第2章 王の危篤



「ほら、急げ馬鹿野郎。料理が冷めちまうぞ、こののろま!」
「これでも大急ぎでやってるんですよ」
「おまえの大急ぎはなめくじにも劣るぞ」
 日没を間際に迎えた厨房は、あわただしい雰囲気に包まれていた。
 料理長であるビスマスの口の悪さはいつものことだし、若い料理人ヘッスの手際の悪さも変わらない。それほどせっぱつまった状況という訳ではないのだ。確かに、隣の大広間を兼ねる食堂では人々が次の料理を待ちかねていたが、城の主であるヨタは戦に出ているし、弟のヨクトは体調を崩して自室で寝込んでいる。食卓を囲んでいるのは、司祭書記会計係。ただ、彼らと同席している一人の存在が、料理人たちに余分な緊張を強いていた。
「あのお姫様はいつまでいらっしゃるんですかね、もう一週間ですよ」
 ヘッスのぼやきにビスマスは肉の入った大ナベをかき回しながら答えた。
「いいじゃねえか、べっぴんさんがいると、城の中が明るくなるってもんよ」
「うちの王様の所に嫁いでくるって噂、本当なんですかねえ」
「本当なら、コベリンがさぞがっかりするだろうな」
「あんな女のことはどうだっていいんですよ。それより、こんな高価な食材ばっかり使ってちゃあ……」
 ヘッスはビスマスに皿を渡しながら調理場の隅に積み上げられた高価な食材の成れの果てを横目で見やった。赤牛の脂身に六樽熊の爪、南部原産の香辛料の粉。ここでは見慣れぬものばかりだ。
「若造が気にすることじゃねえ」
「でも、親方……」
「おまえが困ってるのは、作り慣れない料理ばっかりで訳が分からねえってことだろ」
「そ、そんな……」
「おまえにゃいい勉強だ」
「どうせ俺は半人前ですよ」
 ヘッスは最後の皿を渡すと、むくれてデザートに出す果物のへた取りにとりかかった。
「西方王国の宮廷じゃ、毎晩百人が集まる晩餐が開かれてるんだとよ。料理人なら一度はそんな場を任されてみてえもんだろ」
「百人、ですかあ……あ、親方、まさか、あのお姫様に気に入られて、向こうの宮廷に紹介してもらおうなんて考えてるんじゃないでしょうね」
「お、おまえなあ……」
 その時、不意に聞こえた咳払いで二人は背筋を正した。厨房の入り口には家令のモナズと給仕のコベリンがしかめっ面をして立っていた。二人は無駄口であふれ返っている厨房に無言で次の料理を促した。
「いや、悪い、この馬鹿がもたもたしてるもんだからよお」
 ビスマスは無口のままこちらを睨んでいる家令に愛想良く言った。
「もうできた、今できた。今日のメインは絶品だぜ」
 六樽熊の肉の盛られた四つの皿に手早くワインソースをかけながらビスマスは完成の手振りを出した。それを確認して、モナズとコベリンはやはり無言でそれを運び出した。
 彼らが厨房を出るのを見届け、ビスマスとヘッスは同時にため息をついた。
「終わった、終わった」
 デザートが残っているにも関わらず、メインの一品を出し終えて、ビスマスは自分の仕事は終わりと決め込んだ。
「さっさと仕上げろよ、ヘッス、こっちは先にやってるぞ」
 ビスマスは奥の酒蔵からワインを酌んで来ると、樽に腰を下ろし一人で一杯やり始めた。
 ヘッスがうらめしそうにモンロウの果実を盛りつけていると、穀物倉につながる扉が開き、家畜係のパイライトがひょっこりと顔を出した。
「俺たちの夕食はまだかい?」
 城で働く召使いたちの食事は、王族や家臣たちのものとは別に作られるのだ。
 ビスマスは至福の時間の邪魔者をにらみ付けた。
「ようやく一仕事終えたところなんだ。もうちょっと待ってくんな」
「あっ、自分だけ飲んでるじゃないかよ」
 不満顔のパイライトにビスマスは仕方なく酒を振る舞った。
「隠れて飲む酒はサイコーだよな」
「ふん、おまえさんは隠れてやることが大好きらしいからな」
