店に入ってきた男に、アリオスは一瞬意識を奪われた。 よく見知った男。今回の旅の、同行者の一人── 炎の守護聖たるオスカーだ。けれどあまりに普段とは纏う空気が違いすぎて、一瞬、我が目を疑った。 珍しく一人で、服もいつどこで調達したものか、いつものものとは異なり、黒のスーツに身を包んでいた。そして何もかもを拒絶しているかのようなその雰囲気に、別人かと思った。だがその印象的な容姿は間違えようがない。だからやはりオスカーなのだと知れる。 オスカーはカウンターの隅に座ると、中にいるバーテンに何かを注文し、それから懐から取り出した煙草に火を点けた。酒はともかく、煙草を吸うのを目にするのははじめてだったが、それは妙に様になっていた。 暫く様子を見ていると、新たに店に入ってきた若い男がオスカーに近づき、静かにその隣に腰を降ろした。 見たこともない男だが、他にも席が空いているのにわざわざオスカーの隣に座り、かつオスカーもそれに対して何も言う様子がないということは、知り合いなのだろうかと思う。いや、むしろ待ち合わせでもしていたような感じだ。 だがこんな所で、まるで他の同行の者たちに知られるのを避けるように会うとは、一体どういった間柄なのか。 気にはなったものの、アリオスはグラスを傾けながら、見ているのに気付かれないように視線を外した。 「軍の様子はどうなってる?」 オスカーは声を潜めて、隣に座った男に問い掛けた。 「全て閣下のご指示通り、今は治安に全力を注いでおります。他には王立研究院と共に情報収集と監視を」 「何か分かったことは?」 「これを」 男は持っていたセカンドバッグから封筒を取り出し、オスカーに差し出した。それを受け取り、中に入っていたファイルを取り出して軽く確かめてから、再び封筒に戻す。 「……そのまま続けてくれ。だが、気を付けろよ」 「ご心配にはおよびません、気取られぬよう、十分に注意しております」 男は軽く笑った。 銜えていたタバコを灰皿に置きながら、オスカーはその答えに唇の端を上げて満足そうに 「閣下」 「なんだ?」 呼びかけに、オスカーは男の顔を見返しながら問うた。何か言いたいことがあるのかと。 「我々は、本当に動かなくてよろしいのですか?」 「何度も言っている。奴らに対しては何もするな。奴らは魔導を使う。魔導に対して、普通の人間であるおまえたちは対処できない、被害を増やすだけだ。しかも奴らはその力で人間を魔物に変え、あるいは操って襲ってきている。ヘタをすれば同士討ちだ、そんなことは避けたい。だからおまえたちはこれまで通り、治安に全力を注いでくれればいい」 男は悔しそうに唇を噛み締めた。自分たちはこの宇宙で最強の軍事力を持っているのに、今回の件に関しては何もできない。それが、悔しい。 だがオスカーの言う通り、ヘタに動けば招くのは同士討ちだ。 「血気に逸る者もいるだろうが、抑えるように上の連中に言っておけ。無駄な犠牲は出したくない」 「承知、しました」 辛そうに、悔しそうに応える男に、オスカーはその肩を軽く叩いた。 「気にするな、それぞれがそれぞれにやれることをやればいい。おまえたちはおまえたちの、そして俺は俺のやれることを、な」 「はい。……ですが、閣下、決してご無理はなさらないで下さい。我々は、貴方を失いたくない。失うわけにはいかないんです。閣下の身に万が一のことがあれば、今まで我々がしてきたことは、全て無駄になってしまう。ですから、たとえ他の方々がどうなろうと、閣下だけは……」 その瞳に強い思いを込めて言い募る男に、オスカーは目を見開き、そして微笑った。 「分かっている、気を付ける。おまえたちを置いていきはしない。まだ、その時ではないからな」 「出すぎたことを申し上げました。これで失礼します」 立ち上がってそう告げる男に、オスカーは座ったまま軽く頷き返した。 「気を付けて帰れよ」 一礼して店を出ていく男の背を見送ってから、オスカーはバーテンを呼ぶと、空になったグラスを出して次を頼んだ。 「よお」 不意に掛けられた声に、オスカーは振り返った。 「あんたが一人とは、珍しいな」 「アリオス」 「隣、いいか?」 「ああ」 アリオスは断りを入れ、オスカーがそれに頷くのを確かめてから、先程まで別の男が座っていたスツールに腰を降ろした。 「おまえもこの店にいたとはな」 「奥の方で一人で飲んでたんだ。そしたらあんたが入ってきて、声を掛けようかと思ったんだが、後から入ってきた奴と密談してるようだったから、邪魔しちゃ悪いかと思って今まで待ってたんだよ」 「見てたのか」 「まあな」 答えながら、アリオスはバーテンが目の前に置いたグラスを手にして口に運んだ。 