第6章 下郎たちの賭け



 その日、沿道には朝から砂埃が舞い上がっていた。千をこえる騎兵、歩兵からなる整然としたその軍隊は、列を乱すことなく威風堂々、ブローシュダークを目指していた。
 列の先頭で馬にまたがっていたのは、フォルティーズ辺境伯ロイズその人である。赤髪王は不敵な笑みを浮かべ、まだ見えぬ敵国を待ちわびていた。
 その時、彼の耳に背後から騒がしい声が聞こえてきた。続いて早馬の蹄の音。国許を発つ時から彼の胸にあった嫌な予感は的中したらしい。
「お兄さま、約束が違うではありませんか!」
 後ろから風のようにやってきた妹は息を切らせいきなり兄に批判の言葉を浴びせかけた。
 ロイズは渋い顔で言った。
「行軍中だ。話があるのなら横につけ」
 そう言われ、アースィは渋々兄の横に白い愛馬を並べた。
「どうして出兵なのですか。この前、出兵は見送るとおっしゃったではありませんか。あれからまだ半月ですよ」
「事情が変わった」
 ロイズはさらりと言ってのけた。
「どんな事情です?」
 生半可な理由では納得しないぞという意気込みもあらわにアースィは兄を問いつめた。
 ロイズは、ブローシュダークにフォルティーズ出兵の動きがあることを妹に語った。
 それを聞いてアースィの顔色が変わった。
「そんなはずはありません」
「そういうことが起こるのが、世の常だ」
 ロイズは世間知らずの妹に対して皮肉っぽくそう言った。正論をはく彼女は、伯の顔色をうかがう者ばかりの家臣団の中で、彼にとって貴重な存在だったが、それでも、彼女の意見を入れられぬ時もある。引き際を知らぬ分、彼女の扱いはやっかいだった。今回も、彼女を隣国に使節として送り出している間に出兵したのが、この有様である。
 急ぎの出兵だったため、戦力はそれほど多くはない。歩兵と騎兵あわせて千五百ほどである。ブローシュダークの戦力はせいぜい千二百と予想されているが、それも準備は整っていないはずだった。それに引きかえロイズの方は五日後には後続の二千の兵が合流する予定となっていた。
「それでは、わたしがヨタ王に直接ことの真偽を確かめて参ります」
 ロイズは馬上で正面に視線をすえたまま妹を叱責した。
「いい加減にしろ。既に兵はこうして動いているのだ。おまえの出る幕ではない。それに、ブローシュダークの最近の乱れよう、目に余るものがある。ヨタ王乱心の噂、あながち嘘とも思えぬ。征服するのに今ほどの好機があると思うか」
 アースィも子供ではない。兄の言うことに真理が含まれていることも十分に理解できた。
 だが、それ以上にあの国を血で汚したくないという気持ちがあった。
「しかし、それでは……」
 妹の渋面を察し、ロイズは言った。
「……まあ、後続の兵を待つ手もある。大軍でのぞめば、無血開城の可能性も出てこようからな」
 ロイズとしては気乗りはしないが、妹に対し最大限の気遣いをしたつもりだった。  だが、その兄の思いやりは見事に裏切られた。
「……お許し下さい、兄上」
 そう言うと、アースィは愛馬の腹を思い切り蹴り、再び風のように駆け出した。それも今度はブローシュダークに向かって。
「アースィ!」
 さすがに驚いたロイズは、慌てて後ろの近衛の騎士を呼んだ。
「アースィを連れ戻せ!」
 もし、彼女が捕虜にでもなった場合、自分は戦をやめてまで彼女を助けることができるかどうか、彼には自信が持てなかった。




 それは決行の夜だった。ルチルは城の外城壁の内側に寄り添うように立てられた使用人小屋の自室で息をひそめて待っていた。他の使用人たちは既に寝入ってしまったようで、窓の隙間からは冷たい空気とともに虫たちの鳴き声がわずかに聞こえるだけだ。
 貴重な油に灯をともしながら、彼女は寝台に腰掛け、両手をあわせ祈っていた。
 彼女は自分も行動を共にすると主張したのだが、道化は二人だと目立つからと言って彼女の言を聞き入れなかった。
 ヨクトを殺した張本人にその彼の復活をゆだねるのは忸怩たるものがあった。できるならこの手でという想いは簡単には消せなかった。
