第8章 王位継承



 その翌朝、ブローシュダークの西部地域であるメルクール候領は、そのさらに西の大国、フォルティーズ辺境伯の大軍と対峙していた。
 メルクール候はわずかな時間でそろえたわずかな手勢十七騎と農民兵二百の中央で声を失っていた。彼の手には、目の前で大軍を陣するフォルティーズ伯からの書状があった。
「なんと書いてあるのです?」
 いきなりの陣立てから見ても、これがいつもの形式張った戦ごっこでないことは誰の目にも明らかだった。そして今主人の青ざめた顔を見て、その不安が現実となりつつあるのを部下たちは感じ取った。
「敵軍の目的は、我が領土の征服。三時間後に進軍を開始するとある」
 それを聞いて部下たちの顔色も主人のそれと同じになった。
「そんな……ブローシュダークが外敵の侵攻を許したことなどこれまであったでしょうか。こんなことがあってよいはずがありません」
 ヒステリックな部下の言をメルクール候はうつむいて訂正した。
「結果的に独立を保ってきたまで。一時、領土を敵の手に委ねたことがないわけではない」
「しかし……」
「いかがいたします。三時間で集められる兵などたかがしれています。王家からの援軍も早くて一日。眼前の敵は……千五百」
 誰もが唇をかみしめた。明らかに結果は見えていた。彼らの心中を思ってメルクール候は、気丈にふるまいつつ威厳を示した。
「案ずるな。書状の最後にはこうもある。無益な戦を避ける思慮分別があるならば、降伏も受け入れる。身の安全は約束する、とな」
 部下たちの間にざわめきが起こった。
「降伏ですと。それも、あの成り上がりもののフォルティーズに対して」
「あの残忍なフォルティーズ伯ロイズが約束を守る保証はどこにもありませぬぞ」
「こうなれば、玉砕覚悟で打って出る他は」
「いや、何か策を講じれば互角の戦も……」
「馬鹿な、あと三時間で何ができる!」
 部下たちの収拾のつかぬ論争をしばし眺めながら、メルクール候は部下の中で比較的冷静さを保っている男に目を止めた。彼の三男シュバルであった。メルクール候は彼を手招きで呼び寄せると、そっと耳打ちをした。
「我らは無益な戦をしてはならぬ。我らがなすべきことは時間をかせぐことのみ。おまえはその旨王家に使いに走るのだ」
「……ブローシュダークの伝説は、伝説ではないと」
「それ故、今まで国があるのだ」
 主君の言葉を受けると彼は決意の表情を浮かべ一同の輪を抜け出し、愛馬に鞭を打った。
「諸君、聞いてくれ」
 メルクール候は決定を伝えようと部下たちを見渡した。
「今より三時間後、メルクール家はフォルティーズに対し降伏を申し出る」
 さらなるどよめきが部下たちの間に走った。
 しかし、今度は候はそれを許さなかった。
「これは決定である。ブローシュダークの歴史を信じるならば、今回も侵入者が撃退されるは必定。それならば、ここで無益な蛮勇を誇り、領土を荒廃させ、人民に甚大な被害を与えるのは全くの無益。ここは忍耐である」
 部下たちは頭を垂れ、主君の言葉にうなずいた。
 そして、三時間後、メルクール候領主城ブーリンは無血開城された。




 その頃、黒卵城にはフォルティーズ侵攻の第一報が届いていた。さすがにこのときばかりは、王の間にカルノー司祭を始め、書記のタルク、会計係のボーラックスらが集まり、会議らしきものが持たれていた。
「どうなさるおつもりです、陛下。敵は大軍、この前の戯れ戦ではありませんぞ」
 タルクは切羽詰まった口調で訴えた。
「カスパール、バルタール両候の軍を集めるには三日はかかりましょう」
 ボーラックスがあきらめ口調でつぶやいた。
 ヨタはいまいましそうに床を踏み鳴らした。
「いまいましいフォルティーズの赤髪め。あと半月あればこちらから討って出ていたものを」
「陛下……」
 ヨタの無謀な言葉に二人は肩を落とした。
 ついに見かねてカルノーが助けを出した。
