2002年 7月12日
2008年12月25日
修正・加筆

「釣り界の主張」に、釣り人として反論する


 2000年8月1日、「財団法人 日本釣振興会(以下、日釣振) ブラックバス等対策検討委員会」が、マス・メディアなどによって報じられているブラックバス害魚論を、一方的なものとして全国のマス・メディアに向けた意見書を送付した。

 当時この意見書の要約が日釣振をはじめ、釣り関連の雑誌、書籍を取り扱う出版社や、釣り具メーカーなどのホームページ内に、「ブラックバス害魚論に対する釣り界の主張」などと題して掲載されていた。

 私自身釣り人のひとりとしてこの主張をみたとき、残念ながらその内容にはとうてい賛同できるものではなかった。そこで私なりに、これに対する反論をしたい。


─────────以下、青太字部分が反論─────────


ブラックバス害魚論に対する釣り界の主張

 まずはじめに、私自身釣り人であり「釣り界」を構成する一員であると考えている。しかし私はこの主張の一切に関して、受け容れうる余地を持たない。私と同様に感じている釣り人は決して少なくないと思う。例えば全国内水面漁業共同組合連合会が2003年に実施したアンケートによると、76%と大多数の釣り人がブラックバスを対象にした釣りを「したことがない」とし、71%が「駆除すべき」と答えていることからもうかがえるだろう。

 また釣り人の中でもタナゴやクチボソ(モツゴ)など、いわゆる雑魚釣りなどを細々と楽しんできた釣り人にとっても、その対象魚の脅威となる魚の存在は到底受け容れがたく、こうした主張には耳を貸すことすら出来ないだろう。

 単に「釣り界の主張」としたならば、釣りをしない者にとってはあたかも全ての釣り人がこうした主張をしているとの印象を抱きかねない。上述したアンケートにあるとおり、この魚を欲さない多くの釣り人さえも内包するであろう「釣り界」という言葉を、こうした主張の場において安易には使って欲しくはない。



[密放流、不法放流という名の造語]

 「釣り業界や釣り団体が大量に密放流したブラックバスやブルーギルが全国に蔓延した」と報道されることが多い。しかし、その実態は試験研究用に全国各地移植されたものが“後始末”されずに生息域を拡大した比率のほうが高い。密放流、不法放流という言葉も害魚論者の造語で、1992年に水産庁が通達をだす以前のそれは単なる“移植”である。1992年以降、釣り業界も釣り団体も組織的な無許可放流は1度も実施したことがない。


 生息拡大の原因の比率について、何ら根拠があるわけではない。あるのならば示して欲しい。またその原因の多寡を問う必要性もなく、ブラックバスによる在来生態系にへの影響こそが問われるべき事柄であり、生息が拡大した原因の違いによって、この魚に対する対応が変わるものではない。

 規制される以前の放流を「単なる移植」と開き直っているが、1992年以前は組織的に放流していたことを認めているものと解釈してもよいのか。これについて私は次のように考えている。「違法ではないかもしれないが決して合法ではない」と。多くの会員を擁する団体として、法に抵触しなければ何をしても良いと考えているのならば、それ自体が大きな問題である。「密放流」や「不法放流」を造語というが、そもそも人間社会における言葉の意味を問うことに、ここではどれほどの意味があるというのだろうか。すべては自然本位で考えられるべきではないのか。

 どうしても「密放流」や「不法放流」という言葉に納得がいかないのなら「脱法放流」はどうか。この「脱法」という言葉は、現行法において禁止条項の定めのないドラッグを指して「脱法ドラッグ」と呼称されていたものの流用だが、こうした脱法行為が社会的に受け容れられるものであるのか、改めて考え直すべきである。

 さらに付け加えるならば、たびたび耳にするブラックバス擁護派の常套句「バスよりも開発などによる環境破壊こそ問題」という主張を考えたとき、「開発」という行為の多くは公的なものであり、何ら法に触れて行われたものではない。しかしながらそれに伴う自然破壊は、しばしば魚類の生息地や釣り場環境を脅かしてきたのではなかったか。仮に放流が合法であったとしても、その行為は開発などによる環境破壊と何ら変わるものではなく、こうした主張をする釣り人らにはそうした開発などを糾弾する資格が全くないとすら言える。


