第4章 狂気の血



 黒卵の丘のふもと、その頂上に建つ城を見上げる位置にそれはあった。ブローシュダーク王家墓所。代々の王族が永遠の眠りにつき、王家の繁栄を静かに願う、過去とのみつながる場所であった。
 低いながらも石の壁で囲まれた墓所はかなりの大きさで、小作人一家族が耕す田畑くらいの広さがあった。その広大な墓所は王家の墓のある区画と、代々城に仕えている人間の墓を置く区画とに分かれていた。王家の区画では石を敷き詰めた歩道が整備されているし、墓の数も当然ずっと少なかった。そして何より、雑草の多さで両者の差は一目瞭然であった。墓所の手入れを行っているのは二人の墓守。彼らだけでこの広大な墓地を完璧な状態に維持するのは至難の業で、当然のごとく、手入れは王家の区画が優先された。
「どんなに殻が固くとも、割れぬ卵はありはせぬ、ぱん」
「どんなに殻が白くとも、腐らぬ卵はありはせぬ、どろ」
「どんなに中身がうまくとも、喰わずば体が持ちはせぬ、ぱく」
「どんなに大事にしてたとて、次の卵が産まれるよ、ぽん」
「あそれ、ぽんぽんぽん」
 二人の墓守は、かけ声をあわせながら背を丸め地面にはいつくばるようにして、雑草を抜いていた。勿論、王族の墓だ。先日亡くなったばかりの王弟の墓。だが、それが誰の墓であるかはあまり関係がない。誰の墓であろうと、雑草は抜いても抜いても生えてきて、それが彼らを丸虫のような背に変えるのだから。そして、その丸まった背中こそが代々の墓守の印であった。
「いつも思うんだが、俺たちあの道化より才能あるんじゃないかな」
「そんなこたあ言うまでもない」
「じゃあ、なぜ俺たちは墓守なんだ」
「決まってるじゃないか。墓守に生まれたからさ」
「……なるほど。けど、なんか割り切れないんだ。あいつは城でうまいものたらふく喰って、いい酒を飲んで。同じ王家に仕えてるのに、俺たちときたら」
「苔むした墓石に、ミミズにまみれた泥土か」
「おまけに背中まで丸まっちまう」
「それさ。道化の顔は仮面で隠せるが、俺たちの背中はつっかえ棒をしたってなおりゃしない。こんな姿はお城の人間には見せられんだろ」
「そんなもんか」
「そんなもんさ」
 その時、王家の区画に足を踏み入れた一人の来訪者の姿が彼らの目にとまった。
「お客さん、だな」
「ほう、誰だい、俺たちの仕事を邪魔するのは? 王家の方なら今のは忘れろよ。そうでなけりゃ、倍の大声でどなってやれ」
 曇天の下、彼らの方へやって来たのは、一人の娘であった。元々の醜い顔が沈んだ雰囲気のせいでさらに醜悪になり、彼女が手にしていた一輪の白い花がまるっきり不釣り合いに見えた。
「あの女だ」
「誰だ?」
「このいかれた故人に仕えてた世話女さ」
「なんと、前の主人の墓参りか。もの好きな奴もいたもんだ。それとも、愚痴のひとつでもこぼしに来たかな」
 ルチルは墓守たちのすぐそばまで来ると、彼らに小さく頭を下げた。
 二人は作業の手を止め、にやけた表情で彼女を見上げた。
「お嬢ちゃんは、もう城を追い出されたのかい?」
「あんたみたいなのを世話女にするなんて、この人もよっぽど趣味が変わってたんだな」
 墓守の一人がヨクトの墓石を軽く拳でこづくと、ルチルはきつい目で相手を睨んだ。
「お参りをしたいの……ちょっと、席を外してもらえますか」
 小娘の反撃に二人の墓守はきょとんと顔を見合わせて、それから大笑いした。
「俺たち、これが仕事だからなあ」
「そうそう、ここは神聖な仕事場だから、一時たりとも休んでなんかいられないんだよ」
 そう言いながら、二人はヨクトの墓にしがみつき、雑草で墓石を磨き上げるまねをした。
 ルチルは唇をかんで声を振り絞った。
「お願い、お参り、させて下さい……」
 今にも泣き出しそうな彼女を見て、墓守は急に表情を変えた。
「何だ、何だ、女って奴は。泣けば何でも許してもらえると思ってやがる。泣けば願いがかなうと思ってやがる」
「そうだ、そうだ、こんな狂い死にした奴なんか、誰も参りにきやしねえんだ。こんな奴はブローシュダークの恥さらし、いいや、くそさらしだ」
