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秋 の 章

     序

秋立つ風は吉備路にむかへぬ。見渡すかぎりの秋の田の波打つ稲穂に心洗はれ、入日さす吉備の中山をあふぎつつ思へらく、日々暮らすは晴耕雨読こそあらまほしけれ。日の下にて身体動かし、日暮れて田を臨む一室にて一杯(ひとつき)のBEERなどかたむけ、つれづれなる思ひを書付くる、夜ともなれば、はやうに寝つくこそよからめ。かく思ひつつ東に戻りて、夜も更けゆくばかりに書付るは、ものぐるほしきことどもとなむ。

  長々し夜に  第一
このごろの夜は、まほろばがり、あるは日だまりカフェなるけいじばんがりゆきて書き込みしたれば、投稿ボタンを押すにほぼ時間差で知人の書き込みあり。しばしば追いかるがごときさまにて、いとをかし。東京、神奈川、群馬ときには熊本、岡山まで離れつつ、ひとつ時をおなじうして、みなみなパソコンの前にて同じやうなることをしてむと思へば、ひとり食卓の上のパソコンにむかひながらも、大勢の中にある心地なむしつる。(2003,8,20)

  長々し夜に思ふこと 第二
東京名物高円寺阿波踊りの喧騒もをさまりて、はや九月になりぬ。日の高きころほひは暑くしあれど、風は秋の気配をぞ含みて、夜ともなれば、開けはなちたる窓より夜風のあはれなれば、灯火を消して窓辺にたたづみ、いろいろ思ひ起こすうちに、学生時代のことなど思ひ出さるるは、各所の掲示板などめぐる中にそのころを思わしむる言の葉を見るゆゑにあらむ。とくにこの長き休みのをりは、高座に登ることもあまたなければ、己の位置を見失いてあるにや。(2003,9,1)

  いささかなることありて 第三
いささかなることありて、近くの小学校がりゆくに9月1日なれば防災の日とて児童引取り訓練などしてあり。ときに校長訓話はじまりて聴きをるに校長曰く「……校長先生の母親がまだ小学生のとき関東大震災に云々…」となむ。いと心おちつかずて、その所以を問ふに「校長先生の母親」てふ一言こそまさなかるらめ。こは「私の母」とぞ言ふべき。意味は同じやうなれど、単に「母」と言ふは子より親を直に云ふ言なれば、自づと親と子との心の絆ぞ見ゆる。そを「校長先生の母親」となむ云ふは、第三者的視点で自らを呼ぶものいひにて、つきはなすがごときものいひになりたるゆゑ、心おちつかずありけむ。これは物書きの云ひやうにて、物教ふる者の云ふべきやうにはあらず。つきはなしたるものいひなれば、校長先生のお話を聴く児童ども、そのものいひに慣るれば、肉親の遠き近きを見失なひぬべし。「駅員さん」「店長さん」と同じところで「母親」といひてありなむ。まいて己を「校長先生」と呼ぶは自らをも遠ざくるものいひなり。かつて流行りし「私って〜な人だから」てふ言ひ方に似たる。わろき言葉のためしにぞある。(2003,9,1)

  旋頭歌一首 第四
 惟光発明日香時之歌一首
飛ぶ鳥の 明日香の里に 旅だつ吾ぞ 飲む水に 来る影待たむ 東なる妹〔一云東なる君〕(2003,9,1)

  承前 第五
歌を残してふるさとがり行く間にりあのよこせし歌
  風が吹く 秋のニオイ 少し、する。 六條の主 あすかは如何か
かへし
  飛鳥路を 過ぎ行く風に いでにける 秋の気配は かそけくありし〔一云 明日香路の 稲穂波立て 吹く風に 亦云 風にゆらえて 穂に出づる〕(2003,9,1)

  長歌一首 第六
  六條院之民、遊於故京之時、惟光作歌一首并短歌
青丹よし 奈良の宮 飛ぶ鳥の 明日香の里に 来しわれ等 六條の民
炎天の 日に照らされて 灼熱の 野辺を行けども
それが手を あひたづさへ やさしさを あひかたらひ
かずかずの 苦しみをさへ もろともに こえ行きしかば
人の道の 行きの長手 行く道の 末のはしばし
いかやうに 山高くとも いかさまに 川広くとも
越ゆること 難くはあらじと 信じてゆかむ 時ともにすれば
  反 歌
この道の 行きの長手に 行くすべを 学びてぞある 六條の民
  日溜君〔或云茶夢〕和歌一首
旅行かむ 荒波高き 憂き世行け かなはぬ潮に 今は漕ぎ出でな(2003,9,5)

  夜風 第七
暑しといへども夜ともなれば風は秋の気配にて、窓をあけつつ寝床に臥したれば、夜風そよぎて頬を撫づる、いとここちよし。この風はいにしへの方より吹くにや、吹かるるままにくさぐさの思ひ出ぞ沸く。めぐりあひまた別れこし人々の面影の夢とうつつの間にたちあらはれまたきえゆく中、まどろみ、やがて深く寝入りたり。(2003,9,18)

