#1−2 秘密

時計

  小田切が家に着いたのは夜十一時を少しまわった頃だった。途中、アルコールの世話になったおかげだった。そうでもしなければ、先の恐怖感から現実へと戻ることができないように思われたのだ。
 新玉川線沿線にあるマンションで、彼は基本的に息子との二人暮らしを営んでいた。基本的にというのは、今年六才になる息子の世話はほとんど近くに住む彼の姉がやってくれていたからだ。いまだに仕事一筋で独身である姉には言いようのない世話になっていることを小田切は自覚していた。
 その夜も帰宅すると、姉の鮎子が台所で食事の後片付けをしているところだった。
「圭太、さっき寝たとこよ」
「そう」
 小田切は既に緩めてあったネクタイをじれったそうに引き抜いた。
「今年も、もうすぐだね」
「え? ああ」
 小田切は姉の唐突な言葉にうなずいた。
「今年はちょうど日曜日だから助かるな」
 妻の加奈子の命日には息子の圭太と共に千葉の彼女の実家に立ち寄るのが例年のこととなっていた。
「わたし、今年はちょっと分からないわ」
「仕事?」
 鮎子は小さいながらも衣装コーディネーターの事務所を開いている。
「なら、無理しなくていいよ」
「スケジュールもうちょっと詰めてみるけどね。今年も野沢さんと会うのかい?」
 鮎子は皿にかけたサランラップをはずしながらそう訊いた。
「多分、ね」
 野沢は小田切の医大時代の友人だったが、加奈子が亡くなってからは毎年一度彼女の命日にだけ会い続けるという奇妙な関係が続いていた。
「物好きだよ、二人とも」
「‥‥」
「それより、恭助。たまには圭太と一緒に夕飯食べてあげないと。わたしだって毎日来られるわけじゃあないんだからね。こんな帰りが遅いと、ロクに話しだってしてないんじゃないのかい」
 鮎子はまるで妻のような小言を並べた。
「分かってるよ。だけど、圭太も来年は小学生だ。いつまでも父親に‥‥」
 小田切は頭をかきながら食卓の上の冷たくなった唐揚げをつまんだ。
「恭助」
 鮎子は鋭い視線で小田切を見つめた。
「あの子は人形じゃないんだよ。ちゃんとかまってやらなきゃ。そんないい加減に育てるんなら、わたしは‥‥あの子を‥‥」
 小田切は珍しく感情的になった姉の顔をまじまじと見つめた。
「分かってる‥‥分かってるよ」
 小田切は立ち上がって圭太の部屋のドアをそっと開けた。暗い部屋に明りが差し込み、圭太の寝顔がくすぐったそうに揺れるのが見てとれた。
 圭太を産んだのは、勿論、彼ではない。
 産んだのは姉の鮎子だった。
 圭太は体外授精によってできた子供、俗に言う『試験管ベビー』だった。
 小田切と妻の加奈子の間には、結婚後二年たっても子供ができなかった。検査の結果、加奈子は『卵管閉塞症』という診断を受けた。つまり、子供の産めない体だと宣告されたのだ。
 しかし、それでも彼女はあきらめず、いくつもの不妊治療を試していった。そして、失敗を重ねた結果、たどり着いたのが『体外受精』だった。
 体外受精とは、夫婦の精子と卵子を体外に取り出し、試験管の中で受精させてやり、できた胚を子宮に戻そうとするものである。
 当時、日本ではまだ体外受精児の出産の成功例はなく、当時の最先端医療であった。
 その医療を彼らは、小田切が医大に通っていた縁を使い、その付属病院で受けたのだった。二年半の間に五回の体外受精を。
 だが、結局それは失敗に終わった。
 最先端であるが故に、それはまだ治療というレベルには達していなかったのだ。多くの医療機関がそれを競っている段階であり、実験と治療の両方の意味合いをそなえていたと言ってもいいのかもしれない。
 治療が二年半で終わったのは、加奈子が亡くなったからであった。
 実験色が強いと言っても、卵子の採取は母体に負担をかけるため、採取した受精卵の中で使わなかったものは次回の治療ために凍結保存して、少しでも母体の負担を軽くしようという試みはなされていた。
