#2−1 有限会社ぺるそな

パソコン

 小田切は先程からコンピューターの画面に映し出されたリストをにらみ続けていた。
 画面は延々とスクロールし続け、リストの終わりまで行くとピピッとかん高い電子音が鳴り響く。すると、今度はリストの頭に向かって逆スクロール。
 クライアントからの仕事を回す翻訳者を決めるのに、この作業をもう三十分も繰り返していた。
 有限会社ぺるそなは社員六人の小さな翻訳会社だ。目黒区の古いマンションの一室に事務所を置いているように、翻訳の花形である文芸ものや字幕ものではなく、企業の内部・実務資料を対象とした地味な産業翻訳が仕事の大半を占めている。
 それに翻訳業務といっても、ここでクライアントから受けた翻訳作業をこなしているわけではない。それらはぺるそなに登録している翻訳者が自宅で行う仕事になる。そして、その翻訳者が仕上げた仕事をチェックするのがこの場所なのだ。いわば、仲介業者の感が強い。
 だが、クライアントからの仕事の受注はもとより、翻訳者とクライアントのつなぎ、優秀な翻訳者の確保、翻訳者から上がってきた原稿のチェック・修正などと決して楽な仕事ではない。
 今も何件もの翻訳が同時進行しているが、小田切が先程から頭を悩ましているのは、電機メーカーから新規に受注したマニュアルの翻訳だった。初めて仕事を取った会社のものだからしっかりした翻訳者に回したいところだが、ベテラン勢は既に他の仕事が入っている。
 ぺるそなは八十七人の登録翻訳者を抱えているが、それぞれ得意分野と個性があり、誰もがどんな仕事をもこなせるわけではない。それを踏まえて仕事を回すのがコーディネーターである小田切の重要な仕事だった。
 七本目の煙草を灰皿でつぶしながら、小田切は思いきり背伸びをした。集中力にも限界がある。
「小田切さん、悩みすぎるとハゲますよ。適当に割り振ればいいんですよ。ちゃんとこっちでチェック入れますから」
 向かいの机から福田の気楽な声が聞こえた。小田切の四年後輩に当たり、翻訳者から上がってきた原稿をチェックするチェッカーをやっている。
「別に、信用してないわけじゃないよ」
「そうですか?」
「そっちの仕事を増やさないように苦労してるんだがね、これでも」
「そりゃもちろん、仏の小田切さんには感謝してますよ。でも、ここのところこっちもヒマですからね」
「なに、今だけさ」
 今、大口の原稿を数人の翻訳者が分担して訳しており、それが上がってくればどっと忙しくなる。小田切もチェッカーに回らねばならないだろう。小さい会社なら兼業は当たり前だ。
「おはようございまーす」
 元気いっぱいの声で明るいスーツ姿の女性が部屋に上がってきた。
 営業担当の高橋理恵だ。ぺるそなで一番若い。営業の仕事を小田切からつい最近引き継ぎ、ようやく一人回りを始めたところだ。
 ちょうど午前の外回りを終わらせてきたところらしい。
「そと、暑っいですよぉ」
 そう言って、理恵はクーラーの前にへたりこんだ。
「大丈夫?」
 福田の隣の由美子が声をかけた。
 由美子は仕事場での私語が極端に少ない。と言っても、福田と比べての話である。それでも、たいてい三人しかいないこの部屋ではその仕事熱心さが自然目につくことになる。
「だめ、だめぇ、五分だけ、休憩下さぁい」
「ハハハ、さすがの高橋さんもダウンかあ、年なんじゃないの」
 福田が指の間で器用に赤ペンを回しながら笑った。
「福田さんに言われたくないですよぉ。でも、女子高時代のパワーは、さすがになくなりましたけどね」
 その言葉で小田切の頭の中に昨日の少女のことが思い浮かんだ。一瞬迷ったが、結局、話題に乗せることにした。
「しかし、最近の女子校生というのはすごいな」