 ビスマスはパイライトを嫌っていた。彼が横流しをしていると睨んでいたからだ。予定の分量が家畜小屋から厨房に届けられることはほとんどなかった。今朝は雌鳥の調子が悪いだの、変な病にかかってるだのと言って、大抵わずかに足りない量しか回してこない。食材をごまかされるのは、料理人として大問題であったが、横流しの証拠をつかむのはなかなかに難しく、ビスマスは常にその問題に頭を悩ませていた。
「俺が好きなのは、夜のお楽しみだけなんだがなあ」
 とぼけた調子でパイライトは言った。
 彼はあっという間にグラスを飲み干し、再びビスマスにそれを差し出した。
「いい加減にしろ。樽が空っぽになっちまう」
 にべもなく断られ、パイライトはおどけるように肩をすくめた。
 そこにようやくデザートを作り終えたヘッスが会話に入ってきた。
「ところで、前々から聞きたかったんですけど、このお城には魔女がいるって噂、本当なんですか?」
 若者の興味津々の態度にビスマスとパイライトは視線を合わせた。
「村の連中がよくそんな話をしてるんですよ」
 ビスマスは残りわずかになった酒をグラスの底で揺らした。
「おまえはこの村の出じゃなかったな……」
 パイライトは今度はヘッスにグラスを差し出し、もう一杯を要求した。
 ヘッスはビスマスの顔色をうかがい何も言わないのを見て、仕方なく酒蔵から酒を注いできた。
 新しい酒を得てパイライトは上機嫌でしゃべりだした。
「そりゃあ、伝説っていうか、昔話っていうか、その手の話さ」
「そうなんですか」
 ヘッスはがっかりした様子で言った。
「この国ができた時の伝説があってな」
 ビスマスが重々しく語り始めた。
「伝説?」
「昔このあたりには魔女が住んでいて、しょっちゅう悪さをしていたそうだ。それで村の人間も領主も皆困っていた。魔女っていうくらいだから、怪しげな魔法を使って、長い間、誰も手を出せなかったのさ。しかし、ある時、アイゼムって若者がやって来て、三人の仲間とともに、魔法の剣で魔女を倒しちまった。その功績をたたえ、このあたりの諸侯たちは彼を王として迎えることになったのさ」
 身を乗り出してヘッスは尋ねた。
「じゃあ、魔女はもういないんですか?」
「倒されたんだから、当然そうなるだろ」
 こともなげにパイライトは言った。
 納得できないとでもいうようにヘッスはビスマスを見た。
 アルコールの息を体の奥から吐き出しながらビスマスはグラスをおいてゆっくりと立ち上がった。
「少なくとも、わしは城の中で魔女とやらに出会ったことはないな」
 ヘッスに対し勝ち誇ったようにパイライトは笑顔を作った。
「ほら、いつまでも無駄話をしとるわけにゃあいかんぞ。腹を空かせてるのはこいつだけじゃないからな」




 城の二階の執務室は息苦しい雰囲気に包まれていた。独り言のように繰り言を繰り返し部屋の中を歩き回る書記に、窓の外の厚い雲を眺めしきりにため息をつく会計係、普段以上に身じろぎせず扉の前で直立の姿勢を取り続ける家令、そして長椅子に腰掛けたまま膝の上で握りしめた両の拳に力をこめるフォルティーズ辺境伯の姫。彼らにとってよい知らせは、いまだ上階からもたらされてはいなかった。
「どうしてこんなことに。ただの様子見の戦だったはずなのに、それがどうして……」
「いい加減にしなされ、タルク殿」
 家令のモナズが取り乱す書記係を見かねて叱責した。
「まだ、どうなると決まった訳ではありませぬ。カルノー司祭がきっと何とかして下さいます」
「でも、陛下のお顔を見たでしょう、真っ黒だった。あんな毒にやられてるんじゃ、カルノー様だって……」
 部屋の空気が一気に重さを増した。彼の言葉は誰もが内心で思っていて、誰もが口に出すのをためらっていたことだった。
 昨晩遅く、ヨタは一週間前に出立した兵と共にあわただしく城に戻ってきた。突然の帰還に城の誰もが驚きながら、主を迎えようとした。だが、彼らの目の前に現れたのは、兵に抱きかかえられた意識のない王だった。南方蛮族との戦で彼が不運にも肩に受けた矢には毒が塗ってあったのだ。
 そして昨夜以来、王の寝室では医術の心得のあるカルノーが付きっきりで看病を行っていた。
