第9章 魔女の力



 道化は剣を抱え無我夢中で螺旋階段を駆け下りていった。だが、暗闇の中で必要なのは必死さなどではなく、注意深さであった。それほど進まぬうちに道化は階段を踏み外し、転げ落ちる羽目になった。気の遠くなりそうな痛みの繰り返しの中、道化は城の最深部へと近づいていった。
 一方、ヨクトは安定感を欠いたその体で苦労しながら、ゆっくりと道化を追っていた。
 しかし、進むにつれしだいに濃くなる魔女の気配が、聖剣を持たぬ彼の行く手をじわりと阻むこととなった。
 あの時と一緒だ。ヨクトは幼い頃の事を思い出していた。父の後を付けて、この階段を下りていったこと。そして、それ以来魔女の力に魅入られてしまったこと。すべてはあの日が始まりだったのだ。
 だが、引き返す訳にはいかない。魔女の力を他人に渡すわけにはいかないのだ。
 ヨクトは一歩ずつ重い足取りを進めた。それでも、一度体験しているせいか、それともこの異様な体のせいか、魔素の影響は以前ほど大きくはなかった。
「ヨクト様、大丈夫ですか」
 ようやくヨクトに追いついたルチルが、彼に蝋燭の明かりを向けた。そして、彼の体を支えようと、彼の腕と骨だけの胴体の間に体をもぐりこませた。
「何のつもりだ」
「おまかせ下さい、ヨクト様」
「どういうつもりだ、ルチル」
「!」
「その顔、魔女に願いをかけたのであろう」
 ヨクトの言葉にルチルは顔面蒼白となった。
「勝手に魔女の力を使いおって。……おまえでなければ、問答無用で首をはねていたところだ」
 ルチルはうつむいたまま言葉を発した。
「……また、抱いてくれますか?」
 ヨクトは眉間に皺を寄せた。
「この姿なら、あたしをまた、抱いていただけますか?」
 ヨクトは思わず苦笑を漏らした。
「何を勘違いしている。俺があの時欲しかったのは、前のおまえのように醜い子供だ。父と兄の驚く顔が見たかっただけだ。おまえなどに何の興味もない」
 そして、ヨクトはマントの下の肋をさすりながらつぶやいた。
「それに、今となっては子もいらぬ」
 突然、ヨクトのつぶやきが耳に入らぬほど、ルチルは激しい咳に見まわれた。深まる魔女の気配がそうさせたのであろう。
 一瞬、彼女の背をさすろうとしたヨクトはすぐにそれを思いとどまった。
「戻っていろ。おまえの力など借りぬ。魔女の力はこの俺のものだ」
 ルチルは苦しそうに口を押さえ、首を振った。
「いいえ、ついていきます、何があっても、絶対に」




 じんじんと熱を持った体の痛みで、道化は自分が気を失っていたことに気づいた。目は開けているつもりだったが、視界は薄ぼんやりとしていた。どうやら、最深部まで転がり落ちてきたらしい。
 道化がふらふらと立ち上がると、力を入れすぎていたせいか、感覚のなくなった両腕の間から何かが床にこぼれ落ちた。足下を見て、道化は微かな明かりの源が自分が大事に抱えてきた剣であることに気がついた。と同時に自分の体が血まみれになっていることにも気づいた。彼が抱えていたむき出しの刃は、彼の体に無数の傷を刻みつけており、こうして生きていることが奇跡的に思えた。
 道化は力の入らぬ体で重い剣を手に取ると、ゆらりとあたりを見回した。
 魔女は、どこだ……
 そんな道化の耳に奇妙な声が聞こえた。
<十番めの願いはいかに?>
 深い闇の奥に道化は目を凝らした。剣を向けてみてもそれは判然とせず、道化は恐る恐る足を進めた。
 部屋の奥には黒い霧のような触手が九本、地面からはえ出て、海草のように宙をうごめいていた。
 魔女!
