第3章 死者と生者



 澄んだ鈴の音とともに、精緻な模様を刻まれた分厚い樫の扉が開いた。そして、一人の女性が険しい顔で部屋に足を踏み入れてきた。
「御苦労だったな、アースィ」
 両側に年老いた重臣を従えた赤髪の青年は椅子に腰掛けたまま、青髪の妹を迎えた。
「ただいま戻りました……」
 妹の顔に浮かんだ疲労の色に気づいたフォルティーズ辺境伯ロイズは、小さくため息をついた。
「一体どういうつもりだ。勝手にブローシュダークへなど行きおって」
 今回のアースィのブローシュダーク訪問はフォルティーズを代表してのものではなかった。彼女と兄ロイズの間には「あること」に関し意見の対立があり、それを証明するために、彼女は兄に内緒で出かけたのであった。
「そんなことより、城下が騒がしいようですが、何事なのです?」
 答えを聞かずとも、彼女には分かっていた。戦の用意がなされていたのだ。
 二人の重臣が若い領主の顔色をうかがった。
「やっぱり! お兄様はわたしの言うことが信用できないのですか。ブローシュダークを軽んじてはなりません」
「言葉がすぎますぞ、アースィ様。ロイズ様は常に最良の方法をお考えになって……」
 ロイズは自分に反対することなどめったにない重臣の言葉を手で遮った。彼らの意見を必要とすることなど別になかったが、妹と二人きりになると、どうしても決断力が鈍るため、今回はわざわざこの場に呼んだのであった。
「それより先に、今回のブローシュダーク滞在の話を聞かせてもらおうか? それなりの成果はあったのだろう?」
 アースィは乱れた息を整え、兄を見つめ直した。彼女は確かにこの兄を尊敬していた。父の死後、家督を継いで三年でフォルティーズの領土を大きく広げたのは賞賛の二文字に値するものであった。周辺の不穏分子の領主たちを討ち、武力拡充に努めた結果、フォルティーズの名はクライン西方王国の中で知らぬ者のない新興勢力として刻まれることとなった。だが、彼の勇猛果敢な性格は、鎖を必要としていたにもかかわらず、臣下にその役を担うものは見あたらなかった。
「……ブローシュダークのヨタ王は、南の蛮族との戦いにおいて毒を受け、その容体は大変重い御様子。手厚い看護にもかかわらず、意識は戻っておりません。……結果を、見届けるまでには至りませんでした」
 彼女の話を聞いても、ロイズは表情に何の変化も見せなかった。彼女が黒卵城をたって三日。既に事の顛末は彼の耳にも入っていた。
「ヨタ王は生きておいでですぞ」
 重臣の一人が重々しく言った。
「ヨタ王急死の場合、蛮族がそのままブローシュダークに攻め入るかと思い、ロイズ様は兵を急いで整えられたのです。蛮族の勢力伸張は、我が国にとっても重大事ですからな」
「左様。しかし、何ということか、蛮族はブローシュダークに領土侵攻の意志なしとの使者を出したというではありませぬか。まったくもって理解に苦しむことです」
 二人の重臣は互いに首をひねりあった。
 その話を聞いて、アースィは我が意を得たとばかり言葉を継いだ。
「それこそ、ブローシュダークが恐るに足る国であることのいい証拠ではありませぬか。かの国は魔女によって守られたる国。迂闊に手を出してはならない。蛮族はそのことをよく理解しているのです。小国と思って手を出すと、痛い目にあうのはこちらの方ですよ、お兄様」
 ロイズは上目遣いに妹を睨んだ。
 この点において、ここ数ヶ月、彼女との意見の対立は解消しなかった。
 近隣の乱立諸侯を従えた今、これ以上、西方王国内で戦を行うのは、賢明ではなかった。そのため、彼の野心はひとまず東へ向かうしかなかった。
 だが、そこには古の禁忌の国、ブローシュダークがあった。山に囲まれた領土は守りやすく、攻めにくいという事実はある。しかし、領土的には全くの小国である。にもかかわらず、建国二百年来、ブローシュダークはどこの国の侵攻も許さず、独立を保っている。