 だが、魔女に関してルチルが知っているのは、願いをかけるのに聖剣が必要ということだけである。どうやって願いをかけるのか、そもそも魔女はどこにいるのかも知らないのだ。
 結局、彼女は道化に全てを任せるしかなかった。
 道化が行動を起こすとしたら、そろそろであろうか。
 聖剣は王の間に飾られていた。だが、そこには昼も夜もヨタ王がいるのだ。しかも、最近、王はほとんど眠っていないという噂だった。そんな状況で王に気づかれず剣を持ち出すことが果たして可能なものなのかどうか。ルチルは胸中の不安を抑えることができなかった。
 夜の冷えた空気にもかかわらず、握りあわせた掌がじっとりと汗で塗れていた。
 ルチルはヨクトの姿を思い描いて頭がぼうっとなった。怒鳴り散らすヨクト、寡黙なヨクト、子供のように大笑いするヨクト。そして、夜の床でのヨクト。彼女は彼のいろんな姿を知っていた。人からどう言われようと、彼女にとって、彼は間違いなくかけがえのない人物であった。
 その時、灯りがちりっと消えた。油が切れたらしい。新しい油を差そうと寝台から立ち上がると、続いて何かが吼える声が聞こえた気がした。獣の声ではない。人の声だ。それも城の方からだ。
 彼女は部屋の外に飛び出して闇に浮かぶ城を見上げた。
 しばらくして、城に灯りがともり始めた。
 隣の部屋から料理長のビスマスも布一枚をまとった姿で出てきた。
「どうしたんだ?」
「……」
 道化がしくじったのだ。彼女の心に厚い暗雲が立ちこめた。
「わしは着替えてから行く。おまえは先に様子を見てこい」
 既に身支度を整えている彼女にそう言ってビスマスは部屋に戻っていった。
 駆け出したい気分と地面に根がはえた感触の狭間で、彼女はしばらく城をただ見上げるだけだった。
 ヨクト様……
 必ず、生き返らせて差し上げます。
 彼女は呪文のように心の中でそう唱えると、城に向かって走り出した。




 重苦しい一夜は明けた。鼻をつく異臭も慣れたせいか、胸の中にどんよりしたものを残してはいるが吐き気を催してこないのは幸いだった。朝の光もかすかに仮面を通して左目に届いている。湿った石壁の細い通風口から差し込む弱々しい光だ。それがまるで神の恵みのように感じられた。
 道化の両の腕は、壁に打ち付けられた鎖に縛され自由を奪われていた。常人より背が低いせいで、へたり込もうとしても短い鎖は座りこむことを許さず、永遠に拷問の時間が続いているようなものだった。
「ぐぁ……」
 声を出そうとして唇の痛みに顔をしかめた。もっとも、傷ついたのは唇だけではない。服も、新しい仮面も血がこびりついていた。地面に目をやると、やはり自分の血でどす黒く乾いているのが惜しくてたまらなかった。
 あんなことさえなければ……
 道化は朦朧とした頭で昨夜のことをぼんやりと思い起こした。
 魔女に願いをかけるため、まず聖剣を手に入れなければならなかった。
 一人でやることにしたのは理由がある。王家の秘密を広めることに対する罪悪感が一つ。もう一つは、万が一失敗した場合、ルチルに害が及ばぬよう自分一人で責を負うつもりだったからだ。勿論、成功の目論見はあった。
 真夜中にヨタ王が用を足しに二階の厠へ下りてくるのを道化は知っていた。それが唯一の機会だった。
 そして、昨夜も王は二階に下りてきた。道化は急いで三階に駆け上がり王の間へ忍び込んだ。聖剣は以前と同じ場所に飾られていた。
 道化はそれを手にすると、再び下の階へと走った。まさに電光石火。王が上の階へ戻るのを見送り、道化は全てがうまくいったことを確信した。
 だが、それがよくなかった。彼はもう一つの関門を見くびってしまった。礼拝堂にたどり着き、祭壇の下の扉を開いたところで、鋭い声が響いた。
「誰だ!」
 その声に道化は心臓をわしづかみにされた。
 シナバールの声だった。黒卵城の夜警。夜中の城内の見回りのためだけに存在している忠誠心の固まり。蝋燭も持たず城を巡回している夜の秩序。
 慌てた道化は剣を扉の下の穴に落としてしまった。鈍い音が響いて、道化は反射的に床の扉を閉めた。
 声は再度問いつめてきた。
「道化か?」
 自分の名を呼ばれ、道化は逃げ出したい衝動に駆られたが、シナバールの影は入り口から動こうとはしなかった。