 1992年以降の放流について、仮に組織的な放流はなかったとしても、バス釣り人個人などによる放流はどうであったか。現実としてブラックバスは1992年以降も生息が拡大している。これらについて一部の心ないものとして、名もなき一般の釣り人に責任を転嫁するのだろうか。また業界人なども、釣り竿を持てばひとりの釣り人にすぎないことも忘れてはならない。

 仮にこうした移殖放流が一部の心ないものによる仕業だったとしても、まったくの無関係を装うのではあまりに無責任ではないのか。そもそもこうした行いの誘因として、いたずらにブームを祭り上げたブラックバス釣りの振興があったのではないか。今後は釣り振興のあり方も問われていくべきだろう。




[外来種が生息しやすい環境にした開発こそが在来種減少の原因]

 ブラックバスは魚食魚であるから食害がないとはいえないが、在来種の減少の主な原因は水生物植物を根絶やしにしたり水質を悪化させた護岸工事などの環境破壊である。


 これこそがブラックバス擁護派の常套手段「論点のすり替え」である。

 しかも「魚食魚であるから食害がないとはいえない」とその「害」について認めている。何に対する「害」を言いたいのかは説明不足でわからないが、ここでいう「食害」には問題はないのか。ブラックバスが「害魚」であることを認めた上で、いわゆる「害魚論」に対し何を不服としているのか。


 たしかに開発などによって悪化してしまった環境は問題である。が、外来種にも問題があることは、あらゆる調査・研究などから明白で、環境の悪化が外来種に対して何ら対応をとらないことへの理由とはなり得ない。

 問題とされているのは「ブラックバスによる影響」そのものであって、環境の悪化に対応することはまた別の問題であり、それぞれを比較の対象とするべきものではない。在来種減少の原因で、仮にバス以外の要因───つまり環境の悪化の方が影響が大きかったとしても、そのような環境下であればなおのこと、バスを排除する努力をするべきである。


 開発により「在来種が減少」したうえに「外来種が生息しやすい環境」のまま、「害」のある外来種を放置すればどのような事になるのか。バス擁護論の中には「環境が良ければ、バスと在来種は共存できる」といったものも見受けられるが、これは開発によって悪化した環境下での共存の可能性を否定したものではないのか。

 したがって、環境の悪化に加えて外来種という追い打ちで取り返しのつかないことになる前に、外来種を排除することが必要ということである。

 どちらが悪影響かなどを問うことよりも、まずはそれぞれについて的確な対応をすることが必要で、目指すべきは生物相も含めた環境の復元である。



[ブラックバスが在来種を食い尽くすことはない]

 「ブラックバスは在来種を食い尽くす恐ろしい魚である!」と吹聴して、いたずらに恐怖心を煽る害魚論者が多い。しかし、初めて日本にバスが移植されて75年になるが、在来種が絶滅してバスだけが生き残ったという湖沼の例はない。


 在来種の絶滅について、果たしてそうか。種としての絶滅はなくとも、水域毎に評価した場合ではどうか。ブラックバス以外に変化が認められなかったにもかかわらず、タナゴやモロコの類が消失したと報告されている水域も少なくない。

 日本にブラックバスが移植されて75年(2000年当時)が経過したが、その期間は生物史学的に考えるとほんの一瞬だろう。もっともっと長いスパンで考えた時、こうした移植によってどのような影響が出るのか、それはわからないというのが実際のところだろうし、そうした影響とは水体毎にそれぞれ違ったものになり、それらへの対応は非常に難しいものになるだろう。こういった不確定要素は排除することが原則として扱われるべきである。実際にバスの場合は多くの水面で顕著な悪影響が認められている。

 また「在来種が絶滅してバスだけが生き残ったという湖沼の例はない」というが、バスが在来種を食い尽くさない限り、そこには問題がないとでも言いたいのか。確かにブラックバスとて餌がなければ生きてはいけない。だが想像して欲しい───在来種の著しい減少は、それを捕食するブラックバスの減少も招き、その過程ではバスの共食いなども発生するだろう。そうした果てに───その湖沼はどうなっていくのだろうか。

 ブラックバスが全国に分布を拡大しつつあった昭和49年に発行された東京水産大学助手(当時)の水口憲哉氏の著書「釣りと魚の科学」(産報出版)には、バスの餌となるブルーギルを合わせて放養するアメリカでの例を紹介した上で、「(前略)そうでない場合に、うかつに他の湖沼に放流すると、そこの小魚を食いつくし、そしてラージマウス・バスも繁殖しないという結果も起こりかねない(後略)」という記述があり、当時から既に小魚を食いつくしバスも繁殖できなくなるという可能性が、専門家によって示唆されていた。