「おまえもとっとと家に帰って畑でも耕してな」
 ルチルの手にある花がゆっくりと折れた。
「あたし、まだお城に、おいてもらってます」
「な、に?」
「お城で、カーナルさんの下で、菜園のお手伝い、させてもらってます」
 墓守の顔が同時に引きつった。
「道化が城に残れるよう、陛下に頼んでくれたんです」
 墓守ははじかれたように墓の両側に飛び退き、彼女に道をあけた。
「さあ、どうぞどうぞ、お墓参り」
「お名残惜しんで下さいまし」
「惜しい方を亡くしましたからな」
「ブローシュダークの大いなる損失ですなあ」
「わたしたちも毎日涙を流して……」
 ルチルに睨まれて墓守は言葉を呑み込んだ。
 先の暴言が城の重臣や王の耳にでもはいれば、とても明るい未来が待っているとは思えなかった。彼らは道化ではなく、あくまで墓守なのだから。
「い、今言ったことは、忘れてくれねえかい」
「そ、そうそう。口がすべっちまっただけなんだ、別に悪気があった訳じゃねえ」
「お互い王家に仕える仲間じゃないか、ななななな」
 凍り付いたように変わらぬルチルの顔が二人をますますうろたえさせた。
「そ、そうだ、いいことを教えてやるよ。あんたさっき道化と言ったな」
「言った言った、確かに聞いたぞ」
「俺たち、道化の秘密を知ってるぞ」
 ルチルの表情がわずかに変わったのを二人は見逃さなかった。
「あの道化、とんでもない秘密を持ってるのさ。おまえさんを城に残れるようにしたのだって、何か裏があるのかもしれないぜ」
「あるさ、あるある。絶対あるね」
「どうだ、聞きたいか、聞きたいだろ、聞きたいよな、よおし、分かった、良く聞きな」  雲は厚さを増し、あたりには霧が立ちこめてきていた。
 ルチルは長い間、ヨクトの墓の前で座り込み、湿気た空気の中に体をあずけていた。
 まだ苔さえつかぬ新しいヨクトの墓。その右横には一回り大きな先代王の墓とその王妃の墓が寄り添うように並んでいる。その様からは堂々たる王族の死に様がルチルにさえ容易に想像できた。だが、ヨクトの死はどうだったのか。墓守たちは、ヨクトの死にあの道化が絡んでいると彼女に告げたのだ。
 ルチルは持ってきた花を供えていないことにようやく気がついた。だが、それは彼女の手の中ですでにぼろぼろになっていた。彼女は墓石の上にそれをもとの形に並べ置いた。
 数日前のことだ。墓守たちは墓地の排水溝を掘っていた。その日は季節に似合わぬあまりの暑さで、掘りかけた溝の中で二人はつい眠り込んでしまった。そこまではよくある話だった。しばらくして、彼らは近くで聞こえる声に目を覚ました。聞き覚えのある声。城の道化の声だった。二人が掘っていた排水溝はちょうどヨクトの墓の真後ろ。ヨクトと仲が悪いと噂された道化がその墓参りにくるなど何かあるとしか思えなかった。墓守たちは不審に思い、溝の中で耳をそばだたせた。
 そして、道化の声はこう語った。
「ヨタ様は生き残り、ヨクト様はお亡くなり。生け贄を要求するとは、神様も魔女も同じってことなんですかねえ……」
 墓守たちから聞いた道化の言葉は、ルチルの頭の中で無数の可能性を連想させた。
 その中のある一つの考えに目を止めた時、ルチルは背後の人の気配で我に返った。
 振り向くと、すぐ後ろに大きな人影があった。その影は冷たい視線を彼女に注いでいた。
 それが国王ヨタだと気づくのに一瞬の時間が必要だった。ルチルは反射的に立ち上がり、墓前の場所を王に空けた。一礼の後、慌ててその場を立ち去ろうとした彼女に声がかけられた。
「ヨクトの、世話女だったな」
 彼女は息を詰まらせ、壊れた声で答えた。
「ル、ルチルと申します、陛下」
 同じ城にいたとはいえ、ヨタとヨクトは仲が良かったとは言えず、その付き人でしかなかったルチルもヨタと間近で言葉を交わしたことは皆無だった。
 ヨタはゆっくりと振り返り、彼女と視線を合わせた。
「……なるほど」
 陰気な声でヨタは言った。その言葉の意味するところをルチルはすぐさま理解した。