「どうした、自分の部屋に戻るんだ。夜中に城中をうろつくのは禁じられているだろ。今日だけは見逃してやるから。さあ、早く行け」
 一転した猫なで声が、かえって道化の恐怖心をかき立てた。道化は祭壇の下でひたすら震え続けた。
 そんな時間がどれだけ続いただろうか。シナバールは錯覚という言葉を知らないようだった。ついに彼は注意深く礼拝堂の中に入ってきた。ひたひたと迫り来る圧迫感に道化はついにそれ以上耐えることができなくなった。祭壇の下から飛び出し、礼拝堂の出口めざして一直線に駆けた。
 しかし、シナバールは横椅子を軽くまたぐと、その頑強な腕で小さな人影の首根っこをがっちりとつかまえた。
 道化は地下牢に放り込まれた。王に報告を行ったシナバールは、聖剣がなくなっていることを告げられた。聖剣の発見は絶対命令となった。シナバールはその在処を吐かせようと道化を鞭打ったが、その苦労は報われなかった。騒ぎを聞きつけ集まってきた使用人や家臣たちも剣の捜索を命じられたが、見つかろうはずもなかった。シナバールさえ、魔女へ続く道は知らなかったのだ。
 そして、道化は牢に一人取り残された。今後の運命は王のみぞ知るだ。
 どうして俺がこんな目に……
 道化はぼんやりと天井の小さな扉を見上げた。
 すると、そこからは見慣れた顔が彼をじっと見下ろしていた。
「……御飯、持ってきたわ」
 ルチルは抑揚のない声で言った。
 道化は感激して涙があふれそうになった。
「……ルヂル」
「だから、あたしも一緒に行くって言ったのよ」
 道化の感激は一転、動揺に変わった。
「一体……どうしてくれるのよ、どうすればいいのよ」
 彼女の泣き顔が道化の罪悪感を刺激した。
「おでを、ここから、出して……今度は、がならず……」
 いきなり天井から何かが降ってきた。いきおい良く地面に飛び散る残飯。まるで家畜の餌だ。
「馬鹿言ってるんじゃないわよ!」
 思わず荒らげた声に自分で驚き、彼女は声をひそめた。
「ここに来るのだって、怪しまれないように大変だったのよ。あんたがへまさえしなければ……」
 ルチルの軽蔑の眼差しに道化は思わず顔をそむけた。彼女の態度の変化が道化には信じられなかった。あの甘いささやきはどこへ行ってしまったのか。
 頭上のルチルのすすり泣きを聞きながら道化は地面に散らばった残飯を見ていた。
 分かっていたのだ。所詮彼女にとって自分はそれだけのものでしかないことは。ヨクトを甦らせるための道具にしかすぎなかったのだ。そして、壊れた道具には何の価値もない。そのうち、この残飯さえも差し入れられなくなるだろう。牢の中で朽ち果てるのも時間の問題なのだ。
 道化は自分の死を思い描いた。暗い地下牢で息を引き取り、ヨタ王も抜け殻に等しい人生を送る。寂しく、冷たい死だ。それはまるっきり無駄死にであった。
 道化は機械仕掛けの人形のように際限なく拳を握りしめた。
 こんなに簡単に人生が終わってよいはずがない。自分の人生にせよ、ヨタ王の人生にせよ。そして、何より、ルチルの願いをかなえてやりたかった。
 道化は頭を上げ、天井の女を見やった。
 それに気づくと、ルチルは泣くのをやめ、不安と期待で大きく見開かれた目で道化を見つめた。
「……なに?」
「おでの代わりに……」
「代わりに?」
「……魔女に、願いをかけてくれ」




 どんよりと曇り今にも雨が降り出しそうな天気にもかかわらず、カーナルは自分の仕事場の前から動こうとはしなかった。彼の目の前に広がる菜園は彼の自慢であったし、今や生き甲斐でもあった。そこからとれる様々な野菜やハーブ。それは城の生活になくてはならないものとなっていた。
 彼はひとさし指を土に差し、差し抜いた指を口に含んだ。彼は鼻を軽く鳴らしてから土を吐き出した。
 ここしばらく土の状態は悪くなる一方だった。彼にとってはゆゆしき事態だ。肥料の具合はいつも通り。水の量も適切だ。天候も取り立てて悪くはない。ただ一つ考えられるとすれば、半月ほど前から仕事の手伝いに加えたルチルが何か不具合をやらかしているかもしれないということだった。自分の仕事場に他人を入れるのは気が進まなかったが、王の許しが出た上、道化のたっての頼みで断れなかった。しかし、傍目には彼女は仕事をさぼらずにやっているし、のみ込みも早い。農家の生まれだけのことはあると感心すらしていたくらいだ。そうなると、結局、彼は頭をひねるしかなくなってしまうのだ。
