2002年3月6日

キャッチ・アンド・リリースという行為



「キャッチ・アンド・リリース」(以下、C&R)この言葉と、その行為がどのようなものであるかを知らない釣り師はもはやいないだろう。今日の釣り場では日常的に見られる行為であり、また自ら実践している人も多いことだろう。では皆さんはこのC&Rを果たしてどのように捉え、どのような意義を見いだしているのだろうか。

 釣り雑誌や釣り関係のウェブサイトを見れば「C&Rをしよう」といった記述がいくらでも溢れている。そこではよく「C&Rは魚たちへのマナー」とか「釣り師に出来る自然保護への第1歩」などと付け加えられているが、実に曖昧な表現であり、これらの言葉からは何ら具体的な意義などを感じ取る事ができない。中にはキープするものを罪人扱いしているようなものまである。
 私はC&Rとはマナーや自然保護のためではなく、我々が自然を利用していく中でのインパクトを低く押さえるという事の一部であり、ただ単に「魚を減らさない為の行為」だと思っている。それは我々が未来永劫にわたって、子孫の代まで釣りを楽しむ為の資源量を維持させるためのものであり、何ら自然や魚の立場で行われているものではないということである。付け加えるならば、C&Rは決して魚を増やそうというときに行われる行為ではないのである。

 では我々は必ずC&Rを実践していかなければならないのか。基本的に私はC&R推進派であるが、必ず実践しなければならないものではないと思っている。但しそれは条件付きの範囲内での話である。

  • 十分な調査によって定められた遊魚規定の範囲内
  • 再生産量がキープされる数を上回り、適切な資源量の維持が出来る水域
などの場合のキープは問題ないのだろう。他にも例外的ではあるが調査目的などの釣りでは再放流が認められないといった場合もある。
 これらの共通点は適切な資源量を維持させることであるが、その「適切」とは一体どの程度のものであろうか。ここで言う適切とはその水域に残される魚の数だけではなく、そこから持ち出される魚の数にも係ってくるものでもある。それは持ち出される魚の数が適正でなければ、適切な資源量を維持することは出来ないということで、つまり、「再生産量>キープされる魚の数」でなければ当然魚は減っていくのである。
 ここで気を付けなければならないのは、釣り師一人一人の適正キープ量がどの程度のものであるのか、それをどう判断するのかである。この答えが用意されている釣り場などは一般的には皆無に等しいだろう。釣り場となるそれぞれの水域で、専門的な機関や行政、釣りに大きく関わっている業界や漁協あたりで調査をして欲しいと思うが、現実的には非常に難しいだろう。仮にそれらの調査が実現し、釣り師一人あたりのキープ量を定められたとしよう。だが釣り師の中にはこれらの規制を忌み嫌うという習性を持つものもいるようだ。例えば北海道のサケ・マスの規制などは、確実に守られているのを私は見たことがない。こうした規制に反対する者の意見は「規制することでは必ずしも釣り師の意識向上には繋がらない」というものが多い。だが全ての釣り師の意識が変わるのを待っていては、魚は減る一方ではないだろうか。現実に遊漁目的の放流を実施している水域では、魚が釣れるのは放流直後だけで、すぐに釣りきられてしまうので次の放流まで釣れない。と、いった話もよく耳にする。
 これらについて私自身、何の答えも用意できない。だからこそ私は現在C&Rを実践し、自ら釣る魚の数も制限している。だがそれも何の根拠もないというのが実際のところだ。こういう話をすると「じゃあ釣りなんかやめればいい」と言われることがあるが、私が釣りをやめても全国には釣りたい人がいくらでもいるし、状況が変わるわけでもない。また私が釣りをやめてしまえばそういった者たちとの接点すら失うこととなり、私のこうした意見は多くの釣り師にとって受け入れる余地の無いものになるだろう。
 そこで私たちが今できることは、釣り師一人一人の「自主規制」、簡単に言えば「やせ我慢」なのではないだろうか。