 それを征服すれば彼の名はいやが上にも高まろう。魔女の国などという伝説にとらわれるから臆病になり、小国と侮るがために慢心を呼ぶ。それがブローシュダークの真実であると彼は考えていた。
 だが、妹の意見は全く異なっていた。
「それで……おまえはその目で魔女を見てきたのか?」
 兄の辛辣な言葉にアースィは唇をかんだ。
「……ですが、城の者は皆何かを隠している様子でした。それに、ヨタ王が一命をとりとめたなら、それも魔女の力かもしれません。そうでなければ、教会が魔女の国の噂が高いブローシュダークにあれほどてこ入れする理由が見当たりません」
 彼女の言うとおり、ブローシュダーク北方に広大な領土を持つ中央教会は、ブローシュダーク一帯の魔女信仰をとがめることもなく、以前から良好な関係を保っていた。そもそもブローシュダークの建国自体、中央教会の援助を受けたものだというのが通説となっていた。
「教会にとって、あの国が我が西方王国と南方蛮族に対する盾だということは、わたしにも分かっている」
 ロイズは不機嫌そうに言った。
「ならば、なおさらです。教会との関係悪化を招いてまで、我が国が危険を冒す必要がどこにあるのです」
 相変わらず収拾のつかなさそうな論争に辟易し、一人の重臣は意味のない言葉でアースィをなだめ、もう一人はロイズの意見を美辞麗句で肯定した。
 重臣の言葉をしばらく黙って聞いていたロイズはぽつりと言った。
「危険を冒さずして手に入るものは、どうでもいいものばかりだ」
 アースィは兄の瞳に危険な光を感じ取った。
「お兄様」
「よかろう」
 ロイズは話は終わりだとばかりに立ち上がった。
「今回の出兵は見送ろう」
 突然の変更に重臣たちだけではなく、アースィも驚きを隠さなかった。
 ロイズはうろたえる重臣たちのことは気にもとめず、妹に向かって言い聞かせた。
「その代わり、ブローシュダークに縁組みなど、絶対許さぬぞ、いいな」
「……本気になさっていたのですか」
 アースィはあきれ顔で言った。
「それはかの国に対する口実。そうでもしなければ、わたしの滞在など許されるはずがありませんもの」
 ロイズは天井を見上げた。全く、彼女が男に産まれてきてくれていたらと、いつものように思う彼であった。
 部屋を出る時、彼女の頭に一つの疑問が浮かび上がった。ヨタ王は生きている。では、双子の弟、ヨクトはどうなったのか、と。なぜそのような疑問が浮かんだのか、明確な答えは出なかった。おそらく彼の存在が二国間の大きな要因となることはまずないであろうに。
 彼女はすぐに彼のことを頭の中から消して、手紙を書くべき西方王国の重臣たちの名をリストアップし始めた。フォルティーズの成長は、外に向かっての拡張ではなく、西方王国中央とのつながりを強める安定に求めるべきだと彼女は考えていたのだ。




「急げえ、急げえ、道化が行くぞ。王の言携え、道化が走るぞ、そおれ、それ」
 道化はベルクフリートから飛び出すと、内城壁と外城壁との間のわずかな外郭を駆け抜け、ゲートハウスへと駆け込んだ。
 ゲートハウスは外城壁の要である。それは正門を両側の二つの塔で補強したもので、城の守りの中心であると同時に、城下を行き来する通行人から通行料を集めたり、逆に施しを与えたり、また、領民から税を集めたりもする城の顔といえる部分であった。
 そして、そこには会計係のボーラックスと二人の門衛たちが詰めていた。門衛は城壁の上の守備係と日替わりで務められており、その日はカーンとブルースがその任についていた。彼らはいつもと変わらぬ平和な村と収穫前の畑を眺めて時間がすぎるのを待っていた。彼らが剣を振るうのは一生に何度もあることではない。先日、王に付き従って蛮族との戦に出たのが、カーンにしても三度目の実戦でしかなかった。