 厩舎の方からパイライトがあくびをしながらやって来た。カーナルは自分より一回り下のこのいい加減な男に対していい感情を持てずにいた。彼の仕事に対する態度は、カーナルのそれとは明らかに反するものだった。
「や、カーナルの旦那。畑の調子はどうだい?」
 カーナルはあいまいにうなずいた。
「それにしても、この城はどうなっちまうんだろうな」
 カーナルはわずかに相手の話に興味を持ち視線を向けた。
「旦那、昨晩城の騒ぎに気づかなかったのかい?」
「何かあったのか?」
 パイライトは早口でまくし立て始めた。
「見に行かなくて正解だったよ。野次馬根性出して見に行ったばかりに、こっちは明け方まで剣探しだぜ。それもこれも、あの道化が盗み出したっていうじゃないか」
「道化が?」
「そうさ。そのせいで道化は地下牢にぶち込まれてるよ。まったく何考えてるんだか。おまけに王様は戦の用意をしてるっていうし、本当にもう、この国の有様にはあきれはてちまってものも言えないね」
 それだけ言えば十分だと内心思いながら、カーナルは重い腰を上げた。ルチルが来るのを待つつもりだったが、雨が降るのを待つのはおもしろくなかった。
「おまえさん、仕事はいいのかい」
 カーナルの皮肉を受け流し、パイライトは得意げに答えた。
「俺みたいに仕事をてきぱきこなす人間は、この世に二人といないんじゃないかって、つくづく思うんだよな。少なくともブローシュダーク一の厩舎番だっていうのは間違いないだろ。教会で表彰でもしてくれないもんかな?」
 彼の戯れ言には耳を貸さず、カーナルは注意深く畑地に入り、地面にしゃがみこんだ。  あの道化が盗みを働いたというのが腑に落ちなかったが、おそらく何かの戯れ言のつもりだったのだろうとカーナルは自分を納得させた。それよりも気になったのは、戦の用意が始められたという話だ。彼の目にはそのような兆候は全く見えなかったのだが。どちらにせよ、彼にできるのはこの菜園を維持することだけだ。そして、今は目の前のこの大根を引き抜くのだ。
「今夜のおかずはそれかい、旦那。こっちもうまそうな卵があるから期待してなよ」
 相変わらずパイライトは軽口を叩くばかりで手伝うそぶりは見せない。
 その時、料理人のヘッスが駆けてきた。
「カーナルさん、野菜もらいに来ました」
 本来ならカーナルの方が厨房に届けに行くのだが、それを待ちきれずに取りに来たらしい。
 カーナルは引き抜いたやせた大根に不満そうな表情を浮かべ、次の一本にとりかかった。
「すまないな。もうちょっと待ってくれ」
「いえ、ちょうど暇でしたから」
「ところで、ルチルの姿を見なかったか?」
 ヘッスは首をひねってはたと思い出した。
「そう言えば、朝方、道化に食事を持っていけばどうかって、厨房に来てたなあ」
 パイライトは短く笑った。
「はんぱもの同士仲がいいねえ。旦那も気をつけた方がいい。あの女、なにやら道化と関係がありそうですぜ」
 カーナルはさすがに相手を無言で睨み付けた。気まずい雰囲気をヘッスは和らげようと二人の間に入った。
「まあ、彼女も道化の口利きで城に残れたから、恩義を感じてるんでしょうね」
「あんな奴にも恩義がねえ」
 薄笑いを浮かべパイライトは冷ややかに言った。
「恩義は誰でも感じるものだ」
 カーナルは三本の大根を抱え、それをヘッスの持つ籠に放り込んだ。
「この菜園をわしが任されたのも、今はなき王妃様の言。そういった恩義は一生忘れられぬものだ」




 道化の言ったとおり祭壇の下の床にそれはあった。魔女のいる場所へと続く扉。ほとんど床と同化したように見えるその扉は、複雑な動きを呪文のように与えてやるとすんなりとその入り口を開いた。
 ルチルは地面にあいた穴におそるおそる足を下ろした。穴は意外と深く、なかなか下につかなかった。まさか、このまま底なしになっているのではという思いが彼女の頭をよぎった。その焦りで床にしがみついていた手を滑らせ、彼女はずるりと穴の中に落ち込んだ。
