−08−
     
 今日もまた、目を覚ますと夕方の四時だった。ブラインド越しに差し込む夕陽が晴樹にはやけに疎ましく思えた。
 喉がからからで机の上のぬるくなったペットボトルの残りを飲み干すと、空腹感を覚え、スティック状の健康食品をひとかけら口にした。ようやく生き返った心地がした。
 晴樹は無意識の内に机の上のパソコンから目をそらした。母親のいる居間でテレビを見る気にもなれなかったし、ネットサーフィンをするのも億劫だった。自宅学習のテキストはもう随分と手を着けておらず今さらという感じだったし、他にも何もやることがみつからなかった。引きこもりは、人生と社会から引退した人間のように一人で時間をつぶさなければならない宿命なのだとあらためて思い知らされた。
 何故自分は引きこもっているのだろう。ふとそんな疑問が晴樹の頭に浮かんだ。だが、それは晴樹にとって自明な問いだった。
 声がでないから。声を失ってしまったからに他ならない。声が出ないことをバカにされ、そんな自分を見る他人の視線が恐くなり、いつの間にか引きこもるようになってしまったのだ。
 では、なぜ声がでなくなったのか。それを考えると答えは霧の中に隠れてしまうのだった。両親の離婚が関係しているような気もするし、それとは無関係なような気もする。医者の言うことはまるっきり当てにならなかったし、結局、晴樹には時を頼むことしかできなかった。だから晴樹にできることは、それまでひたすら時間をつぶすことだけだった。
 だるい体でやっとの思いで立ち上がると、机の上のパソコンに視線が行った。
 電源がついたままだった。舌打ちをして画面をのぞき込むと、オンになったままのメッセンジャーに母親のメッセージが入っていた。
 
母の発言:忘れないで、今日はお医者さんの日よ。
 
 予約の時間は特にないはずだが、どのみち医者に行くような気分ではなかった。
 そのままイスに腰掛け、マウスに手を置くと、メッセンジャーをオフにした。あんな母親の言葉など今は見るのもイヤだった。晴樹の手はそのままサーティワン・キングダムのアイコンにカーソルをあわせていた。
 だが、晴樹の手はそこでハングしたように動かなくなった。ダブルクリックするだけでゲームの世界に入ることができるのに、晴樹の指先は強烈にそれを拒否していた。
 玄関のチャイムが鳴るのが聞こえた。
「はあい」と台所から母親が応え、ぱたぱたと晴樹の部屋の前を通り、玄関へかけてゆく。
 晴樹のクラスメートが訪ねて来ることなどとっくになくなっていた。自分勝手な引きこもりに差しのべる手はないということだろう。その考えは、引きこもりが好きで引きこもっているという点で間違っているが、手を差しのべられてもそれは不安を増すだけだという点から見ればありがたかった。
 町内会の回覧板か、セールスか、新聞の集金だろうと晴樹は思った。それでいて玄関から聞こえてくる会話に何とはなしに耳をすませた。
「……回覧板、御覧になったと思うんだけど、今度の日曜日はマンションの住民集会でしょ。今度は色々と大事な話があるそうだから、小川さんも是非いらしてね」
「できるだけ、考えてみます」
「……まだ晴樹君は学校に行ってらっしゃらないの?」
「……ええ」
「大変ねえ、でも、奥さん、こういうのは今多いそうだから……」
 隣のサガミのおばさんの声だった。前はよく晴樹の母親とママさんバレーで活躍していたことを晴樹は覚えていた。
「うちの子の隣のクラスでもね、やっぱりいるのよ。もう半年も学校に……」
 晴樹は隣人のくだらない言葉を耳から追い出し、マウスを持つ手に力を込めた。
 パソコンは低い音を立て、サーティワン・キングダムのプログラムを起動した。ネットに接続して、ログイン画面をクリア。そして、サーティワン・キングダムの世界にHARUは降り立った。
 勿論、降り立ったというのは言葉の比喩だ。実際には、HARUは誰もいない荒野で地面に一人横たわっていた。昨晩死んだままで自動的にログアウトされていたのだった。隣にKUROROの姿はもうなかった。
 復活コマンドを押せばすぐに生き返って冒険を再開することができるのに、それがやけに億劫だった。生き返ってどうなるというのだ。その世界は晴樹にとって一体何の意味があるのか。この世界も現実と同じ意味のない世界ではないのか。そう思うと、ここで死に続けていることが自分にはふさわしい気がしてくるのだった。
 部屋のドアが二度叩かれ、母親の声が聞こえてきた。
「晴樹、起きてる? 今日はお医者さんよ」
 隣人はいつの間にか退散したようだった。
 晴樹は苛立ってドアの元へ行くと、ドアを強く一度だけ叩き返した。一度は、つまりノーだ。
 少しの間があって足音が立ち去ってゆくのが聞こえた。完璧な意志疎通(コミュニケーション)。これ以上何を求めると言うのだろう。
 晴樹は机の前に再び腰を据えた。
 死んだままのHARUが画面の中から晴樹を見つめているようだった。
 死んだままでもできる操作はいくつかあった。会話にステータスチェック、アイテム整理にサーチコマンド。
 迷った挙げ句、晴樹はサーチ機能を使った。探す相手は一人しかいない。一瞬の待ち時間の後、サーチ結果が画面に表示された。
 結果は、予想通りだった。
 昨夜のことはまだ心の整理も、頭の整理もついていなかった。どういうことなのか訳が分からなかった。本気なのか、それとも冗談なのか。単に彼女がそういうプレイヤーだったということなのか。何もかもが晴樹にとって理解不可能だった。
 いや、そんなことはどうでもいいことなのかもしれない。彼女のことなど忘れてしまった方がいいのだ。昨日のことは単なるゲームの中の出来事にすぎない。ゲームは一人で時間をつぶすだけのもので、それ以上でもそれ以下でもない。
 晴樹が気持ちを切り替えようとしていると、死んだHARUに向かって声をかけてくる人物がいた。
 