「陛下の御容態も気になりますが、ヨクト様の調子もよろしくないとか……」
 言葉を控えていたアースィが探るように一同に言葉をかけた。
 ほとんど場の興味を引かなかったその言葉に、ボーラックスが仕方なく答えた。
「ヨクト様は、もともとお体が悪かったのだ。仕方あるまい」
 既にあきらめたかのような彼の口調と、それに無言で同調するその場の雰囲気にアースィは嫌悪感を抱いた。
「でも、陛下と申し合わせたように具合を悪くなさるなんて……」
「双子の片割れですからね」
 言葉にしてしまってから、書記のタルクは言い過ぎたことに気づいたが、口に出してとがめる者はいなかった。
 場の空気を引き締めるように、ボーラックスは咳払いをして皆の注意を集めた。
「万が一のこともあります。三諸侯の方々と、分家の方に使いを出された方がよろしいかと」
 それに対し、モナズが不愉快そうな顔で反論した。
「せめて、カルノー様の見立てを聞いてからでも遅くはないのではありませんかな」
 老齢の家令の言葉にもボーラックスはひるまなかった。
「万が一に備えるのが政治です。段取りは早いに越したことはありません、そうですよね、タルク殿」
 目を真っ赤にしたタルクは、どちらともとれるように小さく首を振った。本来ならこの手の行動は書記のタルクの仕事の範疇なのだが、感情に流されやすい彼は、いつも冷静なボーラックスに職責を侵害されることが多々あった。
 そこまで言われては、一家の執事でしかないモナズにそれ以上異を唱えることはできなかった。
 ボーラックスは異国の娘に目を向け、言葉を続けた。
「申し上げにくいことですが、アースィ様もそろそろお国の方に戻られてはいかがでしょう。我が国は御覧の通り故、ろくなおもてなしもできなくなります」
 一同の視線がアースィを等しく異分子として認識していた。本来なら王の病状は隠しておきたいところだったが、狭い城の中では隠しきれないということでこの場の同席を許されていたのだ。
 アースィとしては、王の病状の行方を確かめたかったが、それが許されるはずもないのは彼女自身十分承知していた。
「では、明朝にでも発つことに致しましょう。長らく御迷惑をおかけしました」
 彼女がブローシュダークを訪れた目的は達成されてはいなかったが、これ以上滞在することは、いたずらに家臣たちの嫌悪を買うだけだった。
 一同のおざなりなうなずきを受け、彼女は沈んだ空気の部屋から退出した。




 ベルクフリートの三階の王の寝室では、暖炉にくべられた薪が考えられる限りの暖をつくり出していた。
 カルノーは額から流れ落ちる汗にもかまわず、茶色い粉末を水に溶かしたものを、寝台の上のいまだ目を覚まさぬヨタの口にゆっくりと流し込んだ。
 王付きの小姓であるトールも、カルノーの指示でヨタの上半身に緑色のカビをペースト状にしたものを、薄く塗っては熱いタオルで拭き取り、塗っては拭き取りと単調な作業を我慢強く繰り返していた。
 そんな中で一人、奇妙な仮面をつけた男が二人の眼中から外れたところで体を持て余していた。トールと変わらぬ背丈のこの仮面の男は、王の傍にいる特権を行使している最中だった。王のお抱え道化師という地位は、この国では決して悪いものではなかった。
「王様、王様、いかがしました、そんなに黒い顔をして、そんなに黒いお体で。
 それではまるで下々の、暮らしを長年したような、あわれな姿でありますよ。
 それではあまりにあんまりです。不肖の道化が王様に、そんな暮らしをさせたかと、思われたなら一大事。国一番の笑い者。笑わせたいのはただ一人、あなた様でございます」
 仮面の男はヨタの眠る寝台の周りをひらひらと踊りながら節のついた言葉をつむぎ続けた。
 だが、それをいつまでも大目に見ることができるほどカルノーの心は広くはなかった。
「道化よ、時と場所をわきまえることができんのか」