 そのため、加奈子の死後も、治療で使われなかった小田切と加奈子の受精卵は、病院の液体窒素の中で生き続けていた。母体の死と共に受精卵を廃棄処分にするというルールは、当時まだ確立されていなかったのだ。
 そして、五年後、病院からの何度目かの凍結受精卵の廃棄処分に対する同意を最後通告として求められた折、小田切は子供を作ることを決意した。
 妻は既に死んでいる。そのため、受精卵を出産してくれる女性、つまり『代理母』が必要だった。
 しかし、妻でない女性との間で体外授精児を作ることは、産科婦人科学会で禁止されていた。法律で禁止されていないとはいえ、当時は明らかに世間で後ろ指を指される、少なくとも奇異の目で見られる行為だったのだ。
 小田切が子供を作れたのは、姉の鮎子が代理母となることを自ら申し出てくれたおかげだった。
 結果、鮎子に移植された三つの受精卵のうちのひとつが妊娠、出産された。
 鮎子が出した出生届けには父の名はなく、小田切鮎子の嫡出子、つまり私生児としての誕生だった。勿論、遺伝上の母親である小田切加奈子の名もどこにもない。
 鮎子の私生児として産まれた圭太を、小田切は養子とした。十五歳未満の子であるので家庭裁判所の審判を経てのことだった。
 母の死後の子供。母の義姉から生まれた子供。五年間液体窒素の中にいた子供。
 全ては、そんな圭太を世間の好奇の目に触れさせぬようにするためだった。
 そして、以後も小田切はそのために最大限の努力を払ってきたつもりだった。世間に注目されるようなことがないように。
 もともと平凡な人間であることを自覚しているが、それでも自動車事故を起こさぬよう安全運転を心がけ、キセル乗車はもっての他。深酒で意識を失う程酔っ払うこともできない。宝クジは買わないし、テレビの街頭インタビューを見ればすぐさま逃げる。
 だが、最近になって気が緩んできた感があるのは否めなかった。
 体外受精児は飛躍的に増え、それほど珍しいものではなくなった。代理母も日本ではいまだに禁止されているとはいえ、海外で代理母を探して産んでもらう時代になっている。
 それでも小田切は、事実を圭太にはまだ知らせていなかった。圭太には母親は彼を産んですぐに死んだということにしてある。
 体外授精児であること、加奈子は体外受精後に死んでいること、実際に出産したのは鮎子であること。それらの事実を圭太は知らない。いずれは話すつもりだったが、それをいつにすべきか明確な意志は小田切にはまだなかった。
「姉さんの言うことは、よく分かってる」
 小田切は力なくそう繰り返した。
「この前、保育園の面談で言われたんだよ。『圭太君は他の子のお弁当のおかずをよく取るんで困ってるんです』って」
「そんなの、ちょっと元気な、だけだろ」
「‥‥あんたたちのことに必要以上に口をつっこむ気はないんだけどね。今まで、やっぱりちょっと関わりすぎてたのかもしれないね。わたしは産んだだけなんだから。あんたが、育てなきゃ」
 突き放すような鮎子の言葉に小田切は少なからぬショックを覚えた。それと同時に、背丈も自分とそう変わらぬ彼女が小田切には随分と小さく見えた。
 これまで圭太を産んだことに対する言葉が彼女の口から聞かれることはほとんどなかった。それだけに、この日の彼女の言葉は聞き流すことができなかった。
「どうしたんだよ、急に。圭太の母親役は姉さんしかいないんだよ」
 小田切の言葉に鮎子は目を細めて頭を振っただけだった。
 彼女にも疲れる時があるのだろうかと小田切は思った。いつも強気な彼女ではあったが、五十になっても独身を通し、まだ一線で働いているのだ。疲れない方がおかしいのかもしれない。
 ただ、圭太を生んだことで彼女のそれ以後の人生が狂ったのなら、小田切にはつぐなう術は何もなかった。
「さて、じゃあ今日はこれで帰るわよ」
 そう言って彼女は待つ者の誰もいない家へと帰っていった。
 小田切はテーブルで一人、鮎子の作ってくれた遅い夕食を取った。



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