#3−1 カナ

制服

 翌日も事務所には相変わらずしまりのない雰囲気が漂っていた。今日は理恵までが営業にも出ず、仕事の合間の由美子をつかまえて談笑している。
 そんな中、ただ一人小田切だけが締切を間近に控えた翻訳者からの電話に頭を悩ませていた。
 期日の引き延ばしを頼み込んでくる翻訳者に対し、彼としてはひたすら激励する他はなかった。「納期イコール信用」となるのはどの業界でも変わりはない。今回は数件の締切が集中しているだけに、小田切としては余計に頭が痛いところだった。
 事務所が修羅場となるのは、原稿が事務所に上がってきてからである。だから、ちょうど上がり原稿がこない今は福田も由美子も一向にヒマを持てあましている。
 その日の午後一番、福田は自分がヒマなのをいいことに再び昨日の話を持ち出した。
「例の娘、僕にも紹介してもらえませんか」
「‥‥昨日俺が言ったこと忘れたのか? 一度会ったきりで、それも一方的に声をかけられただけだぞ」
 昨晩公園で出会ったことは隠し通すつもりだった。今の段階で、これが笑い話で終わるかどうか判断がつかなかった。
「ホントに電話番号とかも聞いてないんですか?」
 あきらめきれずにすがってくる福田を見て小田切はため息をついた。家庭持ちのくせに、自分の子供と大して年の変わらぬ娘によくこれだけ熱中できるものだ、と。事実、福田の娘は小学校六年生である。
「だけど、ミズジョですよ。ミズジョ!」
 福田は駄々をこねる子供のように叫んだ。
「一度でいいから、あの制服を着てる娘と話がしたいんですよ」
「奥さんにでも着てもらったら?」
 理恵が冗談っぽく言うと、福田はとんでもないという風に肩をすくめた。
「そんなこと頼んだ日にゃ殺されますよ。ただでさえ黙認状態なんですから。それに、あの制服はその年頃の娘じゃないと‥‥」
 二人が福田の言葉にげんなりしていたところ、ふいに事務所の電話が鳴り響いた。
 福田から逃れるために、小田切は素早く受話器を取った。
「はい、ぺるそなです‥‥」
 相手が先程電話を切った翻訳者だと分かると途端に気が滅入った。これでは福田の相手をしているのと大してかわりがない。
 こんな電話をかけてくる時間があるならその間に仕事を進めてほしいところだったが、せっぱ詰まった相手にはそれが理解できないらしい。
 単調な相手の言葉を適当に聞き流しながら小田切はあることを思い出していた。
 勿論、昨夜の少女との「密会」についてだった。

「アナタのことが、知りたいの」
 少女はベンチの上の煙草のもみ消しを無造作に手で払うと、小田切の隣に腰を下ろした。
 相手の動作に小田切は半分腰を浮かしかけた。驚きと怒りがないまぜになりつつ互いを抑制して一方の噴出を押さえていた。
「お、大人をからかうのもいい加減に、だな‥‥」
「からかってなんか、いないわ」
 彼女の向ける視線に小田切はたじろいだ。
「あたしのことも、知りたい?」
 そう言って彼女は、小田切の手に自分の手を重ねた。
「い、いい加減にしろ! 大人をからかって何が面白い。はっきり言っておくが、中学生になんか興味はない!」
 これ程本気で怒ったことはここ数年来小田切の記憶にはなかった。
「興味‥‥」
「ああ、そうだ。中学生の冗談にはつきあってられないな」
「興味ないはず、ないわ」
 あまりにもきっぱりと言い切る相手に対し、小田切は返答に窮した。
 彼女は自分の学生カバンの中から何かを取り出し、小田切の前に差し出した。
 それは一枚の写真だった。ホテルの前で小田切と目の前の少女が並んで写っている。あたかもこれから二人でホテルに入ろうとしているように見える。
 それが脅迫だということを理解するのにしばらくの時間が必要だった。そして、それは小田切にさらなるパニックを引き起こした。
「君は‥‥誰なんだ。なぜ、僕につきまとう。一体、何の理由があるんだ!」
 彼女は感情のない笑いを浮かべ、こう答えた。
「あたしは、カナ。アナタのことが、知りたいの」
 彼女の名乗った名前に小田切の中で危険信号が反射的に点滅した。
 この女は、危険だ。
 辺りに家路を急ぐサラリーマンの気配が増えるのを感じ、小田切はますます落ち着かなくなった。
 公園は植樹で囲まれているとはいえ、二カ所の出入り口からは中が見られてしまうし、植樹のすぐ後ろを通られると、壁ではない以上それなりに分かってしまう。
「いい加減にしてくれ。こっちは疲れてるんだ」
 自転車に乗った巡回の警察官の姿を遠くに認めると、小田切は会話を打ち切ってこの場から立ち去ろうとした。
 彼女は小田切の動揺を見透かしたように言った。
「こんな中学生が、怖いの?」
「‥‥」
「また、走って、逃げるの?」
 さすがに小田切はその場に踏みとどまり、彼女の目を見返した。口を開こうとしたが、肝心な言葉が思い浮かばなかった。
「分かったわ。今日は、帰る。また、すぐ会えるし」
「‥‥」
「でも、覚えておいて。あたし、あまり、時間がないの」
 こうして、その夜、彼女は引き下がった。
 それは、悪いことが先に延ばされただけで何の解決にもなっていないことは充分分かっていた。それでも、その時、彼女の重圧から逃れることができて、小田切は心底安堵したのだった。