 「いたずらに恐怖心を煽る」と言うが、このような認識のもとで釣りやその活動の場である自然に関わるものが存在する事の方が、私にとっては余程の恐怖である。



[公認バス釣り場造成のための100万人署名運動]

 今回提出された意見書では触れられていないが、漁業権対象魚種としての認可を受け、堂々と釣りができる公認バス釣り場を造るための署名運動を全国規模で展開していく。目標は100万人で、全国の都道府県知事宛に請願する。


 「全国の都府県知事に請願」とあるが、北海道まで視野に入っている事が驚きである。北海道には一般的にブラックバスの釣り場となりうるフィールドはなく、そうした場所にまで新たに釣り場を造成する必要があるのだろうか。そしてそれは北海道民から歓迎されるものなのだろうか。甚だ疑問に感じる。

 
この運動に関しては、別稿にてさらに考えてみたい。(→100万人署名運動について




[ブラックバスの有用な利用法の実践]

 今後、漁業権対象魚種として認められた免許水域と非免許水域に区分し(ゾーニング)、バスを有効に利用する。観光資源として釣りのみでなく、食用としても活用し、地域振興に役立てる。


 免許水域と非免許水域、つまりブラックバスが居ても良い場所と居ては行けない場所をそれぞれどのように区分するつもりなのか。もし既生息水域こそが免許水域になるとする考えならば、当然受け容れがたい提案である。なぜならそれでは現状を維持することと変わりがなく、バスが生息しているという既成事実さえあれば免許されるかのような印象を与え、入れた者勝ちの風潮を蔓延させるだけである。現状維持では何ら解決には至らない。

 
また居てはならないとされる水域───すなわち非免許水域からの根絶は必須である。あってはならないことだが、もしゾーニングを実施した後に非免許水域にてバスが確認された場合、そこからバスを一掃できないとすればゾーニングそのものがまったく意味を為さない。つまり根絶が出来ないのであれば、ゾーニングは不可能ということだ。

 これまでもブラックバス擁護派が主張してきた「根絶は無理だから、有効利用をした方が良い」を考えたとき、根絶について自ら不可能と認めている訳だから、ゾーニングについてはその実現の可能性はまったくないと言える。それとも───琵琶湖や霞ヶ浦などのような巨大な湖から、ブラックバスを一掃するための良案を提示してくれるとでもいうのだろうか。

 また食用と言うが、そもそも釣り上げた釣り人自身が食べないような魚である。うまく調理すれば大変美味な魚であるようだが、バス釣り人のほとんどがキャッチ&リリースを信条としているし、滋賀県の琵琶湖では、2003年4月にリリース(再放流)の禁止を含めた「琵琶湖のレジャー利用の適正化に関する条例」が施行され、これを不服としたバスプロでもあるタレントが訴訟を起こしたほどである。

 このほかブラックバスの生息地周辺の食堂などで食材として利用するという意味合いもあるのだろうが、この魚の釣りとそれを取り巻くあらゆる状況を考えた時、釣り以外の利用価値を見出すことで、より以上の需要拡大を図るねらいもあるのではないか。

 地域振興とあるのは、ブラックバスを導入し釣り場を造成することで多くの釣り人が訪れること、それによる「経済効果」が期待できることなどを謳い文句にちらつかせ、財政の厳しい地方などにアピールするねらいもあるのだろう。しかしバスを新たに移植させ、そこで行われる経済活動は、文字どおり自然を切り売りし、喰いものにする行為に他ならない。

 「環境破壊に対する批判」や「地域振興」など、今の時代背景を考えた時になかなか反論しづらい側面もある。それらを巧みに利用し、ブラックバスを擁護する発言を繰り返す───だがしかし、例えば「地域振興」やそれに伴う「経済効果」などは人間側の都合のみに終始しており、自然に対する配慮はまったく感じられない。

 またブラックバスは環境破壊のスケープゴートだと主張する擁護論者の意見もしばしば耳にするが、私はその逆を問いたい。環境破壊こそがブラックバスのスケープゴートとなってはいないか。悪化してしまった環境は、ブラックバスの存在を正当化させるために必要なファクターだったのではないか。