 直感だった。道化には、それは魔女以外の何物とも思えなかった。
「……言うぞ、願いを言うぞ、いいか?」
 九本の触手は道化の願いを歓迎するかのように不思議な動きを見せた。そして、それに引き込まれるように道化は願いを口にした。
「俺は、あの女が欲しい」
<……どの女だ>
「ルチルだ、おまえが美貌を与えたあの女だ。この醜い道化にあの美しい女がひざまづくのだ。分かり合うことなど何もない。あいつは美しくなり、この俺は目なしのできそこないだ。だが、見ていろ、後でまた醜い顔に変えてやる。この俺の手で前より無様な顔にしてやるぞ。何が同類だ。何が分かり合えるだ。俺はおまえを手に入れる。待っていろ。おまえは俺のものになるんだ。どうだ、魔女、これが俺の願いだ」
<……どうしたいのだ>
 魔女の乾いた言葉に道化は我に返った。
 自分は何をしようとしているのか。彼女がヨクトを愛していたのは分かっていたはずだ。彼女はすべてヨクトのために尽くしてきたのだ。自分への誘惑も、共感の言葉も、すべてはヨクトのため。そんなことは、分かっていたはずだ……
「違う……」
 触手は願いをとめられ、苛立ったようにぶるんと宙を打った。
「陛下の、ヨタ様のお気持ちを安らかにさしあげてくれ。魔女の力で生きているんじゃないと信じさせてくれ。できるか、できるだろ、魔女なんだから」
<承知>
 道化は自分のなすべきことを頭の中で反芻した。ヨタ王を救うことが第一。だが、ヨクトからもこの危険なおもちゃをとりあげなければならなかった。そのためには、魔女に十二の願いをかなえさせ、契約を終わらせる必要がある。
 道化は残り二つの願いを必死で考えた。
「それから、ええと……そう、道化の仮面を、壊れぬようにしてくれ。十一番目の願いだ。最後の願いは、ええと……」
 最後の、願い。いくつもの願いが道化の頭の中で駆けめぐった。ルチルとの愛、道化としての名声、大金持ちの貴族となって、自分を捨てた父親に会うのも悪くはない。甘美な匂いをもつそれらの誘惑を道化はなかなか断ち切ることができなかった。
 道化の躊躇を見て取ったのか、九本の触手は待ち切れぬように闇の中でぱあっと大きく開いた。
<二つの願いをかなえよう>
 魔女の声が聞こえるのと同時に、道化は背後に人の気配を感じた。
「いい度胸だ、この下郎が!」
 暗闇の中から姿を現したヨクトは、大股に道化に歩み寄ると震える道化の顔に拳を喰らわせた。道化は大きく吹っ飛び壁に体を打ち付けた。その拍子に聖剣は道化の手からこぼれ落ちた。
<最後の願いは? 最後の願いは? 最後の願いは……>
 狂おしそうに響く魔女の声を聞いてヨクトの顔色は一瞬にして青ざめた。
「貴様、一体何を願ったのだ!」
 道化は地面にうずくまりながら、熱い仮面を押さえ、体をふるわせた。
 ヨクトは奥歯をかみしめ床に落ちている剣を拾い上げた。そして、ルチルに道化を押さえているよう命じ、魔女のもとへ駆けよった。
 ルチルは道化の前で腰をかがめ、冷たい声でささやいた。
「これ以上、ヨクト様の邪魔をしないで」
 ヨクトは剣をかかげ、最後の願いを待ちわびている魔女を見つめた。
 その姿はヨクトが知っているものとは幾分異なっていた。彼が幼い頃見たときの魔女は、七本の触手を蠢かせていたが、今は一目でそれより多いことが見て取れた。ヨクトは注意深く触手の数を数えた。
 それに答えるかのように触手の声がどこからともなく聞こえてきた。
<八つ目の願いは、下女の願い。双子の弟の蘇りを求めけり>
<九つ目の願いも、下女の願い。国一番の美貌を求めけり>
<十番目の願いは、道化の願い。国王の再起を願いけり>
<十一番目の願いも、道化の願い。割れぬ仮面を求めけり>
「下らぬ、願いを……」
 ルチルはヨクトの手が震えているのが分かった。
「後、一つ。たった一つしか願いがかなわぬのだぞ」
 ヨクトは狂ったように剣を振り回し始めた。
「せっかく、黄泉の国から舞い戻って見れば、肝心のものは他人に荒らされ放題! 何だ、これは、ふざけるな!」
 部屋の隅で道化はようやく顔を上げた。道化はまだ熱く火照った仮面の下から、狂乱の態のヨクトとそれを不安げに見やるルチルの姿を認めた。