「安心しろよ、誰にも言わねえから」 「どういうことだ?」 声を潜め、冷酷とも取れるような眼差しで聞いてくるオスカーに、アリオスは臆することなく、軽く意地悪げな笑みを浮かべながら答えた。 「こんなとこであんなふうに会ってるってことは、他の連中には知られたくない相手、なんだろ? 黙っててやるよ。気には、なるがな」 「礼を、言った方がいいのかな。……知られて困るわけじゃないが、できれば知られずに済ませたい、ってとこでな」 言いながら、新しい煙草を取り出して火を点ける。 「あんたが煙草をやるとは知らなかったぜ。あいつらといる時は、一度も吸ったこと、ねえだろ」 「あいつらといる時は、吸わないようにしてるからな」 煙を吐き出しながらのオスカーの言葉に、アリオスは眉を顰めた。あいつら── というその言い方に。 自分はいい。だが、オスカーの口からそれが出たことに違和感を覚える。 「どうした?」 眉を寄せたままのアリオスに、オスカーは不思議そうに声を掛けた。 「いや、なんか、あいつらといる時と、今と、随分イメージが違うと思ってな」 「ハハハ、そりゃそうだろうさ」 おかしそうに笑いながらも、どこかしら影のあるオスカーの様子に、アリオスはなおさら疑念を大きくした。 まださして長い付き合いではない。だから当然のこと、よく知っているわけではないが、今まで見てきた、そして聞いていたオスカーの印象と、今目の前にいるオスカーから受ける印象は、どこが、と明確には言いがたいが、明らかに違うのだ。 「あっちの俺は、女王陛下に仕える忠実な臣下にして騎士たる炎の守護聖。こっちの俺は……、一体なんなんだろうな……」 カウンターに肘をついてグラスを目の高さに掲げてその中身を揺らしながら、自嘲の笑みを浮かべ、アリオスに答えるというよりも自分自身に問い掛けるように呟くオスカーに、アリオスは何も言えなかった。 おそらくあの仲間たちには決して見せないだろう、その そして気になる。彼の抱え込んでいるのであろう闇が何なのか。どこか、自分に通じるところもあるような気がして── 。 「なあ」 「なんだ?」 「もし、何か一つ、なんでも望みが叶うとしたら、あんたは何を願う?」 「なんだ、いきなり?」 ふいの、予期せぬアリオスの問い掛けに、オスカーは飲みかけのグラスを持ったまま、目を見開いてアリオスを見た。 「いや、なんとなくさ、聞いてみたくなって。やっぱり、あんたらの女王を解放し、聖地を取り戻すことか?」 「……そういうおまえは、どうなんだ?」 オスカーはアリオスの問いには答えずに、逆に問い返した。 「聞いてるのは俺だぜ?」 「おまえが答えたら、教えてやるよ」 そう言ってグラスの中身を空けるオスカーに、アリオスは自分も手元のグラスを空けると、少し考え込むようにして、それからゆっくりと口を開いた。 「……そうだな。一つだけ、なんでも叶うなら……、この手に取り戻したいものがある」 言って、空いたグラスをカウンターに置くと、じっと己の手を見つめる。 「守れなかった女がいた。俺のために死なせてしまった女が。叶うなら、その女をこの手に取り戻したい」 どうして俺はこんなことをこいつに話しているのだろうと思う一方で、この男になら話してもいいと、アリオスは思った。こいつなら自分の気持ちを理解できるのではないかと。どうしてそんなふうに思ったのかは、自分でも分からなかったが。 「……羨ましいな」 「羨ましい、だとっ!?」 呟くようにオスカーの口から紡がれた一言は、だが確かにアリオスの耳に届いた。そしてその言葉に、アリオスはオスカーへの怒りを覚える。 一体何をして羨ましいなどという言葉が出てくる!? 愛する女を、誰よりも大切に思い守りたいと思っていた女を守れず、死なせてしまった。それがどうして── ! 怒りからオスカーの襟首を掴み上げるアリオスに、オスカーはいささか苦しそうに顔を歪めてはいたが、感情の篭らぬ瞳を向けた。 「少なくとも、そこまで想える女に逢えたんだろう? 俺が羨ましいというのは、そのことさ」 そう告げるオスカーに、アリオスはオスカーを掴む手を離した。 「……あんた……」 「俺にはそこまで想える女はいない。一人だけ、子供を産ませた女もいたが、あれは、もちろん好意は持っていたが、恋愛じゃあない、契約だった。たぶん、これからもそんな女には出会えないだろう。……いや、たぶん俺はもう、誰も本気で愛することなんてできないんだろうと思うよ」 どこか遠くを見つめながらそう語るオスカーに、アリオスは彼の孤独を見た気がした。 