 道化の声を聞いて、二人はほっと一息ついた。
 すぐ後ろのゲートハウスの小部屋では、会計係のボーラックスが集めた金勘定に忙殺されており、その絶え間ない独り言は、立ちっぱなしの門衛たちを今にもノイローゼにさせんばかりに苦しめていた。
「今度はどうした? 吉凶かまわず騒ぎ立てるのははた迷惑だぞ」
 門衛役で最年長のカーンは姿勢を崩して道化を笑顔で迎えた。最年長とは言ってもまだ三十代半ばなのだが、他の三人の門衛を統括する地位にあり、王の信頼も厚い。
「きっとまたくだらないことですよ」
 門の片側に立つ最年少のブルースもそう言いながら、興味津々に道化を見やった。
 道化は二人を無視して、門の内部に低く響き渡る呪文のような声の出所をおおげさに探しまわった。そして、扉の開きっぱなしになった小部屋の中に会計係を見つけると、これまたおおげさに驚いたふりをした。
「何と、そこにおられたか、会計係。いざ見よ、今見よ、ひしと見よ。王の言携え、道化が参上」
 ボーラックスは嫌々ながら手を止めて、目の前の小男を見た。
「会計係が門部屋にいるのはいつものことだ」
「門衛が門にいるのもいつものこと」
 ブルースが合いの手をいれるようにつぶやいた。
「御苦労、職務に励め、皆の衆。道化は王の言を会計係に伝えるぞ」
 道化は胸を張って一同を見回した。
 ボーラックスは道化の態度に眉をひそめた。
 これまで仕事の指示は、週に一度の会議か、王の間で王から直接承るかのどちらかであった。それがあれ以来、道化が王の言づてを持ってやってくるようになっていた。それにその内容も以前とは明らかに違っていた。
「王は道化におっしゃった。城が暗いと気が滅入る。黒卵城はなぜ黒い。明るい城が予の夢じゃ。道化も王におっしゃった。城が暗いは仕方なし。灯り少なく、織物少なく、石まで黒けりゃ仕方ない。おまけに美女まで見あたらぬ。このままゆけば、黒い卵は腐っちまう」
「戯れ言を言うな!」
 ボーラックスは勘定途中の金が散らばった机を思い切り叩きつけた。
「質素倹約を旨とするのは我が国建国以来の方針。王国の財政にゆとりがないのは陛下も御存じだ」
 道化は相手をからかうようにその場でくるりと一回転し、舌を出した。
「ブローシュダークも地に堕ちた。賢臣いずこへ去りゆかん。王はいまだに病み上がり。体調すぐれず、気も滅入る。そんな王の復調を、願ってやまぬは臣下の必。道化の言は王の言。心にしかと刻み込め。目に麗しき織物で、部屋を飾ってさしあげよ。しかと、申し伝えたぞ」
 そう言うと、ボーラックスが反論する間もなく、道化は再び駆け出していった。  ボーラックスは両腕を組んで頭を垂れた。
 二人の門衛は会計係の機嫌がさらに悪くなったのを感じ取って、無言で任務に戻った。こんな時は、気楽な城壁の守備役が心底うらやましく思えた。
 しばらくすると、ボーラックスは小部屋から出て来て、二人の間に立った。
「どう思う、カーン?」
 ボーラックスの言にカーンは正面を向いたまま答えた。
「……確かに。ヨクト様があのような亡くなられ方をされては、陛下がショックを受けるのも無理からぬことかと」
「一体、あれって何だったんでしょうかね?」
 ブルースの言葉は三人に気まずい沈黙をもたらした。
 あの日、国王ヨタは一旦意識を取り戻し、その夜家臣たちは己の疲労を癒すため、自分の寝床に戻っていた。その夜の間にあの出来事は起こったのだ。
 ルチルの悲鳴が始まりだった。夜警に知らせを受け、王の寝室にやってきた家臣たちは思わず息をのんだ。
 部屋の隅では小姓とルチルがうずくまっていた。部屋の床は血で真紅に染め上げられており、その血の池の中央には、苦悶の表情で天井を睨み付けたヨクトが倒れていた。既に絶命しているのは誰の目にも明らかだった。