 尻もちをついた彼女は、自分の尻の下に固いものがあることに気づいた。慌てて手をやると、布にくるまれてはいるがそれが何であるかはすぐに分かった。剣だ。道化が捕まる前に隠したと言っていた聖剣だった。
 剣を手に取ると、ルチルは息を整え、そこからさらに下にのびる穴をのぞき込んだ。急な階段が延びているが、見えるのは最初の数段だけだ。その先は闇が彼女を待ちかまえていた。
 頭上の扉を閉めると、隙間からわずかに差し込む明かりが、逆に彼女の勇気を萎えさせそうにした。しかしそれでも、ルチルは剣をつかむ手に力をこめて、足を踏み出した。
 右回りの階段はすぐに真っ暗闇になった。地上の「神の塔」より一回り小さな円塔が丘の中にずっともぐっているらしかった。ルチルは左手は壁に添え、右手で剣を抱え込み、そして足下に残りの神経を集中させた。
 彼女にとって暗闇がこれほど息苦しいと思えたことは初めてだった。勿論、闇は恐ろしいものだ。人々にとって夜は世界を奪われる祝福されない時間であり、闇にすまう悪鬼から息をひそめて隠れている忍耐の時間だった。
 だが、それでもルチルは闇がそれほど嫌いではなかった。光のない世界なら自分の素顔の醜さは気にならない。そこは誰もが同じ存在になれる世界だった。
 それなのに、ここでは胸を締め付ける圧迫感が消えなかった。何か見えないものが彼女の前にたちふさがっているように、彼女の歩みは次第に鈍っていった。ただの闇ではない。魔女の住まう闇であることを彼女は強く実感した。
 どのくらい階段を下りてきたのか、もはやルチルには分からなかった。頭が麻痺してまともに考えることもできなかった。あるのは前に進まなければという意志だけだった。
 いつの間にか、目の前がちらちらと揺らめいているような感覚に襲われた。錯覚なのか、そうでないのか、朦朧とした意識の中で、ルチルは無意識に剣を包む布を捨て去り、鞘から剣を抜いていた。
 思わずルチルは目を細めた。
 剣は闇の中で力強い光を発していた。今までの夢心地が嘘のように飛び去っていった。
 この光が魔女のもとに導いてくれるのだという確信を抱き、彼女は足取りを速めた。
 それからしばらくして、何の前触れもなく急傾斜の階段は平たい地面に変わった。棒のようになった足がそれ以上の動きを拒んでくる。剣の光を照らすと、そこが一つの広間であることが分かった。
 城の地下にこんな部屋があるとはにわかには信じられなかった。
 思い出したようにルチルは周りに視線を走らせた。だが、闇の中に人の気配はなかった。
「誰か……」
 ルチルの割れた声は不気味に響いた。
 彼女は足を引きずり部屋を調べてまわったが、そこに魔女らしき人影はなかった。それどころか、その部屋には人の生活に必要なものは何一つ存在しなかった。ただその代わり、部屋の奥のひときわ暗い闇の中に、ある奇妙なものがあった。
 彼女は息をのみ、引きつけられるようにそれに向かっていった。
 その周囲には空気の不快な振動がそれを包みこむように覆っていた。
 剣の光に照らし出されたそれは、ルチルには理解不能なものであった。
 地面に描かれた魔法陣からは、濃い黒い霧のようなものが立ち上っていた。それは人の脚ほどの太さをなし、触手のように宙をゆらめいていた。床から生え出たその黒い霧の触手が、全部で七本
 ルチルは訳の分からぬ恐怖に取り憑かれた。
 ぶるりと身震いし、思わず一歩後ずさった。
 道化の話では、城の地下に魔女がいるということだった。だが、それはあくまで魔女であり、このようなおぞましいもののことは一言も聞かされていなかった。
 ルチルはもう一度部屋の中に視線を走らせた。剣にすがりつくように、それを高く掲げて部屋を照らした。
 だが、やはりこの他に部屋には何もなかった。
 彼女は絶望的な気分に陥った。確かに魔女が捕らえられたのは何百年も前のことだという。だが、魔女だからこそまだ生きながらえている。そう彼女は漠然と思っていた。道化が嘘をついたのか。それとも、伝説そのものが嘘だったのか。どのみち、これで彼女の願いはかなえることができなくなった。事実がどうであろうと、もはや彼女には何の意味もなかった。