 カルノーは聖職者だけあって、普段は決してきつい物言いをする男ではなかった。だが、さすがにこの時は、看病疲れと王の病状が一向によくならぬことが相まって彼の神経を逆なでしていたところだった。
「時と場所をわきまえる、そんな道化がいたならば、是非にも一度お会いしたい。そいつは道化の面汚し。悪魔に売った魂を、やっぱり返せというような、分別臭いエセ道化。組合からはつまはじき、風上風下どこなりと、我らの立つ大地には、奴の居場所はありはせぬ」
 そんな節回しで弁解されたため、さすがの司祭も反論する気をそがれてしまった。それでも、心の奥底に残る苛立ちを何とかしずめようと、カルノーはトールに熱いワインを持ってくるよう指示し、どさりと椅子に腰を下ろした。
 そんな司祭に道化はさらに追い打ちをかけた。
「お心優しく、聡明で、武勇あふれるこの王を、まがう事なき将来の、ブローシュダークの名君を、失わんとは一大事。たったわずかの毒さえも、直せぬ医者がここにいる、普段の酒を飲み過ぎて、神の恩寵失った、腐れ坊主の無力野郎」
「道化!」
 カルノーは宙の一点を見すえたまま怒声を発した。
「鍵なき口を持つからと言っても、限度を知れ。万が一……陛下がこのまま、お亡くなりになったら、貴様も……」
 その声は詰問のそれではなく、力のない絶望に侵された声だった。
 カルノーのその様を見てさすがに道化もおとなしくなった。道化は寝台のそばに跪くと黙って両手をあわせた。
 カルノーは疲れ果てていた。できることはすべて手を尽くしたにもかかわらず、回復の兆しは全く見えなかった。ヨタの受けた矢に塗ってあったのは彼の知らない種類の毒のようで、もはや彼にできることは神に祈ることしか残されていなかった。
 窓の外はまだ昼過ぎだというのに、暗い雲が立ちこめていて、まるで冬のようだった。すべてが不吉な兆候を示していた。
 ヨタは彼が子供の頃から導いてきた。我が子も同然だった。
 だが、目前に迫ったヨタの死以上に、彼には考えねばならないことがあった。
 次の王を誰にするのか。無論、彼に決定権があるわけではないが、宮廷付き司祭の発言権は決して小さいものではなかった。双子の弟が平凡な人物であったなら、彼の心労はずっと減じていたに違いない。だが、ヨクトは狂気と紙一重のところにいる人物だった。名目上王位第一継承権を持ってはいるが、そのような事態になったとき、分家や三諸侯が賛成するとは考えられなかった。カルノー自身もヨクトを王に押すつもりはない。ブローシュダークの王は、愚帝では務まらないのだ。もっとも、そのヨクトも今は瀕死の状態であるのだが。
「双子の運命か……」
 ふと口をついて出た言葉の縁起の悪さに老司祭は自らを無言で戒めた。
 しばらくの間おとなしくしていた道化が王の寝顔をのぞき込んでいるのを見て、カルノーの胸に嫌な予感が走った。
「どうしたのだ」
 振り返った道化の顔は、仮面の小さくくりぬかれた目の部分と口の部分からわずかに素顔をのぞかせるだけで、その真の表情を読むことはかなわなかった。
 言葉を繰り返すのももどかしく、カルノーは自らヨタの顔をのぞき込んだ。
「陛下」
「……」
「陛下!」
 枕元の声に応えるかのようにヨタはゆっくりと瞼を開けた。
 真っ赤に腫らした目で、ヨタは苦しそうに司祭の顔を見つめた。
「御無事で、陛下」
「俺は……死ぬのか」
 力のない声は、自らの運命を知った上で予言を発しているようにも聞こえた。
「何をおっしゃいます、陛下」
「陛下は死んではなりませぬ。王は死んではなりませぬ」
 必死で叫ぶ道化を見て、ヨタはかすかに笑みを浮かべた。
「よい、分かっておる。短い王位であったが、これも、運命……」
 苦しそうにあえぐヨタの背をカルノーは必死にさすったが、それが気休めにもならぬことは彼自身よく分かっていた。
 このままではブローシュダークは最良の王を失う。後には愚者の群がいるだけだ。
 その思いはカルノーに苦渋の決断を迫っていた。もはや彼にできることは何もない。だが、ヨタにはまだ方法が残されている。
