日の曜日、クラヴィスが長く仕えてくれている老執事のハンスから彼の来訪を告げられたのは、夕食を終え、一人居間で寛いでいる時だった。
「オスカーが?」
「はい。如何いたしましょう。お会いになられますか? それとも、お休みされているということで、お引き取りいただきますか?」
「用向きは何と?」
「それが、直接でなければ話すことはできないと仰られまして」
「…………」
クラヴィスは暫時逡巡していたが、手にしていたグラスを傍らのテーブルに置き、一つ大きな溜息を吐いて答えた。
「会わぬわけにはいかぬだろうな。通せ」
「畏まりました」
そう答えてハンスが一旦部屋を下がった後、クラヴィスはテーブルの上に置かれた水晶球に目をやった。
「何かあったのか? 先程見た時には水晶球もカードも、何も告げてはいなかったが……」
ややあって、ハンスに案内されて、その力をそのまま具現したかのような真紅の髪を持つ炎の守護聖たるオスカーが、いささか思いつめたような顔をして入ってきた。
「珍しいこともあるものだな、オスカー。おまえが私の屋敷を訪ねてくるなど」
「お休みのところを突然お伺いしまして、申し訳ありません」
真っ直ぐクラヴィスの前まで進んだオスカーは、まずは一礼と共に詫びの言葉を告げた。
「その休みの日に態々遣いとは、おまえもご苦労なことだ」
「遣い?」
いかにも面倒そうに応じるクラヴィスのその言葉に、オスカーは僅かに片眉を上げた。
「おまえがここにくる理由といったら、ジュリアスの遣いぐらのものだろう。違うのか?」
そう問い掛けてくるクラヴィスに、オスカーは苦笑を漏らす。
これまでの自分と彼の付き合いを考えれば、そう捉えられても致し方ないのかもしれない。これまで執務上の必要最低限の付き合いしかしてこなかった。個人的な付き合いなど、皆無だったといっていいのだから。
今は、それを後悔しているのだけれど……。
「ジュリアス様の遣いではありません。今日は、私事で伺いました」
「私事? おまえがか?」
「はい」
「それはますますもって珍しいことがあるものだな。で、直接でなければ話せないという用向きとは何だ?」
促すクラヴィスに、オスカーはさらに一歩前に出ると片膝を付いた。
「オスカー?」
一度目線を上げてクラヴィスの瞳を真っ直ぐに見つめた後、クラヴィスのローブの裾を手に取り、それに唇を寄せた。
「なっ!? オ、オスカーッ、一体何の真似だ!?」
突然のオスカーの自分に対する行動に驚き、戸惑う。クラヴィスの発したその声音には明らかに焦りの色が含まれている。
「今日は貴方に俺の、いえ、私の気持ちを伝えるために伺いました。貴方に求愛するために」
オスカーはその髪の色とは正反対の、冷たい薄蒼の瞳に熱を込めた眼差しを、真っ直ぐにクラヴィスに向けた。
「オスカー……、何を言っている、冗談はよせ……」
信じることなどできはしない。
聖地一のプレイボーイと言われる男が、ましてや執務以外にこれといった接点のないこの男が、よりにもよって自分に、などと、冗談としか、揶揄しているとしか考えられない。
「冗談ではありません、本気です。正直、最初は自分でも信じられませんでした。ですが気付いてしまったこの想いを否定することは、最早できません」
「おまえは……私を嫌っていたはずだ、違うか……?」
自分を真っ直ぐに見つめてくるオスカーの熱の篭もった視線に、クラヴィスは威圧されるような息苦しさを感じて、それ以上彼を見ていることができずに顔を背けた。
「そうですね。確かに以前はそうでした、それは否定しません」
オスカーは一瞬瞳を伏せた。以前の自分の姿を思い出すように。
「私は、貴方を見てはいなかった、見ようともしなかった。ただ表面に捕らわれて、何も知ろうとしなかった。それを今は後悔しています。なぜもっと早く、表面に惑わされることなく、真実の貴方を知ろうとしなかったのかと」
「ではおまえは、私の何を知ったというのだ……」
「貴方の素顔を」
「素顔?」
クラヴィスは、オスカーの一言に思わず背けていた顔を向けた。
「はい。もう一月余りも前になりますが、森で、一人でいる貴方を見かけました。誰もいないところで、周りにいる動物たちにだけ向けた、おそらく他の誰も見たことがないだろう優しい微笑みを浮かべる貴方を」
そう告げて、オスカーはクラヴィスのソファに置かれたままだった左手を取った。
「オスカー……」
名を呼ぶ声が震える。