 だが、それとは別の理由で彼女はうつむいた。彼女には、あの夜王の間に忍び込んだ後ろめたさがあった。病に倒れていたヨタがそれを覚えていないことを彼女は心から祈った。
「あたし、これで失礼させていただきます」
 彼女は重圧から逃れるようにきびすを返そうとしたが、相手はそれを許さなかった。
「まあ、待て」
 ヨタの意外に穏やかな声は、それでもしっかりとルチルの足に鎖をつけた。
「あのような者の墓に参る者がいようとは……はっきり言って、驚いた」
 彼女はうつむいたまま言葉を選んだ。
「陛下の、弟君でございますから」
 ヨタは鼻で笑った。
「血はつながっていたようだな」
「そうはおっしゃいますが、陛下もこうしてヨクト様の墓参にいらっしゃったではありませんか」
 ヨタは両の拳を固く握りしめた。
 ヨタの怒気を感じ取り、ルチルは自分の失言を悔いた。
「あいつは……ヨクトは、おまえにとってよい主であったか?」
 ルチルは意外な質問に思わず視線を上げた。目の前にあるのはヨクトと同じ顔。それでも、その顔の主は自分を抑えるという一点をとっても、ヨクトとは違うことが彼女にも見て取れた。彼女はしばらく考えた挙げ句、ほんの小さくうなずく真似をした。
 ヨタは彼女の真意を図るように、次の問いを発した。
「では、わたしはどうだ?」
「陛下は、勿論、ヨタ様は……」
 そう言いかけて、彼女はヨタの顔を見て、その形相に言葉を呑み込んだ。
 ヨタは彼女に背を向け、弟の墓に向かい合った。
「墓参りだと。俺が、あいつの、死を、悼む……」
 突然響いた鈍い音にルチルは身をすくめた。
 ヨタは右の拳を力の限りヨクトの墓石に打ち付けていた。
「あいつは、俺の体に住みついたのだ。俺を天国に行かせるのが嫌で、俺をこうして生かせ続けている。俺の中から出て行け。おまえなど、さっさと地獄に堕ちるがいい!」
 ヨタの激昂にルチルは言葉を失った。それはまるでヨクトを見ているようであった。
 ヨタの激情が静まった時、彼女が墓前に備えた花は幾片もの花弁となって湿気た地面に散乱してしまっていた。
「おまえ……あの場にいたな」
 恐れていた言葉を投げかけられ、ルチルの心臓は凍りついた。
「あの夜、ヨクトと共に我が寝所に参ったであろう。そして、わたしがヨクトと話している間、おまえは王の間で聖剣を探していた、違うか?」
 落ち着きを取り戻したヨタの言葉には抵抗しがたい威厳があった。
 ルチルは王の前で体の震えをとめることができなかった。あの時は、主であるヨクトがいた。ヨクトの命であるから何でもできたのだ。しかし、今彼がいるのは地面の下だ。
「お、お許し下さいませ!」
 彼女は大地に額をこすりつけた。
「どのようなお叱りも覚悟しております。それ故、家族の者にはおとがめなきようお願い申し上げます!」
 しばらくの沈黙の後、ヨタの声が霧の中で響いた。
「……おまえたちは、本当に、魔女に、願いをかけたのか?」
 その声に込められていたのは、怒りではなく、恐れと不安であった。
 魔女への願い……
 ヨタの言うように、あの晩、彼女は王の間に聖剣を探しに入った。それが部屋のどこに飾られているか、どのような細工であるかは事前にヨクトに聞かされていた。
 だが、それはあるべきはずの場所にはなかった。それどころか、部屋のどこを探しても剣は見つからなかった。うろたえた彼女は王の寝所に戻り、そのことをヨクトに伝えた。  すると、ヨクトはふらつきながら王の寝台の周りを回りだし、意味不明の言葉をつぶやいていた。そして最後に、絶叫とともに息絶えたのだ。
 大量の血とともに内腑を部屋中にぶちまけ、床に大の字になったヨクトの姿は、ルチルに幼い頃から家で見慣れていた豚の屠殺の場を思い出させた。その光景は、ああ、この人は死んだのだと、彼女を素直に納得させた。血でまみれた体には不思議な説得力があった。
「何も、あたしたちは、何も……」
 震える声でルチルは言った。
「本当か? 本当におまえたちは……」
 虚ろな視線でヨタは繰り返した。
