第5章 誘惑



 ルチルは薄暗い小屋の中で静かに周囲の音に体をゆだねていた。馬のいななき、体をゆする音、柵を蹴る音、隣からは豚や羊の鳴き声も聞こえてくる。彼らの臭いは、城の中とは全く異なる世界を作り出していた。だが、その臭いも彼女には苦にならなかった。どちらかといえばそれは安心できる臭いだった。こちらの容姿で態度を変えたりしない動物たちは、ある意味彼女にとってもっとも心を許せる相手であった。
 菜園の仕事は一段落して、時間に余裕はあった。だが、彼女の心は焦っていた。彼女の頭の中は問いたださねばならないことで一杯だった。
 その時、厩舎の入り口に小さな人影がやって来た。それは中をのぞき込み、小声で彼女の名を呼んだ。
「ルチル殿、どこにおられる、ルチル殿?」
 ルチルはそっと立ち上がって指先を唇にあて、それから手招きをした。道化は飛び跳ねるように厩舎に入って来た。
「忙しいところ、ごめんなさい」
 ルチルはしおらしく道化に隣のわらの席を勧めた。
「ルチル殿の頼みとあらば、どうして無下にできましょう。して、この道化に相談とは何事でしょう?」
 相手を目の前にしてルチルは口ごもった。それはどのように尋ねてもおかしな質問には違いなかった。
「どうなされた? もしや、城の誰かがルチル殿のことを悪し様に言っているとか。ヘッスかコベリンあたりですか? そんな奴はこの道化が許しませぬ。ああしてこうしてもうぼろりんごろごろです。さあ、はっきりおっしゃって下さい」
 道化の意気込みに後押しされ、ルチルはおそるおそる口を開いた。
「ヨクト様の、ことなのです」
 道化は口を開けたままルチルを見やった。
「……ヨクト様が、何か?」
「ヨクト様は……何故、亡くなられたのでしょう?」
 道化はあっけにとられ一瞬言葉を失った。
「ヨタ様は生きておられるのに、何故ヨクト様は」
「な、何故とおっしゃられても、道化は医者ではありませぬ故。それに、ヨクト様がお亡くなりになった時、ルチル殿はお側におられたと聞きましたが」
「それは、そうなのですが……」
 道化は怪訝な面もちで彼女を見つめた。ヨクトは彼女にとっては大事な主でも、道化にとっては自分を毛虫ほどにしか思わぬ悪魔と変わらぬ存在だったのだ。その死を悲しむことはどう考えても不可能だった。
「みんな、噂してるわ。魔女の仕業じゃないかって」
 道化はその言葉にどきりとした。
「陛下がお亡くなりにならず、ヨクト様がお亡くなりになったのは、誰かが魔女に願いをかけたからだって。そうは思いませんか?」
 道化は歯の根が合わぬ口を合わせようと必死になって答えた。
「ま、魔女なんて、で、伝説にしか出てきませんよ。た、単なる作り話。陛下が生きていらっしゃるのは、神の御心。ヨクト様が亡くなったのは……運が悪かったんでしょうな。人生ってのはそういうものです。この道化が言うんだから間違いないです」
 ルチルは道化の仮面の下の瞳をじっと見返した。
「そ、それにしてもここはひどい臭いですな」
 道化は仮面の鼻をつまむ真似をしながら首を振った。
「厩舎係が仕事をさぼってるに違いありませんな」
「厩舎はこういうものよ」
 ルチルの冷たい言に道化は目をしばたかせた。
「……ヨクト様はおっしゃってたわ。魔女はいる。魔女に願いをかければ何でもかなうって。あなたも、陛下から聞いているんでしょう」
 そう言って、ルチルは道化の反応を一つも見逃すまいと注視した。
 ルチルに見つめられ、道化は自分が金縛りにあっていることに気づいた。正直、盛り上がった黒斑で覆われた彼女の顔に美を感じたわけでも、女を感じたわけでもない。だが、その視線は道化の耳から彼女のかすかな吐息以外の音をすべて消し去っていた。
「……魔女は」
 ルチルは唾を呑み込み、うなずいた。