 聖職者としての長い葛藤を経て、それを喚起すべくカルノーはついに重い口を開いた。
「陛下、ブローシュダークの司祭として、一つ申し上げておくべきことがございます」
 そう言うと、カルノーは道化を睨み、無言で退室を求めた。
 そんな司祭に道化は舌を出してとんぼを切った。道化は何が何でも最後まで王の傍に仕えているつもりだった。
 ヨタは道化のささやかな権利を擁護した。
「……よいのだ、カルノー」
「しかし……」
「おまえが言わんとすること、分かって、おる」
 王の言葉にカルノーはうつむいた。
「……ブローシュダークは魔女との契約を持つ国。建国王アイゼムの結んだその契約はいまだいきております。お忘れではありますまい」
 ヨタは司祭の話を薄目を開けて聞いていた。
 彼の頭に小さい頃の思い出がよみがえった。彼は弟のヨクトと共に無邪気な願いを魔女にしたいと望み、司祭にきつくしかられたことがあった。願いはかけることができなかったが、彼の剣の腕は国で一、二のものとなった。ただ、この国の王になりたいという弟の願いはいまだかなわぬままであったし、永遠にかなうことはないであろう。
「父は、先王は、願いをかけたか」
 返答に窮し、言葉を探し続ける司祭を見て、ヨタは質問を撤回した。
「どちらにせよ、司祭が魔女への願いを勧めるとは、おかしな話だ」
 老司祭は苦渋の表情を浮かべた。
「神の摂理をこの世に伝える者として、神の御業をくつがえすことを認めることは断腸の思い。ですが……」
 ヨタは目を閉じてつぶやいた。
「人は死ぬものだ。それに……分不相応の望み、神の怒りに通ずと、司祭によく教えられた」
「陛下……」
「奴には王位を許すな、それだけは、おまえの力で……頼むぞ、カルノー……」
「陛下!」
 その言葉を最後に再びヨタは意識を失った。
 道化は気が狂ったように部屋の中を跳ね回った。
「この、腐れ司祭、何とか、陛下を、お命を、救って、何とか!」
 カルノーはぐったりとなって、椅子に体をあずけた。
「今聞いたとおりだ」
「魔女か? 魔女に願いをかけるのか?」
「だが、陛下御自身が拒まれた」
「何を言う。最後まで陛下をお守りするのが、我ら臣下の務め」
 カルノーは寝台の上で死んだように眠っている王の姿を遠い目で見た。
「これは王の務めなのじゃ。魔女の力を、使うも、使わぬも」




 その夜、王の死を予感し、城の人々は悲しみと絶望にくるまれ長い夜を送っていた。
 そんな中、同じく死に瀕していながら、ほとんど彼らの記憶に上らなかった人物がいた。ヨタの双子の弟ヨクトである。だが、兄とは違い、彼は自分の運命を黙って受け入れるつもりはなかった。
 彼は真夜中、ルチルの力を借り、最後の気力を振り絞り、城の二階の自室を抜け出して、兄の眠る部屋へと向かった。
 幸いなことに、ヨタの寝室には壁際に小姓が一人控えているだけで、その少年も椅子の上で、涙の跡を頬に残しながら深い眠りに落ちていた。
 ヨクトはルチルを王の間に行かせた。寝室から歩廊を通った先にある王の間には手に入れるべきものがあるはずだった。
 彼女が戻ってくるまでにヨクトは兄との会談を済ませるつもりでいた。
 薄暗い寝室に一人立つと、壁に立てられた蝋燭のゆらめきが自分たち双子の先行きを暗示しているような錯覚に捕らわれた。
 彼はトールが子供らしい眠りの中にあることを確かめてから、部屋の中央に置かれた寝台にゆっくりと近づいた。天蓋のついた巨大なベッドは、いまだ妃を持たぬ王一人を静かに横たえていた。
 死の淵にある兄の胸元がかすかに上下しているのを見て、ヨクトは自分が安堵の気持ちを覚えたことに苛立ちを感じた。
 ヨクトは兄に声をかけようとして、ふいに吐き気が込み上げてきた。反射的に手で口を覆ったが、それは何の助けにもならなかった。彼は確かめるように弱々しい明かりに手をかざし、自分の手が黒い液体にまみれていることを知った。
 その時、声が響いた。
「見舞いに来た、顔ではないな……」