 もしそうであるとしたならば、彼らは環境を悪化させた開発などを批判しつつ、そのかたわらではそれを利用しているということではないか。自分たちが釣りたい特定の魚、それもそもそも日本には存在していなかった魚の正当性を主張するために「環境破壊」を利用し、それを盾にブラックバスを擁護する発言を繰り返す彼らは、悪化した環境の改善、失われた環境の復元を本当は望んでいないのではないか。

 釣りという行為の活動の場───すなわち釣り場は自然である。自然がなければこの行為は成立しない。「釣り人は河川湖沼の番人」である、とする人がいるが、果たしてそうか。その「番人」が在来の自然に深刻なダメージを与えかねない存在に寛容であるのはいったいなぜか。

 社会的な合意やその存在によって環境に与えるであろう影響についての評価も得ぬまま、何ら必然性を伴わず、いつの間にか全国に生息しているブラックバス。その上に成り立つバス釣りによって、様々なカタチで恩恵に与る者達によるこれらの主張は、どこから斬っても矛盾で満ち溢れており、とうてい受け容れがたく理解に苦しい。

─────────ここまで─────────

 現在、この主張については削除されており、閲覧することはできない。

 この主張は自然が活動の場となる「釣り」の世界から発せられたものとなっているようだが、そこからは自然への配慮を何ら感じることができなかった。私自身釣り人のひとりとして、非常に残念でならない。

 法の解釈などをめぐってのバス移植の正当性などを問うことは、自然にとっては何ら意味のないものだ。こうした規制などは、あくまでも人間社会の秩序を守るために定められたものである。開発によって環境が破壊され、外来種が生息しやすくなったかもしれないが、それがバスが居ても良い理由にはならない。署名運動は行政などの意思決定に影響を与えることができるかもしれないが、それはバスを利用したい者たちのための運動であって、自然環境を良くするための運動ではない。

 「観光資源」や「地域振興」などといった言葉も並べているが、そこから生み出される経済効果を期待させようとし、自ら期待してはいないか。バス釣り関連市場は、ピーク時には1,000億円超と伝えられた。高価な釣り道具やボートが飛ぶように売れ、全国の書店ではバス釣りを扱う雑誌や書籍がところ狭しと並べられ、バス釣り場には多くの釣り人が押し寄せた。こうした状況はバス釣り関連業界にとって、まさしくバブル的景気だったであろう。

 メディアに向けた意見書を送付した日釣振には、法人会員として多くの釣り関連企業が名を連ねており、業界色の強い団体であるとも言える。バス釣りが彼らにもたらしたものは、ブームによる巨大市場の形成に伴った莫大な利潤だったのではないか。その儲けがいかに大きいものだったのかは、彼ら自身によって発表された「1,000億円」という数字になって具体的にされている。すなわち日釣振やバス釣り関連企業のホームページなどを中心に発表されていたこの「主張」は、バス釣りによるマーケットを維持し、より大きな利潤を期待する「バス釣り業界」のためのものであり、「『バス釣り業界』の主張」だったといって差し支えないだろう。

 将来的にもそうした利潤を求め続けたいバス釣り業界の主張は、バスを釣るという恩恵を享受したい釣り人によっても強く支持され、業界がこれまで得てきた利潤もまた、そうした釣り人らによってもたらされているのである。

 バス釣りはまさに「ブーム」であった。この主張が発表された当時もまさにその真っ直中であったと言っていい。だがこうしたブームは、様々な流行がやはりそうであったように、いつか必ず衰退し、終焉を迎える。もちろんそうしたブームの上に成り立っていた経済も同様である。果たして───バス釣りブームの去った日本の河川湖沼には、いったい何が残るのであろうか。

 さて、日釣振らが「一方的」だとする(マス・メディアなどによって報じられた)「ブラックバス害魚論」とはいったいどのようなものだったのか、私は知らない。だがしかし、経済的側面から見た利害にとらわれることなく、より自然に近いところに立っているのは他ならぬ「釣り人」であったと思うし、物言わぬ自然を代弁するような意見は釣り人の側からこそ発せられて良かったのではないか、と私は考えている。だがこの主張は、そこからあまりに大きくかけ離れているように思う。

 この主張は───「その魚を釣ることの魅力から享楽におぼれ、自然への畏敬の念を忘れ、自然を蝕みながら今後もバス釣りを続けていく」───「釣り人」が自然から遠い存在となってしまったことを、自ら宣伝しただけであるように感じられてならない。