 ルチルの言では、いきなりヨクトが血を吐いて倒れたということだった。だが、なぜそんな夜中に二人が王の寝室にいたのかについては、彼女は頑として口を開かなかった。  そんな中、国王ヨタは静かな眠りについていたのだが、明くる朝目を覚ますと、彼の病は嘘のように回復していたのだった。
「やっぱり、魔女の仕業、なんですか?」
 怯えたブルースの言葉にカーンが睨みをきかせた。
「魔女はブローシュダークを守護するものだ。災いをもたらすものではない」
「だって、陛下のお命は助かったんでしょう。ヨクト様の命とひきかえにヨタ陛下のお命をお救いになったんじゃ」
「それは、そうだが……」
 二人の会話にボーラックスは肩をすくめた。彼は魔女などというお伽噺に興味はなかった。彼はもっと現実的な問題で頭を悩ませていた。
「あれで何が御不満なのだ。床の下草を取り替え、床板を何度も拭いて血抜きはした。床板を取り替えるとなると、ざっと七百ウェルだ。笑って出せる金額でないことはおまえにも分かるだろう」
 それでも、ヨタは一旦血にまみれた寝室を嫌い、事件の翌日から王の間に簡易寝台を作らせ、そこで睡眠をとっていた。
「必要な出費というものは、あるのではないですか」
 カーンは丁寧な物言いで会計係に物申した。
 ボーラックスは何度も首を振った挙げ句、大きなため息をついた。
「……あのような道化に言われてやるのは癪だが、仕方あるまい。だが、刈り入れが終わって、地代が入ってからだ。これは譲れんぞ。おまえたちもそう思うだろ」
 押し黙った二人にボーラックスは背を向け、ぶつぶつ言いながら会計部屋に戻っていった。




 道化はゲートハウスを後にすると、外郭にある菜園へと足を向けた。
 そこはこれまで長い間、カーナルという年取った菜園管理人が一人で世話をしていたが、今は新たな助手を得たおかげで彼の仕事はずっと楽になっていた。
「そこの区画は特に念入りにな。司祭様御指定の薬草じゃからな」
 カーナルはルチルに指示を与えながら自分でも丁寧に肥料をやっていた。
 菜園では城の人間のための野菜や薬草を作っていた。菜園は代々、王妃の趣味の一角であったのだが、前王妃シルヴァンの死後、カーナルがその世話を任されていた。
「第三幕は道化の登場。馬よりも早く駆けたる道化、砂煙を上げての登場なり」
 手入れ中の畑に道化が猛スピードで駆け込もうとするのを見て、ルチルは手にしていた鍬をびしりと道化に向け、彼を急停止させた。
 道化はルチルの周りをぐるぐる回りながら感心するように言った。
「おお、ルチル殿は畑仕事もよく似合う。狂った人のお付きより、土と戯れるが気も休まろう」
 彼女は唇を大きく曲げて、不満の意を表した。醜い顔が一層歪んだが、道化はそれを何とも思わなかった。むしろ、素顔を仮面で隠している自分とは違い、素顔のままで生きている彼女は彼にとってある意味崇拝の対象でもあった。
「あたしももとは農家の娘。畑仕事が似合うのは当り前。でも、亡くなった方を悪く言うなんて、いくら道化だからって、最低です」
 道化は年下の少女の言葉にうろたえた。
「ど、道化の言葉を、真面目にとるのは、やめとくれ。考えなしの、流れ出るまま、しゃべってる。深読み、裏読み厳禁さ」
「相変わらずじゃのう、道化は」
 カーナルは腰をさすりながら定刻の来訪者を出迎えた。
「これは、これは、菜園の主もおかわりなく。若さを保つ秘訣は土いじりですか。道化の場合、思った事を素直にしゃべる。これが一番。けど、しゃべりすぎると、若返りすぎてこんなに背が縮んじまうわけです」
 道化の早口にカーナルはにこやかにうなずいた。
 ルチルは自分より背の低い道化を見据えてうらめしそうに言った。
「あたしを城に残れるよう陛下に取りなしてくれたのも、考えなしだったんでしょ」