 常とは違うそのかすれた声は、兄の容体を如実に語っていた。
 ヨクトはひきつった笑みを浮かべ、兄に答えた。
「そんなことはないさ。あんたこそ、思った以上にひどい顔だ」
「……お互い様だ」
 ヨタは体を起こそうともせず、虚ろな視線を寝台の天蓋に戻した。
「ヨタ!」
 自分の声のあまりの響きようにヨクトは壁際の少年を見やり、あわてて声をひそめた。
「あんたは、ブローシュダークの王だ。ブローシュダークの王には、魔女との契約がある。あらゆる願いをかなえる契約が」
 部屋の闇が一瞬、深まった。
「今こそその時だ、あんたと俺の体を治してもらうんだ」
 弟の熱気に兄は冷たい視線を向けた。
「ヨクト、契約の内容、忘れたわけではあるまい」
 それは幼い頃から父親と司祭から何度も言い聞かされてきたことだった。
 今から二百年前、始祖アイゼム=ブローシュダークは魔法の剣の力を用い、仲間と共に魔女をこの丘の地下深くに封じることに成功した。その時、彼は自分の子孫のことを考え、彼らに十二の願いをかなえるよう魔女に求めた。そして、すべての願いをかなえ終えたとき、魔女を縛する封印は消失するものとし、魔女はそれを受け入れた。
 そして、アイゼムは封印の丘の上に城を築き、近辺の諸侯の臣従のもと、一族の名を冠する王国をうち立てた。
 だが、十二の願いをかなえ終えることは、魔女の復活をも意味していた。そうなれば魔女が再び王国に害をなすは必定。故に、願いは永遠にかなえ終えぬことがブローシュダーク一族の目指すところとなったのだ。
「まだ、残りはあるさ」
 ヨクトの言葉にヨタはいまいましそうに苦しげな息を吐いた。
「こんな小さな国が、今まで生き延びてこられたのは、全て、魔女の力のおかげだ。こんなことで、使ってよいはずがない」
「こんなこと? 俺たちの命がこんなことか?」
 ヨクトは兄の寝間着の胸ぐらをつかみあげたが、その手はすぐにほどけた。
 膝を床につき、息を激しくするヨクトに兄は冷やかな声をかけた。
「父が、魔女の力を何に使った?」
 ヨクトの脳裏に憎むべき男の顔が浮かんだ。
 ヨクトは脂汗を流しながら兄の耳元に顔を近づけた。
「あいつは臆病者だ。母上を救えたのに、救おうとはしなかった。何もできなかった、ロクでなしだ」
「賢明なる王だ」
「ふざけるな! 俺はまだ死にたくない、死んでたまるか!」
 弟の取り乱しようにヨタはうっすらと笑みを浮かべた。
「俺は死ぬ、おまえも、あきらめろ。次の王がおまえじゃないと分かれば、心安らかに、神の御元に行けるというものだ」
 ヨクトは奥歯を噛みしめ兄を凝視した。幼い頃よりつちかい続けた、持てるだけの憎しみを込めて。
「あんたは、魔女が怖いだけだ。魔女の力が怖いだけだ。臆病者の父と一緒だ。そんな奴に、魔女に願いをかける資格はない。……だがな、俺は違う。俺は魔女を恐れない。魔女の力を恐れない」
 ヨタの瞳が大きく開かれ、ヨクトに焦点を合わせた。
「おまえ、まさか……」
「願いをかけるには、王でなければならぬわけではない」
「ヨクト……」
 兄の目に映る弟の姿は、もはや邪悪な存在でしかなかった。一歩一歩扉に向かい後ずさる弟に恐怖しながら、ヨタは付き人の少年の名を必死で呼んだ。だが、かれ果てた声は、部屋の端までは届かなかった。
「待て、ヨクト……」
 ヨクトが扉に向かい合った瞬間、それは勢いよく開かれた。そこには、王の間に剣を探しに行かせていたルチルが痘痕顔をぐしゃぐしゃにして立っていた。
「行くぞ、ルチル。王はやはり気がすすまぬらしい」
 ルチルはあえぎながら主に訴えかけた。
「ありません……聖剣が、どこにも、見つかりません!」




 道化は暗闇の中で耳をそばだたせた。こんな時と場合である。誰が起きているともしれないし、少なくとも、見回りのシナバールは自分の仕事を忠実に実行している最中に違いなかった。誰かと出会えば、面倒なことになるのは火を見るより明らかだった。それ故、灯りも持たずに来たのだ。