相変わらずオスカーの瞳は真っ直ぐにクラヴィスの瞳を見つめてきていたが、まるで縫い付けられたように、今度はそれから反らすことはできなかった。
「その微笑みを見て、貴方から目が離せなくなってずっと見ていました。それからです。気が付くと貴方のことを考えていた。その微笑みを自分にも向けて欲しいと、そればかり思うようになって、貴方の姿を追っていました。最初は何かの間違いだと思っていましたよ。貴方は紛れもなく、俺と同じ男だ。これはその貴方に対して抱く感情ではないと。けれど一度気が付いてしまったら、もう止められませんでした」
「オスカー……」
クラヴィスは震える声で、名を呼ぶことしかできない。
「貴方を見つめていたい、見つめられたい、抱き締めたい、そればかり考えている。── 貴方を、愛しています」
そう告げて、オスカーは手に取ったクラヴィスの左手の甲に、恭しく口付けを送った。
「……オスカー、わ、私は……」
深い紫の瞳が揺らいでいる。次々と告げられる言葉に、クラヴィスは動揺していた。
自分に対してこのような想いを告げてくる相手がいるなどとは、思ってもいなかった。しかもそれがオスカーとなればなおさらのことだ。
「今日は自分の想いを知っていただくために伺いました。もちろん叶うならば貴方に想いを返してもらいたい、貴方を俺の── 、私のものにしたい。けれど今は、そこまでは求めません。ただ、私が貴方を想っているのだということを告げたかった。そしてどうか、貴方を想うことを許していただきたい、それだけです、クラヴィス様」
オスカーはゆっくり立ち上がると、まだ手にしたままだったクラヴィスの左手にもう一度口付けを送ってから、名残惜しそうにそれを離した。
「……オスカー……」
「今日はこれで失礼します」
オスカーの告白は何かの間違いではないのかと、冗談ではないのかと、信じられないという顔をしているクラヴィスに、これまで彼には── いや、もしかしたらこれまで彼が愛を囁いてきたどの女性にも見せたことのないような優しい微笑みを浮かべて一礼してから、クラヴィスのいるその部屋を後にした。
残されたクラヴィスはただ呆然と、オスカーの後ろ姿を見送るしかなかった。
◇ ◇ ◇
明けて月の曜日── 。
朝、珍しくいつもより早く目覚めたクラヴィスは寝台から降りると、窓辺に寄りカーテンを開けた。そして窓を開け放ってそのままテラスに足を踏み出す。
その時、ふと小さな赤い物が目の端を掠め、そちらに目を向けた。
そうして見つけたのは、テラスにある小さな白い丸テーブルの上に置かれた、一輪の赤い薔薇の花。綺麗に棘が取られ、茎の下の方には花びらと同じ小さな赤いリボンが結ばれている。
『貴方を、愛しています』
それを手にして、ふいに頭に浮かんだのは昨夜のオスカーの自分を見つめる熱い眼差しと、言葉だった。
「オスカー、か……」
夢ではなく、事実だったのだと改めて認識する。
そして頬が僅かに染まるのを自覚して、その自分らしくない様に自嘲の笑みを浮かべた。
その日から、朝起きてテラスを見ると、同じように毎日違う種類の、違う色の花が、花びらと同じ色の小さなリボンを付けて置かれているのを見ることになる。
執務中のオスカーの態度には、これまでと違うものは感じられなかった。
ただ気が付くと、熱い眼差しで見つめられているのが分かり、けれどそれを見返すことができないまま、クラヴィスはその場を足早に去るだけだった。
どれくらいそんな日々が続いたのだろう。
いつの間にか、明日届けられる花は何だろう、今日の花は何色だろうと、そう考えて待っている自分がいる。そしてそれを考えていると、なにやら胸が高鳴り、鼓動が早くなる。
「オスカー」
目の前にはいない男の名を呼ぶ。
「私は……」
◇ ◇ ◇
まだ陽の昇り切らぬ中、既に通い慣れたものとなった道を進む。手には、最初に送ったのと同じ赤い薔薇の花が一輪── 。
花びらにそっと口付けて、いつものようにテーブルの上にそっと置く。
「毎朝ご苦労なことだな、オスカー」
ふいに掛けられたその声に、オスカーは慌てて振り返った。人の気配には敏感なはずの自分が、それに気付きもしなかったことを叱咤しながら。
振り向いた先に立っているのは、オスカーが切望してやまない微笑みを浮かべたクラヴィスだった。
「いつもこんなに早いのか? おかげで、私は寝不足だ」
「クラヴィス様……」
── das Ende
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