「魔女が、いようといまいと、下々の者には関係ありませぬ。願いをかけることができるのは、陛下だけなのです」
「では、ヨクト様を殺したのは、陛下御自身だと?」
ルチルは疑わしげな視線を向けた。
「まさか。陛下はあの時、とても起きて動ける状態じゃありませんでした」
 ルチルが考えをめぐらせていると、道化が急に短い悲鳴を上げた。馬が柵から首を伸ばして道化の頭にかみついたのだ。
「そ、それでは、道化は仕事に行かねばならん。陛下の御機嫌伺いが、道化の一番重大事。何をさておき参上せねば」
 口上を述べると、道化はぽんと立ち上がり、馬の尻を次々と叩きながら駆けていった。  ルチルは大きなため息をついた。
 結局、確たる証拠はつかめなかった。しかし、道化は魔女の存在を知っていた。「魔女に願いをかけられるのは陛下だけ」と道化は言ったが、ヨクトはあの日、自ら願いをかけるつもりだったのだ。あの剣があれば願いはかけられるはずなのだ。
 なぜ、道化は嘘をついたのか。それとも単に知らなかっただけなのか。
 しかし、道化の様子は彼女の疑惑を深めるには十分だった。
 あの晩、あの剣を持ち出していた者のために、ヨクトは死んだ。その者をルチルは決して許すことができなかった。たとえどんな理由があったにせよ。それが道化であったとき、彼女は自分がどういう行動にでるか分からなかった。
「おやおや、何をしょげてるんだい。醜い顔が馬糞みたいになっちまってるよ」
 不意の棘のある言葉にルチルは顔を上げた。
 そこにはコベリンが腕を組んで立っていた。
「道化と逢い引きかい? あんたにゃちょうどいいかもね。あんな小男ぐらいしかあんたに気を向ける男はいやしないからね」
「何のご用ですか」
 ルチルは服の埃を払いながら一回り年上の美貌の女性を見据えて言った。
 コベリンは相手の態度を鼻で笑った。
「あらまあ、お情けでお城においてもらっている下働きが随分強気にものを言うねえ」
 だが、ルチルも負けてはいなかった。
「あなたは違うっていうんですか?」
 コベリンの整った顔立ちが大きく歪んだ。
 コベリンも容貌の美しさはともかく、衣服の質素さはルチルと何ら変わることはなかった。コベリンは先代王の世話係であり、夜伽の相手もつとめていたが、決して側室という訳ではなかった。ブローシュダークでは愛人とか、側室とかいうものは存在しなかった。単に愛を交わす相手というだけである。それ故、王と愛を交わしたからといって、何の特権が得られるわけでもない。コベリンの場合、先代王が亡くなって、王付きの従者の立場からただの城働きの下女になっていたが、「王の相手」という立場を彼女は忘れられなかった。
 コベリンは必死で息を静めて、ルチルに対し余裕を見せようとした。
「まあ、逢い引きの相手に道化を選ぶような女に何を言っても無駄かしら。それもあんなねんねで男をたぶらかせるとでも思ってるの」
 ルチルは顔をあからめて反論した。
「あたしは何もそんなつもりで……」
「ああいいよ、別に。ヨクト様亡き後、この城であんたが頼れるのはあの道化だけ。せいぜい気に入られるがいいさ。あたしは何としてもヨタ様に取り入って見せるけどね。邪魔はしないでおくれよ。ん、その汚い顔じゃ邪魔のしようもないわね」
 そう言うとコベリンは高笑いしながら、ルチルに背を向けた。




 道化はげっそりとした様子で王の間の扉の前でたたずんでいた。細かく降りつける雨のせいでも、心持ちの憂鬱さのせいでもない。道化の小さな体は、痣だらけで痛まぬ所はないほどになっていた。この数日、王の間から一歩も出てこようとしないヨタのもとに参上し、ヨタの暴言を聞く一方、苦言と進言を懲りずに繰り返した結果であった。
 道化は力無く胸に空気を吸い込み、重い扉を開けた。昔は天界に通じるように思えたそれが、今では地獄の門のようだった。