 道化の両手には布でくるんだ細長いものがしっかりと抱きかかえられていた。ブローシュダークの王の証「聖剣」である。これこそが魔女に願いをかなえてもらうために唯一必要なものだった。魔女は聖剣を持つ者をアイゼムの子孫と見なす。先代の王にも仕えていた道化は、書庫の古い書物からそのことを突き止めていた。そして、それには魔女の封じられた場所さえも記されていた。
 音がしないことを確かめ、道化はベルクフリート一階の受付部屋の扉をそっと開き、細い廊下に足を踏み入れた。
 廊下の右手に面しているのは夜警のシナバールの部屋だ。いないと分かっていても、胸の鼓動は押さえられなかった。足音を忍ばせ、部屋の前を通り過ぎ、王の塔の地下牢の手前で右に折れる。「神の塔」即ち、礼拝堂のある塔へと向かうのだ。召使いたちや司祭の部屋の前を忍び足で通り過ぎてゆく。そして、ようやくのことで道化は礼拝堂へたどり着いた。
 その部屋は城の中でも独特の雰囲気を漂わせていた。神の塔の一階と二階を吹き抜けで使った礼拝堂には、窓からうっすらと月明かりが差し込んでおり、それが道化の心に幾分の安らぎを与えた。だが、それは、道化に自分がやろうとしていることを今一度思い起こさせることにもなった。
 道化は両腕に力を込め、剣を抱きしめた。
 陛下を死なせるわけにはいかないのだ。彼を亡くしたら、もはやこの城に自分の居場所がないことを、道化は痛いほど理解していた。この城に来て五年。放浪の暮らしに戻るのはこりごりだった。だが、それ以上に先代王には拾ってもらった恩義があり、その長子であるヨタ王には、変わらず召し抱えてもらっている恩義がある。道化を道化として認めてくれる心の広い王を、彼は常から敬愛し、そんな主君に仕えていることを自慢に思っていた。どんな咎めを受けようと、そんな王を救わぬ理由はない。そう自分に言い聞かせた。
 道化は窓際の一段高くなった説教壇に上った。司祭の専用舞台でもあるその上には、黒檀で作られた祭壇がそびえ立っていた。その祭壇の下に秘密の入り口はあった。床と同化して見える古びた木の引き戸がそうである。それを開けるにはこつが必要となる。開けようとして引いても、ほんのわずかに動くだけである。今度はそれを直角に右に引くのだ。書物で読んだとおり道化はそれを実践した。
 床にぽっかりと開いた闇を見て、道化は思わず息をのんだ。
 書物で読んではいても、道化はこれまでそれを確かめようとはしなかった。半信半疑であったこともある。だが、それよりも道化も神を信じていた。その点では道化も他の人間と何ら変わることはなかった。魔女に願いをかけようなど、そんな罰当たりな行為をしようとは夢にも思わなかった。
 この闇の底に魔女がいる……
 道化は剣を抱える手が震えていることに気がついた。肩から木の枝が生えているようだ。指は凍えてしまったかのように感覚がない。
 彼は今にも泣き出しそうな気持ちになり、視線を上げた。礼拝堂の入り口の上の壁にかかっている大きな十字架が、星の光を受け重々しく何かを伝えようとしているかに思えた。
 いつも礼拝堂で朗々と響く司祭の言葉が脳裏に蘇った。
 地上の秩序。平和。神の国への長い道程。
 道化は十字架から視線をそらすことができなくなった。彼はその力に抗うべく、心の内で必死に言葉を重ねた。
 ヨタ王はこの国に必要なお方なのです。それに、自分にとっても大恩ある御方。あの若さでお亡くなりになってよいはずがありません。なにとぞ、お許しを。この道化の行為にお目こぼしを……
 十字架は何も答えなかった。ただ弱々しい小さなきらめきを道化の心に射るだけだった。
 ……神よ
 道化は剣を抱えたまま床にしゃがみこんだ。
 いつしか仮面は涙でぬれていた。いつまでたっても涙はとまらなかった。
 道化はただ十字架に向かって王の無事を祈り続けた。



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