  芝居話(4) 第八
いつものこととて松緑爺がり行きて九月の歌舞伎座の話を聴くに、爺云はく、「こたびの夜の部は『身替座禅』こそよけれ。「俊寛」は常のごとくして、播磨屋(此は二代目中村吉右衛門を云ふ)の芝居、申すべきことなくよき仕儀にぞある。瀬尾(此は悪役なり)の天王寺屋(此は中村富十郎を云ふ)、丹左衛門(此は善玉なり)の神谷町(此は成駒屋、中村芝翫丈ぞ)と三人並ぶは見事にて、かの歌舞伎座の舞台も狭く見ゆるは目やすきことなり。爺は俊寛てふ役柄をわりなく思ゆれば嫌へど、最後の一人になりての後の播磨屋の芝居こそすさまじけれ。なほ最も印象に残りしは萬屋の歌昇(中村歌昇ぞ)にてありけり。芝居いとどよろしきに惜しむらくは流人の有様ならね、いまにも師直がり討ち入りせむ気配にてあることこそ惜しかりけり。『身替座禅』も歌昇よろしく、富十郎の右京(こは主役の名なり)の色気の愛嬌、また吉右衛門の山の神(こは主役の奥方なり)の深情けぶりなど、役者も楽しみつつある風にて楽しめり。「無限の鐘」はつまらなく、ただ福助の一人芝居を見るべきものにあるばかりなり。悪うはなし。」といふ。(2003,9,26)

  わづらはしきことつもりて 第九
わづらはしきことつもりて、からだもつかれ幽鬼のごとくありけれど、こころやすきものどもとうたげはべれば気も散じてもとのごとくなりにけり。このごろしつべきことどもあまたありて、おのもおのもおきてあれども、心は一つ身も一つ、ひとつどころにかかずらひをれば、他のことども気にかかりてなやましげなるに、よからぬ話もおこりて、こころやすからず、精魂尽き果てぬ。さればなつかしきものどもの、酒たうぶべし、いざたまへなんどと呼ばふるもうつうつとしてありしかども、ゆきて姫百合の咲ける花園に杯を重ねこころやすく語らひをれば、帰るみちどりの足軽かるは不思議なり。(2003,10,16)

  北山 第十
心にやまふことどもは散じたれど、この六日のうちに人の前にて話すべきことの重なりたれば、身を尽くして、心気も枯るる思ひにぞ。さればさすらひのハーモニカ吹き今宿る廬こそ北山になむあなれ。その音を聞けば元気黄泉路よりもどるとなむ人びといふてふ人あれば、とぶらはむと夕暮れにものしつ。晩秋の風に朱に染まりたる空、大山にかかりて、かへりみすれば六條院もとほくやまにかくれつつ、かちにて北山をめざすほどに、宿場にてかのもの下り来たれば、小柴垣の中にて一献かたむけつつ笛の音をこへば、こころやすう吹きたまひて、たましづまりたり。(2003,10,26)

  依興作歌一首 第十一
  上州娘子来于湘南時、惟光教其道歌
上野ゆ 伊香保の風を 背に受けて 出でし我妹子
彩の 埼玉を過ぎ サンシャイン 池袋を過ぎ
内藤の 新宿に出で 小田急に 乗らむとせば
はやくより 立ち並びをり 車つく ドアが開けば
わが席は ここやいづくと 人を押し 先を競ひて
いささかも 迷うことなく 座りてぞをれ 
なる金の 世田谷を見て 多摩川を はやすぐ渡り
いつしかと 眠りにおちて 町田とも 海老名も知らず
川渡る 音におどろき ながむれば 相模川にぞ
本厚木 愛甲を過ぎ 大学はまだかと問へば
大山の その山の口 伊勢原は ここと聞こゆ
伊勢原は 病院なれば 大学はまだ 先なるぞ
車窓より 外ながむれば もみちばは 色づきををり
秋の田はかりほたたずむ
右手(めて)には 大山迫る
左手(ゆんで)には 湘南の丘
とりどりの 建物を立て 東海の 大学にぞある
はるばると 来ぬる道のり 我妹おつかれ
  反 歌
腰痛み 来ぬる相模路 色見えず ただこれ見つと言ふばかりにや(2003,10,30)

  依興作恋歌一首 第十二
  六條院惟光之依興作恋歌一首
あかねさす紫の花野辺に咲く いざ手折りてむ 吾妹恋ひゆれば(2003,10,31)