 ヨタはいつものように剣を床に立て窓の外を眺めていた。
「お、おはようございます。陛下」
 ゆっくりと振り返るヨタの表情の険しさは昨日と何ら変わらなかった。
「遅いぞ、道化」
 そう言って、ヨタは剣で床を打った。同じ場所をうち続けているせいか窓際の床がいくらかえぐれているのが道化の目に入った。
「今日はあいにく雨模様。窓の外など眺めても、くすんだ景色じゃ気が滅入る。こんな時には、色とりどり、道化の歌などお聴きあれ。たちまち……」
 ヨタの剣が容赦なく道化の肩を打った。道化は無抵抗の人形のようにすっころんだ。鞘に入っているとはいえ、鋼の剣の重さは馬鹿にはできない。ヨタの理不尽な暴力は日に日に道化の心と体を衰弱させていった。
「し、失礼しました。今日はいかがいたしましょう?」
 面白くなさそうにヨタは自分の椅子に腰掛けた。道化を一瞥してから天井を見上げるその様子に、いつもと違う雰囲気を道化は見て取った。
「兵を挙げる」
「は?」
「戦に出る」
 道化は耳を疑った。建国以来ブローシュダークが他国の侵略に対する以外に自ら兵を挙げたことは皆無。侵略の意志を持たぬことが、この国が生き延びてきた理由の一つとされていたことは道化もよく知っていた。
「な、何故でございますか?」
 ヨタはまた気分を害したらしく鋭い目つきで道化を睨んだ。
「王は道化に国政の理由をいちいち説明せねばならんのか?」
「いえ、しかし、戦というのは、あまりに、その、尋常でございませぬゆえ……」
 ヨタは急に椅子から立ち上がると、道化の前にやってきて、再び剣を道化の肩に打ち下ろした。
「尋常かどうかは、俺が決める。おまえのような、卑しい者が、口を挟む、ことでは、ない!」
 渾身の力をこめてヨタは剣を何度も打ち下ろした。
「申し訳ございませぬ、お許し下さい」
 このような目にあっても、道化はヨタを憎むことができずにいた。今の彼は本当の彼ではない。以前のあの優しく聡明な彼が道化はどうしても忘れられなかった。
 ヨタの息が切れ、道化の気が遠くなりそうになったとき、ようやくその陰惨な行為は息をついた。
 ヨタはふらついた足で窓際に戻り、熱のこもった声で言った。
「ブローシュダークが大国となって何が悪い。ブローシュダークには魔女の力がある。そうであろう、道化?」
 魔女と聞いて、道化は朦朧とした意識から現実に引き戻された。
「ま、魔女で、ございますか?」
「そうだ。おまえが俺に生きろと望んだ。ならば、俺は魔女の力を使って好きなように生きてやる。それでよいのだろう」
 道化はもう弁解することをやめていた。何度言っても信じてもらえないのだ。無駄な言葉を実直に吐くのは道化の自尊心をいたく傷つけた。魔女の力で生きていると信じ込むのはやむなし。それはそれとして、聡明な王としての生活を取り戻していただけばそれでよい。それが道化の望みだった。しかし、それでも高すぎる望みだったのかもしれない。
 道化はヨタの足にすがりついた。
「おやめ下さい。城下では陛下の急なお変わりように不満が高まっております。廃位の話さえ出たとか出ないとか、何とぞ……」
 今度の一撃は道化の顔面に鋭い突きの形で見舞われた。
「!」
 鈍い音が顔上で響いた。一瞬、何が起こったか道化には分からなかった。目の前が真っ暗になり、その後すぐぱっと光が差したように明るくなった。床に座り込んだ道化の足下には、きれいに二つに割れた木の仮面が転がっていた。
 ヨタは初めて目にする道化の素顔に、頬を引きつらせた。
「……なるほど、仮面をつけるわけだ」
 見慣れた仮面の下から現れた道化の顔には、あるべきものが欠けていた。右の目があるべきところが、もとから何もなかったように白い肉でふさがれていた。まぶたとも言えぬその皮膚の上に顔料で描かれた偽の瞳がグロテスクに見開かれていた。