 すると、いかにも興味深そうに福田が体を乗り出してきた。
「ど、どうかしたんですか?」
「昨日な、ホテル街で女子校生にせまられたんだ」
 一拍置いて「うそぉ」と理恵も急に元気になる。
 小田切は、人差し指を立てた。
「『これでどう』って訊いてくるんだよ。話だけかと思ってたが、本当にあるとはな」
「で、どうしたんですか?」
 二人は真剣になって小田切に詰め寄った。
「な、何もしやしないさ。あたり前だろ」
 そう言いながら、小田切は会話に乗ってこない由美子の方をさりげなく見た。
 サブチェッカーである彼女は机の原稿に向かって相変わらず熱心にペンを入れ続けていた。
 こんな会話をわざわざ持ち出したのは、彼女に対する昨日の言 い訳の意味もあったの だが、その効果は今のところ確認できなかった。
「ホントですかあ?」
 福田は疑いの眼差しで小田切を見返した。
「それより、ホテル街にいたなら、相手の人がいたんじゃないんですか?」
 理恵が痛いところをついてきた。小田切が理恵をかっている理由ではあったが、こういう時にはちょっとけむたかった。
 小田切が返答に困っていると、福田が口を尖らせて尋ねてきた。
「それより、その娘、どこの高校の娘なんですか?」
 福田の質問に小田切は目をしばたかせた。
「そんなこと分かるわけ‥‥」
「例えば、制服とか、カバンとかいろいろあるじゃないですか」
 小田切は苦笑しながら少女の姿を脳裏に思い浮かべた。
「‥‥セーラー服、だったな」
「スカーフの形と色はどんなでした?」
「おいおい」
「リボン型だとか、ネクタイ型だとか」
 脇で理恵がくすくすと笑っている。
 小田切は嫌々ながらも記憶をたどった。
「‥‥赤のリボンで、細いやつ‥‥だったと思う」
「赤のリボン‥‥細いやつ‥‥」
 福田はぶつぶつ言いながら紙切れに絵を描いているようだった。
「福田さんって、ほんとオタクですよねえ」
「まったく、奥さんも大変だろうな」
 確か、今二人目を妊娠中だったはずだ。
「そうそう、スカートは薄いブルーだったかな」
 小田切はもはや楽しむようにそうつけ加えた。
「小田切さん」
 福田の口調が急に変わった。
「それ、『ミズジョ』ですよ」
 そう言われても小田切には何のことか分からなかった。理恵も同様に首をかしげている。彼女は高校から七年間アメリカで暮らしているので、そこらへんは全くうとい。
 福田はそんな二人にいらいらして自分のイスをはじき飛ばした。
「聖水島女子学園の中等部なんですよ」
 興味なさそうに小田切はうなずきかけた。
 反応したのは理恵が先だった。
「中等部 !?」
「ええ、間違いないですよ。その娘、中学生ですよ」
「‥‥」
 終業時刻はいつの間にかやって来た。こんな小さな会社ではそんなものはあってなきが如しであるが、ちょうど暇な今は、皆定時に上がって行く。
 小田切は今日一日、由美子と会話らしい会話を交わすことができなかった。タイミングを見計らっていたのだが、どうもつかめないまま一日が終わってしまった。昨日の今日では仕方ないとも思うが、こういう状態はあまり好きではなかった。
 だが、由美子のことで悩んでいるのは頭半分というのが正直なところだった。福田の言葉もあり、例の少女のことが何度となく頭に浮かんでは消えていった。
 中学生であったということもそうだが、彼女の抑えた表情が目に焼きついて離れなかった。どこかで見たような、そんな既視感があった。
 小田切が書類を束ねて席から立ち上がった時、奥のドアが開いて、経理担当の元山がカバンを抱えて出てきた。経理の元山と社長の日置は別室で仕事をしている。
 元山はあまりの長身のため、背の低い理恵などからは、頭が天井にすれているように見えるそうである。
「小田切くん、奥」