 あんな写真さえなければ‥‥
 小田切は電話のコードを弄びながら写真のことを思った。電話の相手の声は、もはや意味を持たないノイズでしかなかった。
 その時、ふとその写真の存在に疑問を抱いた。
 少女とホテルの前で親しげに並んだ写真。そんなものがあるはずはないのだ。そんな事実はないのだから。
 つまり、合成写真。おそらくパソコンか何かで作ったのだろう。
 なぜあの時に気がつかなかったのか。
 小田切は自分の間抜けさ加減を呪った。
 その時、電話のコールランプの点滅が目に入った。一瞬遅れて事務所に呼び出し音が響く。
 また俺か。
 小田切は電話の新人翻訳者の泣き言に形だけの相づちを打ちながら、電話を取った理恵の方を見た。
 理恵は身振りで小田切宛てであることを伝えてきた。小田切も身振りで名前を尋ねる。ぺるそなではこれらのことがブロックサインのようになって定着していた。
 だが、小田切のそれに理恵は肩をすくめた。ブロックサインではない。単に相手が名乗らなかったせいだ。
 小田切は先物取引か何かの案内だろうと察して「キレ」と再び身振りで示す。名乗らない相手にかまってやるほどヒマな身ではない。
 そして、思い出したように、再び新人翻訳者の話に耳を傾けた。
 結構、見込んでいたのだが、実戦ではまだ通用しないのだろうか。締切が危ないならせめてもう少し早く言ってくれれば、と愚痴もこぼれるが、結局は自分の見込み違いに対する訴えようのない腹立たしさでもあった。
 次から次へと出てくる相手の逃げと嘆きのセリフに小田切の忍耐力は急激にすり減っていった。ブロックサインの交換で集中力が切れたということもある。
「とにかく、待ってますよ」
 そう言うと、小田切は相手の返答を待たず受話器を荒々しく置いた。
「珍しいですね、小田切さんがキレるのも」
 にやにやして福田が言った。
「そりゃ‥‥」
「小田切さん、電話電話」
 理恵が隣にまで来てそうせっついた。
 保留ボタンは赤く点灯したままだった。
 小田切はなぜ切らなかったのかと目で理恵を責めた。
「だってぇ‥‥」
 理恵は言いにくそうに首を傾げた。
 仕方なく小田切は受話器を取った。
「お待たせしました。小田切ですが」
『‥‥』
「もしもし?」
『今、下にいるの』
 そのくぐもった声に小田切は体を硬直させた。だが、すぐに周りの視線を意識してできるだけ平静を装った。
「ただ今、ちょっと取り込んでおりまして、そういった御用件は遠慮させていただいておりますので‥‥」
 小田切は仕事場にまで電話をしてくる彼女の非常識さを恨みながら、不気味なほど愛想のよい声でそう答えた。
『待ってるから』
 だが、そう言い残して、電話は一方的に切れた。
 受話器を置く小田切の顔を理恵が興味深げにのぞき込んだ。
「何でした?」
「あ、株を買わないかだとさ。まったく、どこにそんな金があるのかね」
 咄嗟に小田切は口先だけでそうぼやいてみせた。
「え〜、小田切さん、けっこう貯め込んでるんでしょう」
「そうですよ。扶養家族が少ないっていいですよね。ウチなんかカミさんにもうすぐ二人目ですからね」
 理恵と福田はその後、株だのローンだのの話で一気に盛り上がったが、小田切は由美子の冷たい視線が自分に注がれているのに気がついた。女の勘は馬鹿にはできない。
 だが、それ以上にカナの言葉が気にかかっていた。
 しばらくためらった後、小田切は煙草を買ってくると告げて、事務所を抜け出した。
 


 



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