 ルチルはヨクトの無念を思い出し、それをある方向へと向けた。
「願いをかけたなら、ヨクト様はお亡くなりにならなかったはずです。もし、願いをかけた者がいるとしたら、それは、他にいるはずです。……あの晩、剣は見つからなかったのです」
「真か」
「誰かが持ち出していたに違いありません。……陛下を慕い、ヨクト様を憎んでいた誰かが」




 その日も道化は朝から上機嫌で王の間に出仕するところだった。朝食の前に王に一日の始まりの挨拶をするためだ。ここのところヨタの気分は傍目にもすぐれない様子だったが、その分、道化は自分がいつもより明るく振る舞おうと心がけていた。
 道化は階段を軽やかな足取りで上り、城の三階のいまだ血の臭いの消えぬ寝室を通り抜け、王の間の扉を叩いた。
「今朝も道化の御挨拶。陛下の御機嫌うかがいに」
 部屋の中から返事はなかった。最近はそのようなことが度々あったので、道化は扉の鍵が開いている限り勝手に中に入ることにしていた。
 扉を開けると、今日は珍しくヨタが既に衣服を身につけ窓の外を眺めているのに道化の心は浮き立った。
「おはようございます、陛下」
 道化はぴょんぴょんと跳ねながらヨタのもとに向かった。それとなく部屋の様子を眺めると、寝台のシーツは使われた様子もなく、机の上に置かれた昨夜の食事もほとんど手をつけられていなかった。
「今日も一日よい天気。たまの外出、心も晴れる。浮き浮きわくわくお日様に、あたりに行くのはいかがでしょう。村の視察もよろしかろう、森への狩りもなお結構、馬の遠乗り……」
 道化の口上の途中、ヨタは急に振り返り、道化を見下ろした。
「道化……」
 王の充血した瞳を見て、嫌な予感を覚えつつ道化はかしこまって答えた。
「何でございましょう、陛下」
 ヨタはいつもにもまして虚ろな視線で小さな男を見つめていた。
「わたしは、なぜ生きている」
 戸惑いを抑え、道化は努めて陽気に振る舞った。
「それはひとえにヨタ様が王だからでございます。ブローシュダークの王はヨタ様しかいらっしゃいませぬ。それ故、神様が奇跡を起こされ……」
「道化!」
 王の一喝に道化は言葉をのんだ。
「……二度とは言わぬ。正直に、申せ」
 その視線は氷の矢のごとく道化を射抜き、彼の体をすくませた。
「な、何をおっしゃいますか、陛下。この道化にどのような答えをお望みですか」
 ヨタはゆっくりと寝台へ歩き、しわ一つないシーツを勢いよくはぎ取ると、それをふわり道化の頭に覆い被せた。
 これ幸いと道化はとぼけ始めた。
「おお、陛下、何ということでしょう。何も見えませぬぞ、陛下、いきなり夜がやって来ました。やっと朝が来たと思えばまた逆戻り。こんなことはこの道化、生まれて初めてのことでございます」
「これが何か分かるか、道化よ」
 シーツをかぶった道化の頬に固いものが押しつけられた。シーツごしに固い感触が伝わってきた。しかし、それでも道化はとぼけ続けた。
「分かりませぬ。分かりませぬぞ、陛下。こう周りが暗くては、何が何だかてんでさっぱり……」
 いきなり道化の目の前が明るくなった。シーツは勢いよく宙に放り投げられ、そして音もなく床に落ちた。
 道化の目の前には、ヨタが手にした聖剣が突きつけられていた。銀の鞘に描かれた蛇の文様がいまにもかみついてきそうに見えた。
「これならよく分かるだろう」
 道化は言葉に詰まり、必死に考えをめぐらせた。
「おまえがあの日持ち出した聖剣だ」
「な、何をおっしゃいます……」
「この剣を使って何をした。あの夜、おまえは何をしたのだ」
「この道化には、な、何のことだか、さっぱりと……」
「おまえだということは分かっているのだ」
 相次ぐ詰問に道化は体を震わせ、裏返った声で哀願した。
「身に覚えのないことでございます」
 ヨタはそこで剣を引いた。道化の口からは安堵の息が漏れたが、ヨタの口からは追いつめた獲物を捕らえんとする最後の言葉が発せられた。
「ヨクトの墓に参ったそうだな。そこでしゃべったことを、わたしは、おまえの口から直に聞きたいのだ、道化よ」