 打たれた額の痛み以上に、ヨタの言葉が道化の胸を締めつけた。
 その時、扉が開いて、コベリンの声がした。
「陛下、御食事をお持ち……」
 彼女は部屋の中がただならぬ状態になっているのを瞬時に理解した。
 そして、不気味な小男を見るや、慌てて扉を閉めて引き返した。
 ヨタは軽いため息をついた。
「ふん、俺の食事はどうなったのだ」
 道化は床にはいつくばったまま震える声を出した。
「戦の件は、何とぞ、御再考を……」
 そんな道化にヨタは今度は抜き身の剣を突きつけた。
「さっさと下がらぬか。貴様の醜い顔など見たくもないわ、下がれ!」
 ひっくり返った道化は割れた面を拾おうと手を伸ばした。
 その手に赤い滴が落ちた。額から流れ落ちるそれに気づくと、道化は両手で額を押さえた。
「……何故、それほど、お苦しみになるのですか?」
 目の前の哀れな小男が発した意外な言葉にヨタは耳を疑った。
「何だと」
 道化は顔を上げ、真の目と偽りの両の目でヨタをまっすぐに見つめた。
「生きていることになぜそれほど罪悪感を持つ必要がありましょうか。それが仮に魔女の力であったとしてもでございます。この道化も昔は自分の生まれを呪ったものでした。ですが、今では生きる喜びを感じております。この道化でさえですぞ。……これでは、死んだヨクト様が不憫というものでございます」
「黙れ!」
 すんでのところで後ろに倒れ込んだ道化は、頭を両断される代わりに、鼻の頭をざっくりと切り裂かれた。
「貴様の人生訓など聞きたくもないわ」
 ヨタは勢いあまり床に突き刺さった剣を力を入れて引き抜いた。その瞳はもはや道化を剣の獲物として映していた。
 道化の頭を恐怖が支配した。このままでは殺される。そう思った瞬間、道化は王の間を飛び出していた。歩廊を駆け抜け、ベルクフリートの前で後ろを振り返った。歩廊には赤い血が点々と足下まで連なっていた。
 真の目から涙があふれでた。道化の知っていたヨタへの道は永遠に閉ざされてしまったように思われた。




 道化が二階の執務室まで降りて来ると、そこでは食事の盆をかかえたコベリンが書記のタルクに愚痴をこぼしている最中だった。
 二人は素顔の道化に気づくとさっと表情を強ばらせた。
「……今度は、一体何をやらかした?」
 必死で平静を装いながらタルクは言った。
 息を切らした道化は、顔を両手で押さえ階段に座り込んだ。
「コベリン、薬と包帯を持ってきてやってくれ」
 道化の血まみれの姿を見かねてタルクは目の前の口うるさい女に命じた。
 しかし、彼女は冷たい目で道化を見たまま動こうとはしなかった。
「どうした、聞こえないのか?」
「でも、陛下の御食事が……」
「後にしろ。陛下の御機嫌が良くないのは分かるだろう。先に薬と包帯だ」
「……」
「コベリン」
「どうして、あたしが道化の世話なんかしなくちゃならないんです」
 自尊心だけは強い彼女にタルクは苛立ちを隠せなかった。
「陛下お抱えの道化が、こんな格好で城の中をうろうろされては困るんだ。陛下の御様子が知れ渡ってしまうだろう」
 コベリンは横を向いてタルクと視線をあわせようともしない。
「……道化のようになりたいのなら、止めはしないぞ」
 そう言われると、コベリンは乱暴に盆をタルクの机の上に置き、ようやく下の階に下りて行った。
 部屋に静けさがおとずれると、道化はうなだれたままぽつりと言った。
「申し訳、ございません……」
 タルクは深いため息をついた。
「分かっている。陛下を案じているのはおまえだけではない。この前など、久々にお声がかかったと思ったら、年内に五千の馬を集めよとおっしゃられる。できることとできないことぐらいお分かりになりそうなものなのだが。それに、そんなに馬を集めて一体何をなさる気なのやら。近頃の陛下は、わたしにはもうさっぱりだ」