旅の間も、街に着けばその街の女たちの視線を集め、囲まれ、口説き口説かれ、そしてまた娼館に通う── そんな、女好きのプレイボーイと言われる男の口から出たとは、とても思えない言葉。 「けど、あんたはいつも女に囲まれてるじゃねぇか、その気になればよりどりみどりだろう?」 そう聞いてくるアリオスに、オスカーはまた自嘲するかのような笑みを浮かべた。 「あんなのはただのゲームさ。それに、俺が寝てる女は商売女ばかりだぜ。本気で誰かを、何かを恋うる心も、愛しいと思う心も、俺は置いてきてしまったからな」 そう言ってどこか寂しげな、何かを懐かしむような微かな笑みを口元に浮かべながら、オスカーは新しいグラスを口に運ぶ。 「さっきおまえが聞いてきた、望み、な、俺もおまえと似たようなもんかもな。対象は、もちろん違うが」 一気に中身をあおって空になったグラスを両手で弄びながら、真っ直ぐ前を見て先刻の問いに答えるオスカーに、アリオスは純粋に興味を持った。オスカーがそれほどに想いを向けるものが何なのか、それを知りたいと。 「……聞いても、いいか?」 何を、とは、アリオスはあえて言わない。 だが、何を、なのかは、口にされずともオスカーには分かった。 「……もし本当に望んで叶うというのなら、俺は時を戻したい。守護聖になる前に戻って、あの美しかった オスカーはそこまで告げて、一旦言葉を切って目を伏せた。 アリオスはそんなオスカーを黙って見つめ、次の言葉を待つ。 「そうしたら、こんなふうに一人取り残されることも、悪夢に魘され続けることもなかったんだ」 「取り残される……?」 「俺の故国は、もう無いんだ。俺が聖地に招かれ、守護聖になって間もなく、戦争なんていう愚かな行為の果てに滅んだ。内政不干渉というその一言で、聖地から見捨てられ、救いの手が差し伸べられることもなく、皆、業火に焼かれた」 感情を押し殺し、真っ直ぐ前を見詰めながら、まるで他人事のように冷静に言葉を綴っていたオスカーは、アリオスにその視線を流し、彼の緑色の瞳を見つめた。 「おまえの瞳の色は、生まれ故郷の草原を思わせる。初めて ではオスカーが言った、彼が心を置いてきたところとは、彼の失われた故郷なのかとそう思い、そして同時に疑問が浮かんだ。 オスカーは、故郷は聖地に見捨てられたと言ったのに、彼は変わらずにその聖地に身を置き、女王に仕えている。聖地や女王に対してどう思っているのかと。 「……だのに、あんたはあんたの国を見捨てた聖地とやらで、守護聖として女王に仕え、今はその女王を救うための旅をしているってわけか」 皮肉を込めてそう告げるアリオスに、オスカーはフッと微笑った。 「俺は軍人だからな。守護聖として女王に仕えよという、最後に受けた命令に従っている。だが守護聖としてではなく、ただの一人の人間としての本音を言えば、聖地がどうなろうが女王がどうなろうが、俺の知ったこっちゃない。こんなこと、あいつらには到底聞かせられない本音だがな」 「……それを、どうして俺に話す?」 「さあ、どうしてだろうな?」 はぐらかすように答えながら、オスカーは意味深な笑みを浮かべた。 「……余計なお喋りが過ぎたな」 言って、オスカーは立ち上がった。 「もう戻るのか?」 「……いや。久し振りに見たくもない夢を見そうなんでな、どこかでいい女を見つけて潜り込む。おまえは、そろそろ戻れよ。おまえがどう思っているかはともかく、どうやらあの娘はおまえに気があるようだしな」 オスカーが言う“あの娘”が誰かは、名を言われずとも分かっていた。今回の旅の同行者の中心人物。かつて愛した女によく似た娘。そして、己の目的を達するに、今現在、最も邪魔な娘── 。 じゃあな、と言って立ち去りかけて、オスカーは何かを思い出したようにアリオスの元に戻った。 手にした封筒からファイルを取り出し、そのうちから、2枚外す。 「さっき会ってた男は、ヴィクトールも知らないが、王立派遣軍の俺直属の諜報部の人間でな、今回の件で集めた情報を持って来たんだ」 そうして外した2枚の紙を二つに折って、アリオスに差し出した。 「やるよ。── おまえ、だろ?」 「?」 疑問を浮かべながら、アリオスは条件反射的に差し出された紙切れを受け取る。 その様子に、オスカーは目を細めて微笑うと、踵を返した。 それを目の端に止めながら、アリオスは二つに折られた紙を広げて愕然とした。 そこには、一体いつどうやって写したものか、一人の若い男が写っていた。 金と翠の瞳を持つ、黒い髪の、もう一人の、否、本来の自分の姿── 。 慌てて視線を上げて店の出入り口を見るが、既にオスカーの姿はどこにもなかった。 ── das Ende |