「何だ、この顔は。こんなもののために、俺の願いを一つふいにしたのか!」
 ヨクトの怒りはすぐさまルチルに向けられた。
「申し訳ありません。申し訳ございません」
 まだ、願いは一つ残っていた。それをこの狂乱の王子にあずけることは、道化にはどうしてもできなかった。
「……首をはねるなら、この道化が先かと」
 ヨクトは剣を振り回すのを止め、血走った目で道化を睨んだ。
「そうか、そんなに死にたいか」
「その代わり、わたしを殺せば、残りの願いは一つのまま。それで国をお救いになりますか? 御自身は一生その体のままで」
 ヨクトの体が震えた。
「これというのも貴様が、余計な入れ知恵を、この女に、したせいだ!」
 ヨクトは言葉の数だけ、道化に渾身の蹴りを入れた。
 道化はうめきながらそれに耐え、ヨクトを見返した。
「ルチルは、あなたのために、魔女の力を使ったのです。彼女に感謝を……」
「ふざけるな、美しい姿になるのは、自分の欲望ではないのか! 魔女は己の欲望のためにあるのだ!」
 道化はヨクトの拳を顔面に受けたが、痛みでじんじんするだけで、素顔をさらすようなことにはならなかった。
「……牢から出していただいた御恩、忘れたわけではございませぬ。お約束したとおり、この道化にお任せ下されば、魔女の力はヨクト様の思うがまま」
 ヨクトは手をとめ、疑わしげな視線を道化に向けた。
「仮面を新調しましたのは、古びた仮面がいきなり割れ素顔をさらしては、ヨクト様の手前申し訳なく思った次第。ヨタ様の再起を願いましたのは、ヨタ様が再び王位への執着を取り戻し、ヨクト様の邪魔にならぬようにと考えたからでございます」
 道化は苦しい嘘を何喰わぬ顔で披露した。
「しかし……そのおかげで、魔女への願いはあと一つしかかなえられぬのだぞ」
「この道化、嘘は決してつきませぬ」
「笑わせるな。道化の言葉は戯れ言ばかり。真の言葉など一年にいくつあるか分からぬわ」
 道化は肩をすくめ、大げさに首を振って見せた。
「ならば、結構。残り一つの願いをおかけなさい。たった一度でもう終わり。後悔したってもう遅い。後には何も残らない。それでも道化はかまいませぬ。たとえ、命が絶たれても」
 一世一代のはったりだった。何故ここまでするのかといえば、道化自身よく分からなかった。命をかけているというのにおかしなものだ。だが、それもまた道化である自分らしいのかと納得できるような気がした。
 長い沈黙の後、ヨクトは口を開いた。
「……よかろう。その代わり少しでも妙なことをしたら、新しい仮面ごとその首、即刻たたき落としてくれる。覚悟しておけ」
 道化はよろよろと魔女の元に歩み寄った。そして、顔を魔女の触手に近づけ、声を出して数を数えだした。
「……五、六、七、八、九、十、十一。確かにあと一つ」
 ヨクトは苦々しげな顔を見せたが、道化の手招きに従い、願いをかけるため聖剣を体の前に立てた。
「大丈夫。まあ、ご覧下さい」
 そう言って、道化は最後の願いを口にした。
「魔女よ、十二番目の願いをかなえたまえ。我が願いは!」
 道化の言葉は喉の奥からものすごい力で闇の中に吸い込まれた。
 十一本の触手が低いうめき声を上げ、狂ったように宙を舞った。
<……十二番目の願い、十二番目の願い、十二番目の願い……しかと、かなえよう……>
 道化は固まったようにその場に立ちつくした。
「何だ、何と言ったのだ、道化よ」
 道化は呆然としてヨクトを見上げた。
「一体、何を願ったのだ、おまえは?」
 どうやらヨクトには道化の願いは聞こえなかったらしい。確かに、道化にも自分の声が一瞬なくなったように感じられた。
 だが、魔女には通じたようだった。魔女はそれをかなえるのだ。
願いの数を、星の数まで増やせと」
 ヨクトはそれを聞いて表情を失った。だが、すぐに腹の底からこみ上げてくる笑いを堪えるのに必死になった。
「なるほど、なるほどな。いかにも道理だ。これで無限の願いがかなうというわけだ」
 十一本の触手は、十二番目の願いをかなえようとしているのか、蕾のように小さく縮こまっていた。
「さすがは道化よ。知恵比べでは魔女にも負けぬというわけか」
 ルチルがヨクトの傍に駆けよった。