「……」
 タルクは今度は小さなため息をついて、表情を引き締めた。
「先日いらしたフォルティーズ辺境伯の妹君を覚えているか。彼女を陛下のお妃にという話が出ているのだが……どう思う?」
 タルクの言葉が聞こえているのかどうか、道化は階段に座り込んだまま少しも動こうとはしなかった。
 それをタルクは否定の言と受け取った。
「……そうか。無駄か」
 彼の口から出た言葉は、まるで神の宣告のような響きを持っていた。
 タルクは何かを決意するように何度も拳を握り、そして、道化を残し、部屋から出ていった。
 部屋に一人残された道化は、顔を押さえていた手をようやく離した。乾きはじめた掌の血は、とても美しいとは言えない色に変わっていた。道化はいきなりそれを顔中に塗りたくり始めた。まるで顔を洗うように、両の掌を狂ったように顔にこすりつけた。
 この前、人前で仮面をとったのは、もう随分と昔のことだった。道化としてやっていくためにそれは必要なものだった。
 彼は今から二十九年前、ある貴族の家に生まれた。ブローシュダークではなく、もっと西の地だ。生まれながらにして彼がもっていたその醜い顔は、彼に何らよいものをもたらさなかった。体面を重んじる貴族の家では三人の兄弟の中でもっとも冷遇された。母が再婚し、新しい父がやってくると、彼は父の趣味に合わず、有無を言わさず家から放り出された。修道院に放り込まれたのだ。十三才の時だった。
 だが、彼はそこでも好奇の目にさらされた。結局、二年後には修道院を飛び出し、すぐに流浪の身となった。生きる術を知らぬ彼が道端で行き倒れていた時、ある旅の芸人が彼に声をかけてきた。それが彼の人生を決めた。
 道化を生業とするその男を師匠と仰ぎ、彼と旅をしながら芸を学んだ。人を笑わせること。人の感情の流れと波を読むこと。そして、仮面をつけること。それを彼から教わった。そして、それと同時に多くのものを見て歩いた。飢えに苦しむ人。病で倒れる子供。無関係な戦で命を取られる家族。生まれた家では決して見ることのできない世界だった。道化は自分より不幸を背負った人々がいることを知った。
 そして、旅を初めて九年、道化はブローシュダークへやって来た。独立するつもりで師匠と別の街道を選んだ結果だった。そこで宮廷道化を探していたテルル王の目に偶然止まり、幸運にも召し抱えられることとなった。
 そして、今に至っている。道化は生まれながらに道化だったわけではない。しかし、ブローシュダークにおいては、彼は最初から道化だった。
 その時、道化は自分を見つめる視線を感じとった。
 ルチルが小さな木箱を抱えて立っていた。
 彼女は道化の素顔を見てもさしたる驚きを見せなかった。
 彼女は道化のそばまでやってくると、床の上に木箱を置いて、中から包帯を取りだした。
「いや、あの、別に……」
 彼女は、顔をそむけようとした道化の頭を両の手でつかみ引き寄せると、流れるような手つきで包帯を巻き始めた。
 道化はルチルの膝に顔をうずめ、鼓動の高まりを感じていた。
「こんな片目は、気持ち悪かろう」
 道化はばつが悪そうに言った。
「別に」
 ルチルは短く答えた。
「いちいち顔見て驚かれては、道化としてやっていけないからな。芸がかすむってやつさ。商売だからな」
 道化の弁解にルチルは無関心だった。
 切られてしまえばよかったのに……
 いつの間にか、彼女の中では道化はヨクトを殺した犯人と変わらぬ存在となっていた。彼女には憎むべき相手が必要だった。
「陛下もひどいことをなさるのね」
「え、」
「いくら王様だからって、やっていいことと悪いことがあるはずよ。何にも悪いことをしていないあなたを、こんなにしていいはずがないわ」