 無口な彼は自分の出てきた部屋を指さすと、カバンをかかえてさっさと退社していった。
 それだけで小田切は理解した。小田切は元山や日置がぺるそなを起こした時からの設立メンバーだった。つき合いはその前の大学時代からになる。互いのことは充分知りつくしているつもりだった。
 小田切は退社する福田や由美子たちを見送ってから、奥の部屋に入った。
 奥の部屋には日置と元山の大きな机がL字型に置かれていた。日置の机の上は乱雑で、元山の方は仕事をしていないのかと思えるほどかたづいている。二人の性格がそのまま現れているようだった。
 日置と元山は小田切と同じ医科大学の二年先輩に当たる。二人とも、一般には小田切と同じく医者を諦めた人間に分類されるのだろう。  だが、厳密に言えばそれは正しくないのかもしれない。彼らはそれぞれの理由で医者とは違うものを目指したが、小田切の場合はそうではなかった。
 アルミサッシは開けっぱなしになっていて、蒸し暑い空気がクーラーの効いた部屋を大胆に侵食していた。
 日置は狭いベランダで外の景色を眺めていた。
 小田切は自分も外に出て日置の隣に並んだ。
「どうかしました?」
 日置は煙草をふかしながら、小田切の方に向き直った。
「最近の煙草はいかんね、どうも」
 日置は自分の吐き出した煙にまかれながら、片手に持った灰皿に灰を落とした。
「‥‥」
 小田切は苦笑した。日置の癖は嫌というほど分かっている。彼の場合、煙草の話題は単なる前フリでしかない。
「やたら軽いのばかり出やがる。そんなに肺ガンが怖いなら吸わなきゃいいんだ」
 大学で『しがれっと』という愛煙サークルを作ったのは日置だった。そこには小田切や元山、野沢もいたし、それに小田切の今は亡き妻、加奈子もいた。
 思えば、しがれっとは日置が会社を起こすメンバー集めのために作ったサークルだったのではないかという気が小田切はしていた。
だがそれ以来、幸か不幸か彼らの喫煙の習慣は、加奈子を除けば今でも続いている。
「それで?」
 小田切の催促に日置は煙草をもみ消した。
「圭太君は元気か?」
「‥‥ええ。もう六歳です。早いもんですよ」
「ホントだな」
「あんなに苦労して産んだのがウソみたいですよ」
「‥‥」
 日置は小田切が圭太の「秘密」を打ち明けた数少ない人間の一人だった。
「かまってやってるか、ちゃんと?」
 耳が痛かった。昨日の姉の言葉が思い出された。
「片親だからといって、それに甘えてると‥‥」
「ちゃんとやってますよ。心配ありません」
 ありきたりな言葉で小田切は相手の口を封じた。何を言っても他人は所詮他人だ。
 小田切のそんな気分を読み取ってかどうか日置はあっさりと話題を転じた。
「余計なおせっかいとは思うが‥‥真面目に、付きあってるのか?」
「は?」
「とぼけるなよ、須田由美子だよ」
 小田切は虚をつかれてたじろいだ。社内では秘密にしていたつもりだったが、日置は感づいていたらしい。
「彼女が亡くなって、もう十二年だ。早くはない。むしろ、遅すぎたくらいだ。それに、あの子は悪くないと思うぞ」
 口調にからかう様子はなく、むしろ真剣に小田切のことを案じているようだった。
 由美子は日置が出張講師をしている翻訳学校の生徒だったのを、その優秀さを認め、卒業後日置がぺるそなに引っ張ってきたのだ。
「まだ、そういう話が出る時期じゃないですよ」
 小田切は正直にそう答えた。
「それに、加奈子の命日が終わるまでは、どうも落ち着かない。気分散漫なんです」
「そろそろだったな。まあ、ゆっくり考えればいいさ。圭太君のためにもな」
 



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