 ヨタは柄から剣をするりと抜いた。部屋に差し込む一条の日差しに、剣は無情なきらめきを発した。
 ヨタの瞳には道化が今まで見たことのない光が宿っていた。
「お、お許し下さい!」
 ついに道化は観念して、床にはいつくばった。
「剣を持ち出したのも、全ては陛下の御ためを思ってのこと。先代テルル様とブローシュダークのことを考えれば、今ヨタ様を失うことは考えられませぬ」
「……」
「ですが、ですが、この道化、誓って何もしておりませぬ。真でございます。魔女への願いは、神の声により思いとどまりましてございます。剣は翌朝すぐにお返しした次第。何とぞ、何とぞ御容赦を!」
 ヨタは固まった表情で道化を見つめた。
 しばらくして、床で丸まった道化がそっと顔を上げると、それを押さえ込むようにヨタの重い声が彼の頭を打った。
「……おまえは、魔女の居場所を知っているのだな」
 道化は言葉を探した。正直に答えるべきか否か、この局面は彼の一大事だった。
「……いえ、魔女の伝説にいざなわれ、剣を持ち出してはみたものの、いざ魔女がどこにいるのかと思いましたら、とんと見当がつきませぬ。馬鹿の道化の本領発揮でございます」
 自分でも苦しい言い訳であるのは分かっていたが、それ以上に真実を語るのは恐ろしかった。
「では、魔女の願いをかけるのに、この剣が必要なのを何故知っている」
「それは……何かの折に先代王がお話しになっていたのを思い出しまして」
 ヨタは沈黙をまとって道化を見下ろしていたが、それは道化にとって耐え難い重みとなった。
「……では、なぜわたしは生きている」
 ヨタは先の質問を再び繰り返した。
「それは、神の御心が陛下をお救いになったからにございます。決して魔女の力などのせいではございませぬ。誓ってこの道化、魔女に願いなど……」
 ヨタは剣を振りかぶり、道化めがけて力一杯振り下ろした。
「!」
 剣は道化の頭にあとわずかなところで床に突き刺さっていた。
「へ、陛下……」
 道化が無意識に発した言葉に対して帰ってきたのは、顔面への強烈な蹴りだった。仮面でそれを受けた道化は、入ってきた扉まで転がされた。
「……貴様、よくも、勝手に、魔女の力を、そのような……」
「ですから、わたしは、何も……」
 ヨタのあまりの形相を目にした道化は、一時退却を決心した。ヨタの耳に道化の言葉が真実以外のものにしか聞こえていないことは間違いなかった。理不尽に思えたが、道化にはどうしようもなかった。勝手に剣を持ち出した罪は消えるものではないことを十分に承知していたし、それに自分が一介の道化でしかないこともそれ以上によく理解していた。




 城の一階にある大広間。「神の塔」と「蓄えの塔」にはさまれた、城の背面にあたるそこは普段は城の住人の食堂として使われていたが、ここしばらくその主はテーブルについていなかった。主から見放された人々は、ため息をつきながら日々の食事をとっていた。
「本当に陛下は一体どうしてしまったというのだ」
 書記のタルクはいまいましげにそう言い放った。
「最近の政務はおざなりで、しかも重要な指示を道化に伝えさせるありさま。これでは城の秩序というものが保たれますまい」
 彼の対面に座っている会計係のボーラックスは憂鬱そうな口調でそれに答えた。
「そんなことは大した問題ではない。問題は理不尽な税の引き上げだ。去年に比べて七割増しの税を取れとの仰せ。他国からの通行税は二倍。おまけに城の改築のために石切作業で週二日の労役。これでは、民はやせ細るばかりだ」
 二人は、最近とみに酒量の増えた老人に救いの手を求めた。
 司祭は手元に置いた酒瓶から自分でグラスにつぐと、半分ほどを一気にあおった。
「幸せな気分で酒を飲めた頃が懐かしいのう」
「カルノー様、ほどほどになされた方が」
 給仕をつとめる家令のモナズが後ろからささやいた。
「……陛下は、悩んでおられる。あの戦での毒で御自分は死ぬ運命にあったと信じ込んでおられる。それを人外の力で、神の摂理に反して生き続けているのではないか、とな」