 道化は予想しなかった彼女のいたわりの言葉に思わず涙腺をゆるませた。
「かたじけない。この道化のことを心配してくれるのはルチル殿だけだ」
 ルチルはやさしく道化の手を取った。
「陛下は一体何を怒っていらっしゃるの」
 道化は涙まじりの鼻をすすった。
「陛下は誤解なさっている。この道化が魔女の力を使って陛下の命を救ったのだと」
 ルチルは目を見開いた。かさぶたで覆われた黒い瞼が膝の上の道化をしっかりと見据えた。
「使ったの?」
「違う! ……使おうと思った。だが、怖くなってやめた。神様がお怒りになった。だから、やめた……」
「本当に?」
「本当だとも、剣を持ち出したのは事実だが、何もやってない。やらなかったんだ、神に誓ってもいい」
 結局、彼女の思い込みは、事実とそう変わらぬところを示していた。道化は魔女に願いをかけてはいなかった。だが、あの時、剣がありさえすれば、ヨクトは死なずにすんだのだ。道化がヨクトを殺したも同じことだった。
 ルチルは道化の頭をぎこちない手つきで撫でた。
「陛下にそう申し上げればいいじゃないの」
 包帯を切る小刀を持つ彼女の手は、小さく震えながら道化の首筋におりていった。
「言ったさ。けど、信じてはくれないのだ。ヨクト様が目の前でなくなったのが、よほどショックだったんだろう。こんなことなら、本当に魔女に願いをかけておけばよかった」
 小刀の震えがぴたりと止まった。
 道化は魔女の力の使い方を知っているのだ。
「ねえ、道化……いい方法が、あるわ」
 優しく響く彼女の声に道化は顔を上げた。
 ルチルは道化の頬に手をあてた。
ヨクト様を、生き返らせるのよ
 道化は思わず尻餅をついた。
「な、死者を生き返らせるなど、そんな……」
「これは陛下のためでもあるの。だって、陛下が気になさっているのは、魔女の力で自分が生きているんじゃないかってことでしょう。ヨクト様が亡くなったから、罪悪感でそう思い込んでしまっているのよ。でも、ヨクト様が生き返れば、それも……」
「そんな、そんなことは……」
 道化は自分の頭がどうかしてしまったかのように思われた。
「あなたならできるんでしょう。魔女に願いをかけることが」
「それは……」
「あなたのためでもあるのよ。こうでもしなければ、あなたはずっと陛下に痛めつけられる。いいえ、そのうち死んでしまうわ」
「……」
「あたし、そんなあなたを見ていられない」
「ルチル殿……」
 道化の目には、彼女が聖母のように映っていた。
「いや、神はそんなこと、お許しにはなりませぬ。道化といえど、人としてやってよいことと……」
 ルチルは立ち上がると、道化の目の前でおもむろにスカートをたくりあげた。肉付きの良い二本の白い足が道化の体を硬直させた。
 スカートがふわりと道化の体を包む。
「な、ルチル殿、何を……」
 ルチルは道化の顔を女の秘所に押しつけた。
「あたしたちは似たもの同士。とてもよく似ているわ」
 道化は息をするのも忘れ、彼女の足にしがみついていた。
「あたしたちは、自分の主をこの上なく慕っているわ」
 道化は小さく首を動かした。
「あたしたちは、誰もが認めるできそこない」
 道化の鼻が彼女の秘所をする。
「だから、分かり合える」
 道化のうなずきに合わせ、彼女は腰をくねらせた。
「あたしの願いを、かなえてくれるわね」
「ああ」
 スカートの下で道化はくぐもった声で返事をした。
「じゃあ」
「ああ……魔女に、魔女に、願いをかけよう」
 道化はルチルの秘所にむさぼりついた。
「ああっ!」
 ルチルの嬌声が道化の脳髄に響き渡った。
 彼らは互いの言葉に一瞬のうちに魅惑された。そして、魔女への扉が開かれた。



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