばすだけだった。
 くやしくないわけではなかったが、大はしゃぎの圭太を見ていると、まんざらでもなかった。
 この子を大学にやって、仕事につけて、結婚させて‥‥
 それはいい。当たり前のことだ。
 だが、この子は俺にとって一体何なのだろう。
 血の絆。それは、ある。
 この子は、俺と彼女の血を、つまり遺伝子を、文字が知識や思想を伝えるように、後世に伝えてくれるのだ。
 だが、自分の中に受け継いでもらいたいものなどあるのだろうか。そもそも、遺伝子などという訳の分からないものを伝えたいのだろうか。
 血を受け継いでいても、遺伝子を持っていても、それはオレではない。
 何のために俺はこの子をつくったのだろうか・・・・・・・・
 隣に座った小さな人間を見ながら、小田切はそんなざらついた考えにとらわれた。
 結局、一日中雨はやまず、持ち帰った仕事もなかったので、小田切は久しぶりに圭太とべったりの一日をすごした。連敗記録は六十四でストップしたが、それも圭太があきてなげ出したためだった。
 圭太を寝かしつけてしばらくすると、姉の鮎子からのファックスが入ってきた。
 明日の加奈子の十二周忌には、仕事が忙しくて来られないということだった。
 鮎子もこれまではずっと加奈子の命日の墓参りに同行していた。それは、義理の姉だからというのではなく、また別の理由からのようだった。
 ファックスには、日を変えて一人で墓参りに行くからと達筆な字で書かれていた。
 その夜、小田切は布団の中に入ってもなかなか寝つけなかった。
 姉はなぜ圭太を産んでくれたのだろうか。子供が欲しいなら、なぜ自分の子供を生まなかったのだろうか。
 加奈子の生前、鮎子が言った言葉をふと思い出した。
「できる可能性があるなら、それを望むのは悪いことじゃないと思うわ」
 確かにそうなのかもしれない。
 あの時、小田切には体外受精という代物に迷いがあった。そのため、今一つ加奈子の望みを自分のものとすることができなかったのだ。
 彼女の死後、圭太を生む決意をしたのは、その罪滅ぼしだったのかもしれない。
 結局、今日はカナからの連絡はなかった。
 もう関わってくることはないのだろうか。また、平穏無事な日々が戻ってくるのだろうか。
 素直にそう思えなかったのは、明日が加奈子の命日だからという理由だけではないような気がした。




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