「案ずるな、お二方。ブローシュダークがこれまで生き延びてきたのはその軍事力によるものではない」
 二人の若い家臣は司祭の言わんとすることを察して押し黙った。
「ブローシュダークには、魔女がおる」
 司祭のその言葉を聞いてヨタの眉間の皺が深まった。
「魔女の力さえあれば、ブローシュダークが滅びることはない」
 司祭の口から魔女の存在を改めて語られ、二人は子供の頃からのお伽噺を現実として受け入れる覚悟を決めた。
「魔女の力でフォルティーズを撃退すると?」
 真剣なタルクの問いに司祭は大きくうなずいた。
「たやすいことじゃ」
「ならば、奴らを完膚無きまでにたたきつぶせば、和議で領土を得ることもできるということですな」
 熱のこもった声でタルクが語り、ボーラックスも賛同の意を表した。
「西部は土の肥えた土地だ。税収が跳ね上がることは間違いなかろう」
 司祭は表情を曇らせ、ヨタに視線を向けた。
「道化はまだ口を割りませぬか」
 ヨタは腕組みしたまま無言で視線を床に落とした。
「それでは、どうにもなりませぬな」
 状況が見えぬ二人の家臣が首を傾げた。
「それは、どういうことで?」
「魔女に願いをかけるには、王家の証として聖剣が必要なのじゃ」
「そ、それでは、この国の命運は、あの道化にかかっていると?」
「あの剣にそのような力があったとは……」
 司祭はヨタに決断を迫った。
「陛下、今こそが魔女の力を使う時ですぞ」
「そんなことは分かっておる。だが、道化が剣のありかをはかぬ以上どうしようもあるまい」
 司祭は視線をそらそうとするヨタに、意味ありげな言葉を口に出した。
「そのようなこと、このカルノーにかかればたやすいこと。おまかせ下さればすぐにでも」
 ヨタはいきなり机の上のものを払いのけた。
「出すぎたことをするな! 道化は予のものだ。おまえがどうこうしてよいものではない。……それに、フォルティーズなど、魔女の力を借りずとも、どうにでもなろう……」
 子供のような王の激情に家臣たちはため息をついた。
「魔女を恐れていては、ブローシュダークの王は務まりませぬぞ」
「黙れ、魔女など、恐れてなどおらぬ」
「……陛下、お覚悟を。これこそが王の務めなのです」
「わたしは……」
 その時、部屋の静寂をやぶり、勢いよく扉が開いた。四人は扉の方を振り返り、思わず息をのんだ。そこには、いるはずのない人間が立っていたのだ。
 扉を開いた人物は、美貌の女性を両側に従え、自らは深い闇のような長いマントをまとっていた。
「ヨクト……」
 ヨタのつぶやいた言葉は、部屋の温度を急激に下げた。
 弟は笑みを浮かべ、兄に語りかけた。
「たった一人の弟を出迎える顔がそれとは、いささか、味気ないものだな、兄上」
 カルノーが引きつった顔でヨクトを見つめた。
「まさか……魔女の力で」
 その言葉をヨクトは鼻で笑い飛ばした。
「それがどうした。神の力で生きようが、魔女の力で生き返ろうが何の違いがある?」
「何ということを。一度、死んだ者が生き返るなど、神がお許しになろうはずがありませぬぞ。一体、誰がこのようなことを」
 それに対し、ヨクトは腰の剣を鞘のまま一同の前に掲げた。
 それと同時に、傍の女性の一人が一歩前に出て清らかな声を発した。
「聖剣こそが、王の証。ヨクト様こそ、この国の王にふさわしい方なのです」
 続いてヨクトの後ろから道化が顔をのぞかせた。道化は血まみれの仮面からぺろりと舌を出した。
「陛下、いっそ王位など譲っておしまいなさい。どうせ魔女にとりつかれた国です。あなた様には似合いませぬ」
「道化!」
 ヨタは憎悪の目で、地下牢にいるはずの小男を睨み付けた。
「シナバールはどうした」
「あのような者、復活されたヨクト様の敵ではございませぬ」
「この下郎、恩義を仇で返すような真似をしおって」
 ヨクトは道化を弁護した。
「何を言う、兄上。道化はこのわたしを生き返らせたのだ。王家への忠心あまりあるというものでしょう」
