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「はあー」
 ため息とあくびの混じった呼気を恭子は大きく吐き出した。
 食卓の上にのったノートパソコンの画面をぱたんとしめて、反り返るように大きくのびをした。それでも、体にたまった疲労は少しも取れた気がしなかった。
 原稿はまったくと言っていいほど進んでいなかった。ここしばらくはエディターを開くことすらしていないのだから当然と言えば当然だ。頭を抱えるしかない事態だった。
 台所の窓は、朝の陽光をさわやかに部屋に投げ入れようとしていたが、この小川家はその光を頑として拒んでいた。この家に「幸せ」という言葉が似合わなくなってどれくらいたつだろうか。恭子はそれを考えてうなだれた。
 きっかけは夫との不和が無視できないレベルになったことだった。何を考えているのか分からない。仕事に没頭しているのか、愛人に入れあげているのか、ただ単に家庭に飽きただけなのか、それすらも判然としなかった。笑えたのは、相手も同じことを言い出したことだった。そういうところだけはきっちりと夫婦なのだと思うと笑うしかなかった。二人に共通していたのは、関係のねじれを積極的に修復しようという意志と熱意に欠けていた点だけだった。恭子は自分の作品が売れ初め仕事が楽しくて仕方がなくなってきたところだったし、ゼネコン勤めの夫は地方の現場への長期出張が多く、元々妻と向かい合う機会自体が少なかった。それほど不運な家庭というわけではなかったが、決して恵まれた環境というわけでもなかった。
 それから、晴樹の声がでなくなった。高校へ入ったばかりの出来事だった。医者は心因性の一時的なものだと診断したが、晴樹の声は一週間たっても、二週間たっても戻らなかった。その理由が自分たちの夫婦関係のせいだということを恭子は痛いほど理解していた。
 そして、その困惑と怒りを電話で夫にぶつけた。あなたが夫として家庭を顧みないから。あなたに夫としての自覚がなさすぎるから。あなたが夫としてあたしを愛してくれないから──
 結果は不毛なものだった。夫は離婚を決意し、初めから晴樹の親権を放棄する意志を明らかにした。そんな夫を見て、恭子はもう駄目なのだと確信した。
 母子家庭。自分がそんなカテゴリーに入るとは想像したこともなかった。けれど、元夫に手放させたマンションと毎月の養育費。それに児童文学作家としての稼ぎをあわせれば息子と二人で生活することは不可能ではないはずだった。
 離婚が成立すると、晴樹はそれが自分のせいだと思いこみ、余計にプレッシャーを感じたようだった。それまでは失声のせいでイジメを受けても登校だけはしていたのだが、離婚後はいきなり不登校になり、部屋に引きこもる生活となった。
 二人とも一日中家にいるのに、会話はない。当然だ。晴樹は声が出ないのだから。その気になれば、音のカケラらしきものは出せるが、それを解読するのは母親の愛の力を持ってしても容易なことではなかった。もっとも、晴樹の方にはコミュニケーションの意志そのものがないように見えた。しかし、だからといって恭子は、この二人きりの母子関係まで崩壊させるつもりはなかった。
 そこでホットラインを敷いた。食卓にある自分のパソコンと晴樹の部屋のそれのチャットソフトだ。インターネットを通じて互いにパソコンで会話することができるのだ。これならば声のでない晴樹とも言葉を交わすことが可能だった。常にそれをオンにしておき、互いの呼びかけに必ず応えること。それを条件にして恭子は息子への必要以上の干渉を自重した。
 そしてそれから五ヶ月がたとうとしていた。
 結果的にそれは平穏な、言い換えれば何もない無為な時を生み出しただけだった。
 晴樹はいつになったら立ち直ってくれるのだろうか。引きこもりの原因となった心の傷は一体いつ癒えるのだろうか。自分にできるのは少しでも息子の傷を癒してやることだ。児童文学作家の自分にできないはずがない。自信を持ってあきらめずにいればいつかは必ず──
 軽やかな携帯の着メロが、思索の世界から恭子を現実に引き戻した。
 こんな朝早くからかけてくる相手は一人しか思い当たらなかった。着信画面に予想通りの名前を見い出し、恭子は顔をしかめながら電話に出た。
 電話の声は底なしに明るい調子で言った。
『もしもしー、二ノ宮先生ですかー、おはようございますー、朝早くすみませんねー』
 二ノ宮というのは恭子のペンネームだ。「二ノ宮はるか」という名前で今までに出した本は三冊にのぼっていた。
「おはようございます」
 しおれた声で恭子は応えた。
『ちょうど徹夜明けでしてね、濃いコーヒーを飲んだら先生のことを思い出しまして』
 もう少し忘れたままでいてくれたらよかったのに、と恭子は唇をかんだ。
『どうですか、進み具合は? もうそろそろ原稿を見せていただけるのではと思っているのですが』
 雑誌に連載を持っていない恭子に、いわゆる締め切りというものはない。ないけれど、前作を出版してから既に七ヶ月。次回作のプロットすらまだできていない。売れっ子というほどではない恭子に対し、編集者がしびれを切らすには十分な時間だった。
「いえ、それは……」
 電話の向こうで相手がため息を漏らすのが分かった。
『先生、今は息子さんが大変な時期だということは存じ上げてますが、そろそろ本腰を入れていただかないと……ねえ、プロなんですから』
 恭子はこの男のこういうところが大嫌いだった。わざわざ息子のことを持ち出す必要などないではないか。うっかり口をすべらせた自分にも非があるとはいえ、相手の態度は賞賛できるものではないはずである。
「それはもう、十分承知しています」
『本当ですか?』
「はい、月末には何とか形になったものをお見せできると思いますので」
 恭子はできるだけ誠実な声で言った。
「お約束します」
 大嘘だった。そんなあてはどこにもない。計画性の鬼と友人に言われていた昔の自分はどこへ行ってしまったのだろうか。
『では、それを楽しみにお待ちしてます。がんばって下さい。息子さんもお大事にどうぞ』
 意外にあっさりと電話は切れた。本気で信じたのかどうかは分からなかったが、これでとりあえず月末までは凌げたようだった。
 こんな嘘が口から出てくるようになったことが恭子は自分でも信じられなかった。けれど、仕方ないではないか。この収入源を失う訳にはいかない。生活がかかっているのだから。
 それともまさか、今のは自分に見切りをつけるための電話だったのだろうか。主婦業の片手間でしている児童文学作家など、貴重な存在と言うには程遠い。圧倒的に買い手市場なのだ。そう思うと、急に怖くなった。
 けれど、どうしろというのだ。今は晴樹のことで頭が一杯なのだ。とても原稿どころではない。もうすぐ晴樹は立ち直ってくれるはずなのだ。いつまでもこのままのはずがない。そんなことあろうはずがない。彼には後少し母親である自分の助けが必要なのだ。
 熱いお茶が飲みたかったが、それを入れる気力もなく、恭子は寝室に直行した。生活サイクルだけは引きこもりの息子とほとんど変わらなくなっていた。こんな生活をいつまで続けられるだろうか。恭子は不安を枕に眠りに落ちていった。


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