 そんな時、背後から低い音のさざなみがじわじわと耳の奥に忍び寄ってきているのにルチルは気づいた。
<……王……の反乱を鎮め……>
<……の願いは……東の大国を退けけり>
<三つ目の願いは、第五代の王。国土に広がりし疫病を鎮めけり>
 ルチルが後ろを振り向くと、黒い霧が先より大きく揺らいでいた。
 その声は、ブローシュダークの代々の王により行われてきた願いの数々を並べ続けていた。
<四つ目の願いは、第六代の王。南の蛮族の領土を焼き尽くしけり>
<五つ目の願いも、第六代の王。二年の不作を嘆き、健やかなる雨と太陽を与えけり>
<六つ目の願いは、第九代の王……>
 ルチルは息を詰めて耳を澄ました。九代目の王テルルは、ヨクトとヨタの父である。
<……その妻、シルヴァンの蘇りを求めけり>
 彼女は我が耳を疑った。王妃は双子の王子を生んだ際に亡くなったと聞き及んでいたからだ。
<七つ目の願いも、第九代の王。先の願いのあるべからざることをかなえけり>
 ルチルは大きく両の目を開いた。そこには、変わらず霧の触手が、まるで生きているかのごとく蠢いていた。
 ようやく彼女はそれこそが魔女なのだと悟った。
 そして、暗い声が彼女に語りかけた。
<八つ目の願いは、いかに>




 道化は地面に散らかった無惨な差し入れを取ろうと腕に力を入れた。壁から出ている鎖はある程度まで伸縮自在だが、それも力を加えればのことである。道化の体重程度では壁からわずかしかのびず、地面に座るのにもありったけの力が必要だった。
 何かを口にしたい思いを断ち切れず、道化は渾身の力を込め腕を伸ばした。肩の関節がきしみ、危うく関節が外れそうになった。
 笑いとも嘆きともつかぬ息が道化の口から漏れた。壁の通風口から差し込むたよりげない光が、日が暮れようとしていることを告げていた。
 その時、天井から木の擦れる音が聞こえた。そして、窓が開き、縄が垂らされた。
 ルチルが助けに戻ってきたのかと、道化は希望に胸をふくらませた。
 だが、縄を降りてきたのはシナバールだった。嫌な予感が道化の脳裏をよぎった。
「……まだ、あんたの時間にはまだ早いだろ」
 引きつった顔で道化は尋ねた。
 シナバールはにこりともせず、携えてきた大きな木製の手錠を道化にはめようとした。
 外に出そうとしているのだ。道化はすぐさま理解した。何のために。考えるまでもなかった。シナバールの夜警以外のもう一つの仕事、それは死刑執行人。
「ま、待て。待ってくれ。俺を殺すと後悔するぞ。剣のありかが分からなくなってもいいのか」
 シナバールは手をとめて道化を見やった。
「どうせ話さないなら殺しても同じだと、陛下の仰せだ」
「……本当に、陛下が本当にそうおっしゃったのか?」
「中庭で打ち首だ」
 道化は絶望的な想いに捕らわれた。だが、黙ってそれを受け入れるなど道化の自尊心が許さなかった。彼は最後の一瞬まで抵抗を続けることを決意した。
 何事もなく作業を続けようとするシナバールに道化は必死にくいさがった。
「分かった、待て、分かった、話す、話せばいいんだろ」
 シナバールは疑い深げな視線を道化に向けた。
「……剣の在処を話すのか?」
 道化は息をのんで相手を見返した。
「話すのは、魔女の秘密についてだ」
「?」
「考えてもみなよ、剣の在処をしゃべっちまったら、俺の保険は何もなくなるんだぜ」
 道化は博打を打つことにした。今となっては掛け金はただ同然だった。
「そんなこと陛下は知りたいとも思われんだろう」
「そうか、本当にそう思うか?」
 相手の非情な言葉を道化は必死にうち消そうとした。
「……頼む、陛下に取り次いでくれ。絶対、陛下は知りたがるはずだ。勝手に殺しちまえば、あんたが後でお咎めを受けるのは間違いないぞ。な、魔女の願いはあと幾つですかって陛下に聞いてみてくれ。道化が好きなだけ増やして御覧にいれるとな」



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