「ふざけるな! その剣は王のモノ。おまえたちの」
「陛下!」
 ヨクトの傍らのもう一人の女性が二人の間に割って入った。一同にとって明らかに見覚えのある顔であった。
「御無礼をお許し下さい。我が兄、フォルティーズ辺境伯ロイズの軍が近くまで迫っております。兄はブローシュダークに出兵の気配ありとの誤解から兵を動かしております。何とぞ、真相をお伝え下さい。そうすれば、わたくしが命に代えましても兄をとめて……」
 ヨタと家臣たちの曇った顔がアースィの言葉を失速させた。
「まさか……陛下、そのようなことは?」
「そういうことだそうだ」
 ヨクトの手がアースィの肩をぐいと後ろに引き戻した。
 ヨクトは抜刀した聖剣の切っ先を兄の眼前に突きつけた。
「さて、本当に兄上にはこの剣を使う覚悟がおありか。あの魔女に対面し、願いをかける。それだけの度胸がおありか。フォルティーズを滅ぼすことも、永遠の王位も、死者の復活も、それらすべてをあなたの手のひらに握ることができるのですか」
 一同の視線がヨタに集まった。この世ですべてを委ねることができるのは、王に対してだけだという最後のはかない希望がそれにはこめられていた。
「愚問でしたな。あなたには何もできぬ。神にしばられた臆病者にできるはずがない」
「ヨクト様、言葉がすぎますぞ! あなたはもはや死人。いや、悪霊と何ら変わらぬ。早々に墓場にお帰りなされ!」
 声を荒らげる司祭に対し、ヨクトはぞっとするほど不気味な笑みをその顔に浮かべた。
「……言うに事欠いて悪霊とは、な」
 そして、今一度兄の顔をにらみつけた。
「さあ、悪霊を弟に持つ国王陛下よ、決心はつきましたか」
 ヨタは顔を小刻みに振るわせ、決意の言葉を吐き出した。
「勝手に、するがいい……俺は知らぬ、おまえのすきにしろ、その剣も、この国も、魔女もすべて」
「陛下!」
 臣下の声を振り払い、ヨタは足早に部屋から出ていった。
 勝ち誇ったようにヨクトは言った。
「さて、この悪霊をどうされる、司祭殿?」
 カルノーはしばし目を閉じ、答えを探した。
 あくまで正統な王にこだわるか、それとも「使える」王を認めるのか、あるいは……
 そして、
「分かりました。ただし、王位継承の儀式は必要です。すぐに支度致しますので礼拝堂にお越し下さい」
 かつて狂乱の王子と称され、今ほど「悪霊」と呼んだ人物に対し、カルノーは重々しく頭を垂れた。




 礼拝堂に集まった人々は皆、突然の王の交代に動揺し、新たな王を奇異の目で見つめていた。と同時に、先ほど届けられたメルクール候降伏の知らせにより浮き足立ってもいた。その結果、墓場から甦った新王は、ブローシュダークの窮状に対する神秘的な光としてとらえられていた。
 祭壇の前で司祭はヨクトに対し祝福の言葉を送った。彼の両隣はルチルと道化が誇らしげに固めている。
 アースィはその様を席の最前列から眺めていた。もはやヨクトに戦の意志がないことを宣言させても、兄が兵を退くとは考えられなかった。フォルティーズの兵を撃退するためにブローシュダークが魔女の力を使うのかどうかを見届けるため、いや、使わせないためにここに残るのだと彼女は自分に言い聞かせていた。
 最後の儀式として聖別の葡萄酒がヨクトに差し出された。
「汝が新たなるブローシュダークの国王として、光の神と、闇の魔女の加護を得んことを切に願わん」
 カルノーは自らの手にある、赤い葡萄酒のそそがれた銀の杯に見入った。
 神に仕える身でありながら、このような決断を下すのは身がよじれる思いであった。しかし、これもすべては神の法を守らんとすればこその決断である。この場にヨタがいないことが、救いといえば言えなくもない。
「これを飲めば、俺が新しい国王なのだな?」
 ヨクトの言葉に司祭はうなずいた。
 ヨクトはマントの下から手を伸ばし杯を受け取ると、それを一気に飲み干した。
 司祭は表情を強ばらせ、目の前に立つ神の理に背いた男を注視した。