 ヨクトが気まぐれで下女に連れてきたルチルは、ヨクトの死とともにお役御免となるはずだった。だが、道化の王への進言もあって、彼女は菜園係助手として城にとどまることを許されていた。
「ルチル殿、今日は随分御機嫌ななめ。もしや今日はそういう日、それなら道化もあきらめよう」
 カーナルは道化の言葉に顎をさすりながら、うつむいた少女を見た。
 ヨタ付きの道化と、ヨクト付きの下女であるルチルは、お互いの主人の仲が悪いにも関わらず、彼ら自身の関係は必ずしも悪くはなかった。それはどちらかと言えば、道化のルチルに対する想いによるものが大きかったのだが、そのため、ヨクトの死後、彼女が見せる沈んだ表情は、道化の悩みの種になっていた。
 ルチルも言われたままでは終わらなかった。実のところ、彼女ほど悪口雑言を言われ慣れている人物はいなかったのかもしれない。
「ヨクト様がお亡くなりになって、陛下はさぞかし安堵なされたことでしょうね。お付きの道化も一層怖い者なしになったのではありませんか」
 彼女の口から出る辛辣な言葉に道化は人知れず胸を痛めた。
「なるほど、道化はこの世の春を謳歌している真っ最中。片や、元世話女は絶望の淵か。そんなに人生最悪の時とも見えんがのう」
 カーナルの独り言にルチルはわずかに身を縮めた。確かにヨクトが亡くなったのは誰のせいでもなかった。それを悲しんでいるからと言って、周囲の人間の好意を無にしてよいとは彼女自身思わなかった。
「感謝は……してます。カーナルさんにも、道化にも。うちは貧しいから、今さらあたしみたいなのが戻っても歓迎されないもの。それに……」
 城にいればヨクトの墓に参りに行ける、とは口に出しては言えなかった。
「ど、道化は王の代理人。王の手と、目のとどかぬところに気を配る。他の臣下の言えぬこと、道化ならばすっぱりと。言えぬことなどありゃしない」
 彼女の一言で元気になった道化を見てカーナルは苦笑しながら、再び腰を曲げ地面の相手を始めた。彼にとって心を通わせる相手はいなかったが、この菜園があればそれで十分だった。多くを求めなければ、土はそれなりのものを与えてくれる。求めすぎれば、そこには荒廃がやってくる。彼は彼に残されたこの菜園を残りの人生をかけて守ってゆくつもりだった。




「随分お加減はよろしいようですな。しかし、それにしても……」
 司祭は目を細め部屋の中を見渡した。机に加え、寝台が加わったことで部屋はいかにも手狭となっていた。
「とても王の居室とは思えませぬな」
 老人は苦笑しながらヨタの顔を見た。
「あんな部屋で寝られるものか」
 ヨタは寝台から半身を起こした姿で吐き捨てるように言った。
「あの馬鹿者が、こともあろうに王の寝室で血を流しおって。愚か者は死ぬ際まで愚か者よ」
「陛下……死者に対してそのような言、お慎み下され。生前ヨクト様がどのような行いをなさったとて、天に召されてしまえば、等しく神の子となるのです」
「カルノー……」
 つぶやきとともにかすれた息がヨタの口から漏れた。
「なぜ、俺は生きている?」
 彼の視線は虚ろに定まらないまま宙をさまよっていた。
「俺は死ぬはずではなかったのか?」
 ヨタの視線がゆっくりとカルノーの顔を捉えた。その深いしわの刻まれた顔は、実の父以上に自分に救いをもたらしてくれそうに彼には思われた。だが、その救いが何であるのか、彼自身にも分かってはいなかった。
「……陛下はあの病状から回復なさった。それだけでございます。強いて言えば、この老体の看病があったこともお忘れなさいますな」
 司祭は軽口をしくじりながらヨタの真意をはかるようにその細い目で彼を見返した。
 ヨタは司祭のそんな言葉には耳を傾けず、自分の心に取り憑いた、ある考えを問いたださずにはいられなかった。