「しかし、それは陛下の強運の故のことでしょう」
「神が陛下に生きるようお命じになった、とも考えられましょう」
 二人の若い官吏を老司祭は幸せそうに眺めた。
「左様。だが陛下はそうはお考え下さらぬ」
 司祭は酒臭い息を吐きながら頭を振った。
「死に取り憑かれておる。魔女の力を司るブローシュダークの王位は、あのお方には荷がかちすぎたのかもしれぬ」
「魔女、ですと?」
 言葉にしたのはボーラックスだったが、タルクの開いた口も同じことを言わんとしていた。
 カルノーは思わず口をすべらせてしまったことに気づいたが、部屋にこの四人しかいないのを見定め、静かに言った。
「そう、魔女じゃ」
 給仕をしていたモナズは唇をかみしめ、下げた皿を持って厨房へ出ていった。
 タルクが大げさに驚いて見せた。
「ま、魔女などどこにいるのです、あれは単なる伝説の……」
 タルクはそう言いかけて、カルノーの視線に気圧され言葉を切った。
「伝説は本当じゃ。魔女は、存在する」
 二人の若者は言葉を失った。
 カルノーは残りの酒をあおった。
「では、陛下が生きているのは魔女の力のせいだと?」
 ボーラックスの問いをカルノーはきっぱりと否定した。
「そんなことはない。あれは神の恩寵だった。誰も魔女に願いなどかけておらぬのだからな」
 二人は若干落ち着きを取り戻したように浮かした腰を再び椅子に下ろした。
「まあ、どちらにせよ、よろしいではありませぬか。陛下がお命をとりとめたことに代わりはないのですから」
 タルクはその話しにけりをつけようとしたが、ボーラックスは再び司祭の方に身を乗り出した。
「では、かつて隣国の侵攻をくいとめたのが魔女の力であるというのは、本当の話なのですか?」
 カルノーは重々しくうなずいた。
「てっきり、昔話だとばかり……」
 今度はタルクが身を乗り出した。
「では、魔女がいるかぎり、我が王国に不可能はないことになりませんか?」
 カルノーはもう一度酒瓶をたぐり寄せた。
「あれはいかん。あれは人の心を危うくする。その力を使おうと使うまいとな。実際、今の陛下のお心がそうじゃ……ヨクト様の二の舞じゃ」
 広い食堂が寒々とした牢獄のように感じられた。
 長い沈黙の後、ボーラックスはやっとの思いで、ある提案を口にした。
「では、魔女の存在はともかく、もし、もしも陛下がこのまま立ち直れないとしたら、どうされます?」
 タルクは同僚の言葉の裏に隠されている意志に呆然とし、カルノーは手にしたグラスをじっと見つめた。
「このままでは、民が蜂起することもありえます。三諸侯も黙ってはおりますまい」
 短い沈黙の後、タルクがそれを受けた。
「しかし、誰に? 順序から言えば、叔母君のアト様だが、なかなかに腹黒いお方。その孫のエクサ様もまだ幼すぎよう」
「だが、今のままでは、早々ブローシュダークは立ちゆかなくなるのも事実」
「……」
 二人は真剣な目で頭を抱えあった。
 カルノーは空のグラスにもう一度ワインをなみなみとついだ。
「グラスに入った酒を飲み干すのはたやすい。だが、それは人が飲んでのこと。これを鼠が飲もうとすればどうなる。グラスはひっくり返り、つぎ足すこともかなわぬぞ」
 司祭の言葉に二人は思わず頭を垂れた。
 王に退位を求め、それが聞き入れられれば何の問題もない。しかし、今のヨタの状態ではそうなる可能性は皆無といってよい。その場合、無理矢理、王位を空けなくてはならない。毒殺、暗殺、事故死に見せかけるいくつもの謀略が二人の心に浮かび、互いの良心を責め苛んだ。
 タルクは力無く言葉を吐いた。
「我らが早計でした。陛下が今、我らの言葉に耳をお貸しにならぬのは確か。もっと、地に足のついた方策を考えるべきでしょう」
 そして、すがるような目で二人は司祭を見た。
「待つことじゃ。時間がたてば、陛下も自分を取り戻されるやもしれぬのだからな」





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