KURORO>>あらら〜ひょっとして昨日から死んだままですか〜
KURORO>>まさかそんなことないですよね〜 
 
 そんなことはあるのだが、晴樹は別に釈明しようとも思わなかった。
 HARUの死体をのぞきこむKUROROの顔がやけに大きく映った。
 
KURORO>>ちょっと待っててくださいです〜
 
 そう言うと、KUROROはその場で大声で復活魔法が使える人を探し始めた。
 
KURORO>>どなたか復活魔法をかけてくださいなのです〜 お願いしますなのです〜
 
 晴樹は復活コマンドを使うから人を探す必要などないと言ったのだが、KUROROは頑としてゆずらなかった。
 KUROROが人を探しに走り去ってしまうと、HARUは復活コマンドを使うわけにもいかなくなってしまった。
 本当におせっかいな奴だ、と晴樹は思った。彼の好意は理解できた。だが、それは晴樹にとって少しばかり肩身が狭くなる、現実の世界なら間違いなく払いのけてしまう類のものだった。
 そんな晴樹の思いも知らず、KUROROは随分と走り回ったらしく、十五分ほどたって隣のエリアから人を連れて戻ってきた。
 初心者に引っぱり出された気のいい冒険者に蘇生魔法をかけてもらうと、二人は礼を述べてそのプレイヤーを見送った。
 二人きりになると、KUROROは一転すごい勢いでHARUに話しかけてきた。
 
KURORO>>昨日はびっくりしたのです〜
KURORO>>ああいうプレイもあるなんてショックなのです〜
KURORO>>それからSARAHって人のこと、ちゃんと聞かせてほしいのです〜
 
 しばらくの間、HARUは沈黙を守っていたが、KUROROの質問責めはいつまでたっても終わりそうもなく、仕方なくかいつまんで事情を説明した。
 
KURORO>>それはひどいのです〜
KURORO>>友だちなのに、そんなことしたらいけないのです〜
HARU>>別に友だちってわけじゃ……
KURORO>>そもそもクズとかウジ虫とか言うのはサイテーなのです。そんなこと言う方がクズで、サイテーでウジ虫なのです〜
 
 まるっきり小学生の論理だが、やはりKUROROを動かしているのは小学生くらいなのかもしれないとあらためて晴樹は思った。
 
HARU>>別人、てことはないかな?
 