ヨクトが取り憑いたのだ。魔女に願いをかけて俺の中に入り込んだのだ
 表情が消えたヨタの顔をカルノーは正面から見据えた。
「陛下の御全快は、ひとえに主の御心によるものでございます」
「それとも、おまえか?」
「陛下……」
「おまえが、願ったのか、あの魔女に!」
 割れた声は、一瞬部屋を占拠した後、むなしく石の壁に吸収されていった。
 静寂が訪れるのを待って司祭はそれに答えた。
「神に仕えるわたしがそのようなことをすると、本気でお考えですか」
「……では、では、なぜ俺は生きている? おまえも回復の見込みはないと思っていたであろう。だから、魔女への願いを勧めた。違うか?」
「勧めたわけではございませぬ。臣下の分として、そのような手段もあると御喚起したまで」
 ヨタは力無くうつむいた。
「では、なぜ……ヨクトは、あのような姿になった。そして、なぜ俺は生きている?」
 カルノーは駄々っ子をあやすようにねばり強く説き続けた。
「確かに、ヨクト様のことは、突然のことでした。しかし、あの方はいつああなってもおかしくない体だったのです。このカルノー、臣下の分を越えるようなことは神に誓ってしておりませぬ」
 ヨタは司祭に向け枕を投げつけた。
「大体、そなたはどちらなのだ。中央教会から遣わされる司祭の身で、神と魔女のどちらもたてようとする。魔女は魔女ではないのか!」
 そう吐き捨てると、ヨタは力つきたように寝台に倒れ込んだ。
 部屋には不作の年の冬のような重い空気が充満していた。
 カルノーは足下に転がった枕を見つめ、押し黙った。
 奇跡的に王が一命をとりとめたのは疑いようもなく喜ばしいことだった。蛮族からの和議もあり、ある意味、ヨクトの死さえブローシュダークにとって歓迎するべきことだった。
 だが、ヨタの心には「魔女」という禁忌に触れたのではないかという恐れが異常なまでに増殖しているようだった。
 魔女のことをヨタがそのように捉えていたとはカルノーにとって驚きであった。現実主義者のカルノーにとって、神と魔女の間の折り合いをつけるのは難しいことではなかったが、若い誠実な王の心の内では激しい葛藤があったに違いない。
「主は許して下さるだろうか、このような不浄な生を生き続ける俺を。俺は無事に天国へ上れるのだろうか。俺は……」
 ヨタは寝台の天蓋にむかい、独り言をつぶやいていた。
 しかし、だからといって魔女を否定する王を認めるわけにはいかなかった。彼がブローシュダークの王である以上、必要な時には魔女の力を用い、この小国を維持しなければならないのだ。それで北方の中央教会の平和は保たれる。そのためにカルノーはここにいるのだ。
 自分の長年の教育の失敗をまざまざと見せつけられ、カルノーは自制心の鎖を一時緩めることにした。
「それほど御心配ならば、確かめてみればよいではありませぬか」
 ヨタの瞳が小さく揺れた。
「魔女のもとへ行けば、その影と声が、陛下の今のお命、魔女への願いによるものかどうか、しかと告げましょう。そうすれば、陛下の御懸念も即刻解消されましょう」
 すると、ヨタは子供のように体を丸め、毛布を握りしめた。
「……あんなところへは、あんなところへは行かん、絶対に行かんぞ」
 思い通りの反応だったとはいえ、失望と後悔がカルノーの胸をふさいだ。双子の弟の貪欲ささえ、今となってはうらやましく思い出された。
 だが、カルノーはすぐにその考えを追い払った。欲望に押し流される人間が魔女の力を使えば、そこには悪夢しか残らぬはずであった。それを思えばヨタのこの有様も最悪の状態とは言えないのかもしれない。そう考え、寝台の中で縮こまっている王を後に残し、カルノーは部屋から出ていった。



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