「これで、俺がブローシュダークの王か」
 喜びを我慢できぬようにヨクトは再び念を押した。
「……何とも、ないのか?」
 司祭はかすれた声でうめいた。
 その様にヨクトはかすかに眉を上げた。
「本当に飲んだのか?」
 我が目を疑う司祭は、ヨクトから乱暴に杯を取り上げその中身を調べた。勿論、中には一滴の葡萄酒も残ってはいなかった。
 その時、儀式を見守っていた人々の間から短い悲鳴が上がった。
 儀式の手伝い役として最前列に陣取っていたコベリンは片手で口を押さえ、もう片方の手でヨクトの足下を指さしていた。
 そこには赤い滴が泉をつくっていた。ぽたりぽたりとしたたる新たな滴がその泉を押し広げていた。
「あ」
 ルチルは思わず声を上げ、反射的に赤い泉を両手で拭き散らした。
 だが、ヨクトが動くと、赤い滴りもまた落ちる場所を移してゆく。
 低いざわめきが礼拝堂に広がった。
「なるほど、道理と言えば道理」
 足下を見てヨクトは一人感心したようにうなずき、首の付けねをさすった。
 儀式が崩壊しかけたその時、道化が節を取って足踏みを始めた。
「どうしたことだ、この始末。飲めと渡した葡萄酒を、飲んだら飲んだで、大騒ぎ。儀式の酒も、自分で飲まねば気が済まぬ、酔いどれ司祭、万歳万歳」
 ヨクトは目の前でうろたえるばかりの司祭を鋭い目つきで睨んだ。
「司祭よ、そちの杯、美味であったぞ。少々、毒が入っていたようだがな」
 司祭の顔がさらに大きく歪んだ。
「な、何を証拠に……」
「ならば、床に滴る赤い滴、おまえ自身が飲んでみよ!」
 ヨクトは床にはいつくばるルチルを足蹴にし、司祭のために場所を空けた。
「この、化け物め……」
 司祭のうめき声を隠すように道化は再び歌い始めた。
「今日は不思議の連続だ。口から飲んだ葡萄酒が、足の間に滴り落ちる。厠ならばいざしらず、よりにもよって礼拝堂、王位継承真っ最中。毒を飲んでもへっちゃらと、啖呵を切った新王は、どんな体をしてるのか、一度は是非に見てみたい、一体どんな体なの」
 ヨクトは道化を一瞥し、口の端を上げた。そして、司祭に向かってマントの前をいきおいよく左右に開いて見せた。
 司祭は体を振るわせ、壊れてしまったようにがくんと床に膝をついた。
 ヨクトは振り返って自分の新しい体を臣下にも披露した。
「!!!」
 狭い礼拝堂に悲鳴がこだました。
「これが新しい王の体だ」
 マントの下に隠されていた白い骨格はパニックを引き起こすのに十分なものだった。何人かの女性は卒倒し、男たちにかかえられてゆく。
 ヨクトは礼拝堂から逃げ出してゆく彼らの悲鳴に高笑いを重ね、その様を見守った。
最前列のアースィだけが、ただ一人奥歯を噛みしめながら儀式の進行を待つように座り続けていた。
「どうなさいます、ヨクト様」
 ルチルは床にはいつくばった司祭を押さえつけて言った。
「茶番は終わった。放してやれ。司祭よ、どこへでも行くがよい」
 新王の意外な言葉にルチルは抗議の声を上げた。
「この男はヨクト様を殺そうとしたのですよ」
「俺は、寛大な男だ。時間もない。まず、やるべきことをやらねばならぬ」
 それに対し司祭は弱々しい声で待ったをかけた。
「何をする気だ」
「決まっている。魔女に願いをかけるのだ。まずはフォルティーズの軍を退け、その後にこの体をもとに戻してもらおう。あとは、ゆっくりと考えればよい」
 それを聞き、アースィが急に席から立ち上がった。
「ヨクト様!」
 それを無視して道化とルチルが声をそろえた。
「お供致します、陛下」
 ヨクトは道化を鋭い眼光で射抜いた。
「願いを増やす方法、確かであろうな、道化よ」
 地下牢に捕らわれていた道化を、ヨクトは魔女の願いの秘密を明かすことを条件に助け出したのだった。
「勿論でございます。この道化の名にかけて」
「おまえの名など興味ないわ」
 そう言い捨てると、ヨクトは祭壇の上に足をかけた。その時、司祭の手がヨクトの右足をつかんだ。
