#2−2 幻影

ブランコ

 都市の夕刻はいつもと同じように電車の乗客に等しく窒息感を与えていた。
 小田切はそんなラッシュの中で無意識に体をよじり、その反作用に苦しんだ。
 圭太のために。日置の言葉が小田切の頭の中で尾を引いていた。
 圭太は母である加奈子の顔を一度も見たことがない。出産の折、母体を犠牲にして産んだ子供は母と会うことはないと言われるが、それとは違う。母の子宮から生まれるということは、九か月もの間、母胎で育まれるということは、決して無視できるようなことではないと小田切は考えていた。
 勿論、鮎子には感謝している。弟の馬鹿な決断を支えてくれたのだから。
 しかし、圭太が母ではない人間から生まれた事実は動かしようがない。彼が母の加奈子から受け継いでいるのは、愛情でもぬくもりでもなく、単なる遺伝子に過ぎないのだ。
 この中にそんな人間が他にいるだろうか。ぼやけた目で小田切は車内を眺めた。
 だが、そうしてしまったのは自分自身のせいなのだ。
 そもそも、体外受精で子供をつくろうとすること自体が神への挑戦なのだ。踏み入ってはならない領域に、踏み込んでしまったのだろうか‥‥
 小田切は自分の考えに嫌気がさし、吊り広告に視線を移した。即物的な世界に逃げ込むにはうってつけの場所だった。
 いつもの扇情的な見出しに視線を走らせていると、突然、そこに恐ろしい文字が浮かんで見えた。
『生命科学の落とし子/僕のママはどこ!?』
『驚異! 五年間の凍結、そして出産!』
『死者の遺伝子を持つ子供、独占インタビュー!』
 凶悪な文字に加奈子の顔がだぶった。
 よくあることだった。命日が近づくとことさらだった。
 何が悪い。命の可能性を摘み取るよりずっとマシじゃないか。
 軽い頭痛を覚えながら小田切は幻の中の妻に問いかけた。
 何が言いたいんだ、加奈子?
 俺の決断に何か文句があるのか?
 小田切にしてみれば、幽霊にでもなって枕元に立ってくれる方がまだマシだった。自分の妄想に振り回されるのはあまり気持ちのいいものではなかった。
 何度も同じ問いかけを心の中で繰り返すが、それは彼女の幻影と共に虚しく消えてゆくだけだった。
 小田切は自己嫌悪に陥った。
 一時は、カウンセリングを受けることも考えたが、幻はよくも悪くもならず、結局、自分の中に封じたままになっている。
 渋谷で電車を乗り換えて数駅。そこは長年住み慣れた小田切のマンションがある場所だった。
 駅からは帰りを急ぐ人の流れが、通りやバス停へと濁流のように吐き出されていった。
 その日は小田切もまっすぐに帰宅の途についた。近くでアルコールをとも思ったが、姉と日置の言葉を思い出してやめにした。
 小田切の家は駅から徒歩十五分といったところだった。運動不足気味の彼にとってはそれさえもいい運動になった。
 途中、公園の前を通りかかると、かん高い音を立てて揺れるブランコと子供たちの声が聞こえてきた。
 小田切はふらりと公園に足を踏み入れると、埃っぽいベンチに腰を下ろした。そして、一本だけと決めてから煙草をくわえ、それに火をつけた。圭太のいる家では煙草は吸わないと決めていたのだ。
 住宅街に囲まれたこの公園を小田切は気に入っていた。大きすぎず、小さすぎず、そして質素であることがその理由だった。それに、公園の周りをぐるりと囲む背の高い植樹が人の目を遮っており、仕事帰りに一息つくのには申し分のない場所だった。今日のように子供たちがこの時間まで遊んでいるのは珍しいことだった。
 小田切が口にしたのは十数年来変わらぬ銘柄の煙草だった。煙草だけではない。それに火をつけたのも、若い頃、加奈子からもらったジッポーだった。
 彼は煙を思いきり肺に吸い込み、充分に味わったあと、それを吐き出した。
 白い煙は紅く焼けた夕空にはかなく雲散した。
 だが、煙とは違い、彼の沈んだ思いは胸の中によどんだままだった。
 しばらくすると、子供たちがおそらく夕食の時間を気にしてだろう、散るように公園から去っていった。
 だが、それでもまだ古ぼけたブランコだけは、強情に錆びた音を夕闇に鳴り響かせていた。
 目をやると、夕日の逆光の中、ブランコの上に大きく揺れる人影があった。
 煙草の煙をくゆらせながら小田切は何気なくその円弧の往復運動を追い続けた。
 空になびくシルエットで女の娘だということが分かった。
 そう言えば、加奈子もここのブランコはお気に入りだった。
 そう思った時、ブランコの少女はふわりと宙に舞った。
 短いスカートが花のように開き、その中に白い小さなおしりがのぞいた。
 小田切は思わず視線をそらしたが、それに続く軽やかな音で彼女が見事に着地したことは分かった。
 小田切が再び視線を戻すと、夕焼けをバックにその影はまっすぐ彼の方へ向かって来るところだった。
 そのシルエットは奇妙な重圧感を彼に与えていた。
 そして、影はベンチの前で立ち止まった。 視線は、静かに彼を見下ろしていた。
 彼女だ。
 小田切は言葉を失った。ただその不可思議さに対し頭にしびれを感じるだけだった。
 少女は、慣れない楽器を奏でるようにゆっくりと言葉を発した。
「小田切、恭助さん、でしょ」
 昨日と同じ小さくかすれた声だった。
 小田切は無意識に煙草をベンチに押し当てて消していた。
 そして、声をふりしぼって言った。
「‥‥何なんだ、君は? 僕に一体何の用があるっていうんだ」
 小田切は彼女の顔をにらみつけたが、明らかに虚勢だった。
 それを知ってか知らずか、彼女に怯えた様子は見られなかった。
 夕焼けを背にどこか悲しげな感じのする小さな瞳だけが再び小田切の頭に強く焼きつけられた。
 そして、少女はこうつぶやいた。
「アナタのことが、知りたいの」



 月 日
 いらいらするのは暑さのせいだけではない。今日、講義の後、彼女の口から信じられない言葉を聞いた。
 ケッコンすると。それも、奴と。
 間違ってる! 彼女を誰よりも愛してるのはこの俺なんだ。彼女も、奴自身だってそれはわかっているはずだ。
 彼女は俺のものだ。一番愛している者にそれを手にする権利があるはずだ。それが互いにとってもっとも幸せなことじゃないのか。
 俺は彼女を愛している。
 俺は彼女を愛している。
 俺は彼女を愛している。
 俺は彼女を‥‥
 だから、彼女は・・・・・・俺のものだ。
 偽りの愛によって手に入れたものは、不幸しかもたらしはしないのだ。


 



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