 こうした中で釣り師団体の働きかけや漁協によって「C&R区間」が設定されている水域もある。このエリアで釣った魚は「持ち帰らず」「殺さず」「再放流」しなければならないという規則を設けているのである。考え方としては非常に前向きだが、そうした釣り場では「大層魚が釣れるのではないか。」と、釣り師が殺到してしまうというのも現実としてある。中には規則を守らず持ち帰る者もいるようだ。何と情けない話だろう。またリリースをしていてもそれは100%確実なものではない。不適切なリリースによって死亡する魚も少なくないという。
 こうした規則を設定する場合、その資源は放流に頼らざるを得ないのが多くの河川の現状だ。だが今後こうした働きかけをする場合、それまでに放流が行われていなかった水系では慎重に行う必要がある。基本的にはもともとそこに居た魚で賄い、水系の純血は守るべきだ。だが現実として、それではあまりに資源量が乏しい場合にはやはり放流という事になるのだろう。しかし、当初は放流によって資源量を確保しなければならないだろうが、継続的な放流はその釣り場の「釣り堀化」を招く。一定期間の放流の後は自然繁殖に任せたい。そのためには禁漁などの措置も一時的には必要となるかもしれない。この場合放流される魚が外来魚である必然性は全くない。あくまでも減少した在来魚種の増殖に努めるべきだ。
 自然繁殖とは言うものの、環境の悪化などでそれも望めない水域は我が国では珍しくはない。釣り場としての「C&R区間」の設定ばかりではなく、そうした環境改善への働きかけも併せて行うべきではないだろうか。魚が繁殖できないような環境下で、放流魚を釣るだけではあまりに寂しすぎるし、滑稽ですらある。だからこそ、ただ魚を逃がせばよいというのではなく、詳細にわたる規則を設定し、継続的な調査を行い、魚が自然繁殖出来る環境を取り戻すために行政などに働きかける。それはそこを訪れる釣り師一人一人が釣り場を作るということでもあり、単純なC&R区間とは一線を画す非常に素晴らしいものであると思うのだが・・・、いかがであろうか。

 ではC&Rを実践さえしていれば問題がないのか。答えは否である。C&Rをしてもその方法や条件が悪ければ魚はかなり高い確率で死亡する。それについての詳細は私のテキスト「キャッチ・アンド・リリース後の魚の死亡率」を見ていただきたいが、C&Rとて100%確実なものではない。
 前述した「再生産量>キープされる魚の数」というのは理解していただけたと思うが、実はこれだけで解釈するのではまだ不十分なのである。現実的には「再生産量>キープされる魚の数+C&Rが直接的或いは間接的原因で死亡する数+自然界において淘汰される数」といったところではないだろうか。私自身釣獲(キープ)を伴う釣りを完全に否定するものではないが、このように考えると今すぐにでも我々が始められる行動は「確実なC&R」ではないかと思う。
 近年はルアー・フライ釣り師が多く、彼らがキープしているのを見かけることが少なくなった。私が思っていた以上にC&Rは釣り師の間で浸透しているようである。特にイトウ釣りで有名な道北の河川などを訪れる釣り師は各々C&Rの必要性を感じ、実践しているようである。が、絶滅の危機に瀕するこのイトウという魚、果たしてC&Rを続けていくだけで減ることはないのだろうか。決して広くはない水域にシーズン中の休日ともなれば、恐怖を感じる程の釣り師の多さである。私の経験からイトウはそれほど強い魚ではないように思う。仮にイトウを釣りに来る者全てがC&Rを実践していたとして、「再生産量>C&Rが直接的或いは間接的原因で死亡する数+自然界において淘汰される数」は保たれるのであろうか。出来るだけ早い時期に調査を行い、必要とあれば禁漁などの措置をとる必要があるように感じる。

 C&Rを釣りのプロセスの一つとして捉えている者も少なくないだろう。私自身も心の隅にあるセンチメンタリズムを刺激され、C&Rを魚との一期一会として捉えている部分があることを否定しない。だがそればかりに終始し、ただ単にC&Rを繰り返している事で、自らが自然と調和していると思い込み、自己満足ばかりを得ているのでは、釣り師自身がその活動の場を蝕むという結果にもなりかねない。
 私はC&Rを魚との一期一会としても捉えているので、自らの行うC&Rが直接的或いは間接的に魚の死に繋がる事は避けなければならないことであり、そうでなければ私の釣りは完結を見ることは無いのである。だからこそより確実なC&Rをするためにどうするべきか、日々己に問うているのである。
 現在C&Rは広く浸透しつつある。だがそれと同時に、「どうせ逃がすのだからいくら釣ってもいいだろう」的な数釣りの風潮も加速しつつあるのではないかと感じる。C&Rの意義やその効果を考えると、まだまだ十分な理解が為されていないのではないだろうか。私は今後もっとこれらに関して議論されてもよいのではないかと思う。

 「キャッチ&リリース」一口に言ってしまえば、釣った魚を還すという簡単なことである。しかしそれは非常に奥深い世界でもある。これらの行為を含めた「自主規制」こそが、我々が未来永劫にわたって釣りを楽しむために必要不可欠な要素ではないかと私は考えている。