「許さぬ、おまえなどにこの魔女の力を、ブローシュダークを許すわけには……」
 司祭の言葉の途中で、鈍い音が響いた。
 司祭の口は床を転がりながら調子の狂った言葉を宙にばらまいた。
  「……い、か、ん」
 ヨクトは血で染まった剣を一振りした。
「……神の下僕の血は思った以上にしつこいらしいな」
 血のとれぬ剣をヨクトは自らのマントで丹念にぬぐった。
「な、何という、ことを……」
 アースィは突然の惨劇を目の前に気を動転させながらもかろうじて意識を保っていた。
「司祭を、剣にかけるなど、どうして、そのような……」
 道化が異常な陽気で騒ぎ立てた。
「司祭が祭壇の上で死ぬ。至福といわず何という。なにしろ、ここは礼拝堂、神に最も近い場所。うらやましいったらありゃしない」
 ヨクトはアースィに歩み寄り、彼女の細い顎を上に向けた。
「!」
「今度は気を失わずにいたか」
「何を……」
「おまえを妃にする」
「ヨクト様!」
 ルチルの声と同時にアースィの平手打ちがヨクトの頬を打った。
 ヨクトは女の強ばった表情を楽しげに見据えた。
「そんなことをしても何にもならんぞ」
「無礼な、離しなさい」
 ヨクトは暴れるアースィの手首をつかむと、愛猫でも抱くようにひょいと抱き上げた。
「おまえは俺のものだ」
 アースィは抵抗を試みたが、ヨクトの力は信じられないものでどうにもならなかった。
 ヨクトはもう一人の女に祭壇の下の扉を開けるよう目で合図をした。
 ルチルは表情を曇らせ、新たな王に進言した。
「その女をお連れになるのはおやめ下さい」
「なぜだ」
「……敵国の、女です」
 ヨクトは軽蔑の笑みでそれに応えた。
「俺がフォルティーズを征服すれば何の問題もなかろう」
「ですが……」
「おまえのそのしつこさは、前の世話女に似ているな。どこへ行ってしまったものやら」
 ヨクトのにやついた顔を見て、ルチルはうつむいた。
「分かりました」
 ルチルは祭壇の下に四つん這いになって、扉に手をかけた。それを見て、道化は彼女を手伝おうと、咄嗟に手を伸ばした。そして、それが偶然彼女の手に重なった。
 ルチルはそれを反射的に払いのけた。
「軽々しく触れないで」
 視線を合わせることなくルチルは冷たく言った。
 重い扉が開き、中から闇の気配が漏れだした。ヨクトはアースィを抱えたままそれに近づいた。
「どこへ、行くのです?」
 恐る恐るアースィは尋ねた。
「魔女のところさ。そこですべての願いをかなえてもらう」
 自分の予想が当たっていたことを知っても、アースィはとても誇れる気持ちにはなれなかった。ヨクトが何をしようとしているのか、底知れぬ不安が湧いてくるだけだった。
 ヨクトが扉の手前で立ち止まった時、道化は頭を垂れていたルチルの体をヨクトの方にに思い切り突き飛ばした。
 思わずバランスを崩したヨクトは見事に床に倒れ伏した。その拍子にアースィは彼の手からかろうじて逃れえた。そしてヨクトの意識は自分から逃げた女を何よりも追った。
 それは道化が狙うのに十分な隙であった。道化はヨクトの腰の鞘から剣を抜き取り、慌てて扉の穴に飛び込んだ。
 ヨクトが道化の行動を理解した時、道化は既に地下の階段を駆け降り始めていた。
「たばかりおったか」
 憎々しそうにつぶやき、ヨクトは道化を追って扉の穴に足を下ろした。そして、床の上で身構えているアースィに一瞬、目をやった。だが、何も言うことなく穴の中に降りていった。
 ルチルは祭壇の上の蝋燭と手に取り、あわてて彼の後を追おうとした。
 だが、そんな彼女をアースィが呼び止めた。
「お止めなさい。あなたが望んだ人は神の道を踏み外しています。これ以上あなたがついていっても……」
 ルチルはその言葉に何のためらいもなく答えた。
「いいんです。あたしにはあの人が必要なんです」


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