 突然思いついたその考えは晴樹にとって天の恵みだった。そうであれば、もしそうならば、昨夜のことは別にどうということのない、ただのPKでしかない。SARAHの名誉は保たれるのだ。
 けれど、KUROROはそれをあっさりと否定した。
 
KURORO>>S・A・R・A・H。騎士団の人に聞いたのと同じスペルだったです。間違いないのです〜
 
 HARUは何も言い返さなかった。そんなことは、分かっていた。分かっていたけれど、ただ認めたくなかっただけなのだ。
 意気消沈するHARUにKUROROは新情報を語り始めた。
 
KURORO>>実は、あれからネットで調べてみたのです〜
HARU>>何を?
KURORO>>彼女は騎士団さんの言った通り、有名な人だったのです〜
 
 KUROROがネットで調べたところによると、SARAHは今年の頭にベルズウェイクの代王となり、PKグループを率いて自国内でのPK行為を奨励するなどの暗黒政治を行うブラッククイーンとして有名になるのと同時に、サーティワン・キングダムを扱うメールマガジンでもコラムを書いていて、そちらもそれなりの人気があるということだった。
 要するに悪人プレイだった。悪い人を演じているのだ。サーティワン・キングダムもRPGであるのだから、当然そのような役割(ロール)をプレイングすることは有りである。
 
KURORO>>やっぱりそういう人みたいなのです〜
HARU>>いいんだ。
HARU>>少し話しただけの人だから。
HARU>>PKなんて普通のことだし。関わらなければいいだけさ。
KURORO>>そうなのです〜 嫌なことはきれいさっぱり忘れるのです〜
KURORO>>前へ進むのです〜
KURORO>>ゴーゴー、HARU&KUROROなのです〜
 
 こういうときにKUROROの脳天気さは救いだった。彼が何者であってもそれはありがたかった。
 いつまでも落ち込んでいても仕方ない。気晴らしのゲームの中で落ち込んでいては本末転倒だと、晴樹は自分に言い聞かせた。
 
HARU>>じゃあ行こうか、モンスターと戯れに。
KURORO>>オーケーなのです〜
 
 二人は視界に入ったモンスターに向かってそろってダッシュした。
 しかしながら、相変わらずKUROROは無鉄砲で、それは当然の如くモンスターの機嫌を損ね、HARUもその巻き添えを喰らって死亡した。今度はそろって復活コマンドを使って経験値を減らすことになった。
 
KURORO>>ごめんなさいなのです〜
 
 晴樹としてはつっこむ気も失せていた。彼はこういうプレイスタイルなのだ。おそらく何度言っても、どう言っても変わらないのだろう。不思議なことに、苦笑で済ませられる程度に晴樹自身もその感覚に慣れつつあった。
 
KURORO>>今度は失敗しないです〜
KURORO>>あっちの方を探してみるですよ〜
 
 そう言ってKUROROが走り始めようとしたとき、どこからか会話が聞こえてきた。
 晴樹は画面に展開されるその会話の奇妙な内容に目を凝らした。
 
TOMY>>違うって、そこはもっと鋭うしてやな。
NERO>>いやいや、ここは流しといて、次の会話でぐさっ、どっか〜んやで。
TOMY>>何アホ言うてんねん。おまえ、分かってへんすぎや。
NERO>>分かってへんのはオマエやろ。ここは「は〜い」で行って、次の「犬の道ィイイ」でオチや、絶対。天地神妙絶対無限拳。
TOMY>>アカンわ、そんなんじゃな──
 
 KUROROが大きな岩の所からHARUを手招きした。行ってみると、岩影に声の主である二人組を発見した。エルフであること除けば、ごく普通の冒険者である。
 会話がぴたりと止まり、会話の主たちは闖入者にそろって視線を向けた。
 
TOMY>>おわ、聞かれてたん?
 