「おめでとうございます、ヨクト様」
 ヨクトは彼女のことなど気にもとめず、満足そうに魔女の姿を眺めていた。
 道化もまた、魔女の姿を気にとめながらヨクトに話を切り出した。
「ヨクト様、褒美といっては何ですが、この道化の願い、もう一つかなえていただけませんでしょうか」
「何だと」
「いえいえ、わたしの願いなど、ほんのささやかなもの。魔女の力など使わずとも、ヨクト様のお許しさえあればすむことでございます」
 道化はちらりとルチルの方を見た。
「……言ってみろ」
「この女を、この道化めに下さいませ」
 思わずルチルの表情が強ばった。彼女はヨクトに抗議の声を上げようとしたが、それは声にならなかった。二人はヨクトの答えを待った。
「……好きにするがいい」
 ルチルは拒否の意を体全体で示すべくヨクトにしがみついたが、ヨクトはそれをめんどうくさそうにふりほどいた。
「魔女の願い二つ分、手切れ金として十分であろう」
 死の宣告を受けたかのように、ルチルは床に崩れ落ちた。そんな彼女にすかさず道化が走り寄った。
「さあ、これであんたはこの道化のものだ。前の姿もよかったが、今のあんたも悪くはない」
 道化はルチルの背に手をまわし、耳元でささやいた。
「ヨクト様はあんたのことなんか、何とも思っちゃいないんだ。しょせん身分が違うんだから仕方がない。あきらめるほかないのさ」
 ルチルはうつむいたまま、駄々っ子のように頭を大きく振った。
「さあ、わがままを言わずに」
 道化はルチルを立たせようとしたが、彼女は床にへばりついて立とうとはしなかった。
「急ぐんだ、とにかく早く……」
 道化が魔女の方に目をやろうとすると、ヨクトが言葉を失い彫像のように立ちつくしているのが目に入った。彼の両の瞳はルチルでも、道化でもなく、ただ一点を凝視し、大きく見開かれていた。
 自分の予想が当たったかと思いながら道化はその視線の先を追った。
「!」
 魔女の触手は増えていた。十二本ではない。それは今や二十本以上に増え、魔法陣からはみ出し、部屋を占拠しようとするかに見えた。
「どういうことだ?」
 ヨクトは後ずさりながら道化の胸ぐらをつかもうとした。
 道化はその手をひょいとかわし、にたりと笑った。
「ヨクト様、のんびりしていると、この部屋で押しつぶされてしまいますぞ」
「貴様……」
 だが、その間にも、触手は増殖のスピードを増していた。ヨクトの背後に迫った触手の一つがヨクトの腕に触れた。
 途端、反射的にヨクトは手で口を覆った。
 内腑のない彼にも、それは吐き気を感じさせるものだった。
 道化は嫌がるルチルを引きずるようにして螺旋階段のところまで後退した。
「ヨクト様、剣を」
 ヨクトはルチルの言葉に従い、触手に向かって剣を振るった。丸太ほどの太さとなった触手は霧となって消散した。
 だが、その後からはすぐに新たな触手が生まれてきていた。何度切り捨てても終わりがなかった。
「……道化、願いの数を星の数に増やしたということは、こいつも星の数まで増えるのか!」
「それが道理でございましょうなあ」
 道化は引きつった笑みを浮かべた。

 三人は必死の逃避行を開始した。暗い螺旋階段を駆け上がりながら、ヨクトは二十七本の触手を切り捨てたが、それが今何本まで増えているのか想像さえつかなかった。結局、ヨクトは切ることをあきらめ、二人を追い抜き、一人地上へと急いだ。
 顔面と四肢に汗を浮かべ、ヨクトは礼拝堂にたどり着いた。彼は祭壇の底から這い上がると、目の前にハンケチをかけられた司祭の首があるべき場所へ戻され、静かに横たわっているのを認めた。
「お待ちしていました」
 マントがはだけ、頼りげない骨格がむきだしになったヨクトを、席の最前列でアースィは固い顔で迎えた。
 続けて彼女はヨクトに何か言おうとしたが、それより先にヨクトは彼女の手をつかんで走り出した。
「ど、どうしたのです?」
 訳が分からぬ彼女に説明もせず、ヨクトは礼拝堂から出て、城の廊下を駆けた。
 ベルクフリートへ駆け込むと、彼は開け放たれた入り口を気にもとめず、階段を上がる道を選んでいた。彼は無意識のうちに城の最上階にある王の間を目指していた。



表紙へ
NEXT