  狂言風戯作(試作) 第十二
「これは六條のわたりにすまゐいたす者でござる。されば都にて大きな祭りあると聞こゆるほどに、日ごろ文などつかはす女どもに見物せぬかと誘ひをれば、嬉しや、来るとこそ返事よこしたれ。やいやい日だまりの君やある。「はあ〜、お前に。「こたびの祭りを見に、ちと知りあひたる者の来るほどに、万事よろしくつかはすがよい。「なうなう、たのうだお方。かの祭り見物にはみづからをも案内してくれうとのことではござりませなんだか。「わかりをる、わかりをる。客どもの帰りてののちに案内申すほどに、ここはまづ、おもてなしするがよからう。「さてさて憎きことにてはべる。たのうだお方と申すは浮はついたる心はべれば、みめよき女にすぐ文おくると都童の口さがなう申すに、つつしみなう呼ぶとおおせらるる。さてなんとしよ。「案内申さう。「これは、いづくの方にてはべる。「これは北山院につかうる女房にてはべる。「なんと早くもきたわ。「申し申したのうだお方、北山院の女房なるお方の参りはべる。「来やったか来やったか。まづはお通し申せ。「なかなか。「これはこれはよう参られた。こちへ参られい。「なんとはらだちや。たのうだお方のあの様よ。「申し申し。案内申そう。「また誰かきやる。なかなか「これは五条の姫宮につかふる女房にてはべる。「しばし御待ちさふらへ。なうなうたのうだお方、たのうだお方。「何事ぢゃ。「次は五でうの宮の女房のまかりこしてはべる。「何と。五でうのとな。サテ、何としよ。書院には北山院の女房がをるに。されば、北山院の女房もかつて五でうにさぶらひしかば、話し相手とさせるがよかろ。これはこれは五でうの女房よう参られた。今北山院の女房の尋ねてきてをれば、五でうのことども語らひさうらへ。「さてさて面白うてはべる。たのうだお方のあはてをるは。日ごろうはつきてあなたこなたに文まきちらすによってかやうなことになるぞかし。「案内申さう。「さてまた誰か来たるは。なかなか。「これは上野国より参りたる者にてはべる。「これはこれはよう参られました。たのうだお方はお待ち申してござりますれば、中にお通りくださりませ。申し申し、たのうだお方。上野国より女房殿、参られてはべるぞ。「やや。何としよ。かう一度に参られては−−−−

     (故有已下略之)

「やるまいぞやるまいぞ。

(注)右は、11月1日に校務と雑務と来客と重なりて忙しきさまを色模様にうつして作れる戯作なり。登場人物なども架空の設定に直してあれば、心して読むべし。略せるところはおのもおのも想像して楽しむべし。(2003,11,2)

  このところ 第十三
このところ硬きことどもを綴りをれば、頭ことかたまりて煮つまるゆゑ、創作を試みぬ。されどさすがに狂言はよからず。仕込み悪し。まして中世語、また女房語なども未熟なれば、なほ精進すべきことなり。歌は万葉の原稿を書くに用例を見る中にわきいづるものにて、書き留めたり。よく見る歌語歌句を連ぬれば歌らしく見ゆるほどに不思議なり。(2003,11,4)

  挽歌 第十四
心にかかることのまたおこれば気もふさぎてはらふくるる。かかるときには気安き友に語らふがよきとは思へど、気にかかることどものわけありに語るべき友もなし。かれはあれはと指折り数ふれども、心の内はえ語らへぬ者ばかりなり。これまで人にめぐりあへる、いとよろしきに、かくなるはなにゆゑぞと思へば、語るべき友、既にこの世になきと覚えたり。かの逝きしは、平成七年正月のことなればすでに八年あまりぞ経にける。内村鑑三の教へを受くる無教会派の徒にあれば主のみもとに旅立ちたり。されば六道をめぐるこの身とは永劫まみゆることもなし。かれを思へば逝きしとき枯るる涙今また蘇る。
   偲亡友挽歌一首
 国立の 丘に咲きたる 桐の花 ともにあふぎて
 六年を すごしつる友 むつびあふ われら四人
 昼はしも 学舎に語り 夜はしも 茶店にぞいこふ
 悩みあれば ともに悩み 喜べば ともに笑ひて
 かくのごと ともにあらむと 末々も ともにあらむと
 思へども 限りしあれば 鳳の 雛の家より 巣だつわれらぞ
 かんしょとる 札幌には 胸ひろき 委員長をり
 たづくりの 多摩の野には 数はかる 会計長をり
 さねさし さがむの尾根には 舌まわる 広報長をり
 サンシャイン 池袋には 心やさしき 書記長の君
 おのおのの 道を歩めど 六年の ともにせし間
 言なくも 心は通じ 目かはすに 言も通ぜば
 ひとりあれど さびしくもなく それぞれの 歩まむ道も
 いかやうに 山高くとも いかさまに 川広くとも
 越ゆること 難くはあらじと 思ひこし 生きて来れど
 いかさまに 思ひてあるか
 人の和を つねには説き 集へれば 心をまとむ
 ゴスペルの レコード聴いては 歌声に 涙を流す
 ソウルフル 書記長の君 千早振る 神に召されぬ
 残されし われら仲間は 送りても 心は通へど
 君なくて 集ひもせずに おのおのの 道を歩める
 その道の けはしき隈に かへりみて 君を探せど
 そのかたち 里にはあらず その声も 風には乗らず
 ただそこに あるは沈黙 ただそればかり
    反 歌
 甘えとは知りつつあれど 君がことのは ただ待ちこふる
委員長も行方知れずとなりにけり…会計長は語らふべき者にあらず(こは人柄ならず。その環境ゆゑ也)。(2003,11,5)