 二人組の片方が大げさに驚いた。
 KUROROはそれにこくりとうなずいてみせた。
 
NERO>>うわー、めっちゃハズかしやん。TOMY>>ここやったら人少ないからちょうどええ思てんけどなあ。
 
 関西弁の二人にKUROROは興味津々に語りかけた。
 
KURORO>>何やってたのですか?
NERO>>ネタ合わせ。
TOMY>>オレら、漫才コンビやねん。人集めて漫才披露するねん。
 
 漫才──MMORPGで漫才。その異色の取り合わせに晴樹は何と言っていいやら分からなかった。
 
NERO>>前にも街でやってんけど、どうにも人が集まらんでね。空気が寒い寒い。
TOMY>>というより、この国自体、人少なないか? 何でこんなに少ないねん。そやからもっと国力の上の街でやろ言うたやろ。
NERO>>最初はこういう小さな街から初めて成り上がるって意見にオマエも賛成したやろが。
TOMY>>忘れたな、そんなん。
NERO>>オイ!
KURORO>>漫才屋さんですか。渋すぎなのです〜
TOMY>>漫才屋さんて、オレらあんみつ屋とかと違うで。
KURORO>>あんみつも大好きなのです〜
NERO>>お、天然ぽいな。
TOMY>>あんたも芸人目指しとるんか。それやったらオレらのライバルやけどな。
KURORO>>ほへ〜、それは難しいのです〜。ボクの相方はあんまりしゃべってくれないのです〜
 
 そう言って、KUROROは隣のHARUをちらりと見た。
 
TOMY>>そらアカン。ボケがどんだけガンバっても、つっこみがしゃきっとしてくれんとな。ガンバらなあかんでHARU君。
NERO>>そやで。て、いつの間に新人激励会になっとんねん!
 
 浴びせかけられる言葉のシャワーは二人組なだけにKURORO以上のパワーがあった。しかも関西弁。MMORPGで関西弁。おまけにそれを話すのは、美形のエルフコンビ。晴樹は別に関西弁に抵抗があるわけではないが、それでも文字で打ち出される関西弁は何だかしっくりこなかった。きっとイントネーションが省略されているからなのだろうが、どのみちその会話の輪に入ろうとは思わなかった。
 
HARU>>ぼくたちこれで……
 
 HARUはその場を離れようとしたが、すぐに引き留められた。
 
TOMY>>ちょい待ちいな。よかったらオレらのネタ合わせ見て感想聞かせてくれへん?
NERO>>そうそう、公平で客観的な意見ていうのをこいつに分からせなあかんのよ。協力してくれへんかな。
TOMY>>それはこっちのセリフや。この石頭に分かるよう言うてやってほしいねん。
 
 晴樹はどうにも気が進まなかったが、KUROROは既に体を揺らしてやる気満々だった。そうなるとHARUとしても首を縦に振るしかなかった。
 荒野でのネタ見せは十五分ほど続いた。そしてその後三十分以上にわたり、熱いネタ論議が繰り広げられた。もっとも、熱く語っていたのはほとんど二人組とKUROROで、HARUは座って話に耳を傾けていただけだった。
 ネタのできばえの方は、素人の晴樹から見ても大したものだった。勿論、KUROROは大喜びで、なおかつ、晴樹には思いもつかないような改善ポイントをいろいろと指摘していた。どうやらKUROROは結構なお笑いマニアのようだった。
 KUROROもこのお笑いユニットに入れてもらえばいいのにと晴樹は思った。そうすればKUROROも思う存分話せるだろうし、彼らの芸もさらにワンランクアップするだろう。そして、晴樹も小うるさい相棒がいなくなり肩の荷が下りるというものだった。
 彼らの話によると、二人はリアルでもお笑い芸人を目指しているらしく、このサーティワン・キングダムでのお笑い活動はあくまで話題作りのためのもののようだった。
 彼らの前向きさは晴樹には異質なものだった。MMORPGの世界は晴樹にとってはもっと平坦なものであるべきだった。熱くもなく寒くもなく、努力も感動もない。そんな時間つぶしの場所。
 同じ世界に属しながら、自分と違う世界を生きている二人を見て、晴樹は少しだけうらやましく思った。
 
TOMY>>ほんならサンキューな。
NERO>>公演やる時は一報入れるから必ず見に来てや。
TOMY>>知り合い一杯連れてくるんやで。
KURORO>>楽しみにしてるです〜
HARU>>がんばって下さい。
TOMY>>&NERO>>御機嫌よう〜〜〜〜〜〜
 
 二人は会話の最後までポーズをつけて締めくくった。
 思わず晴樹はくすりと笑いをもらした。勿論、それは画面には表示されなかったが、確かに存在した笑いだった。
 

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