第九話   美しいもの


 空気が引き裂かれて生じた風で、体が晒されるのを感じたが、その後のことは、よく分からなかった。
 一瞬で死ぬとはこういうことかと納得しかけた時、別のどこかで何かがぶつかり合う音がして、ほんのわずか、しんとした時間が流れた。
 その後割れんばかりの歓声が上がるのを聞いて、アルはゆっくりと目を開いた。
 そこでアルが目にしたものは、意外にも兄王子ソールの猛々しい背中だった。
 ソールが巨人の前に立ちふさがり、自慢の武器である槌で、巨人の鋼の拳を軽々と受け止めていたのだ! まるでアルをかばうかのように!
 巨人の拳をなぎ払ったソールは、すかさず巨人の腕を踏み台に空高く跳躍し、はるか頭上から、槌を勢いよく振り下ろした。ソールの槌が巨人の頭にめり込むと同時、耳をつんざく雷鳴が轟き、稲妻が巨人を貫いた。ビリビリとした振動が余波となって伝わってきた。
 突然の稲光に目の前が真っ白になり、視力が回復した時には、巨人が低い呻き声を上げ、もんどりうって倒れるところだった。森の上に四肢を広げて倒れた巨人は、頭蓋を粉々に砕かれ絶命していた。
 圧巻だった。アルは全身鳥肌立つのを感じた。
 男達もまた、ソールの勇姿を目の当たりにし、感嘆の溜息を漏らした。
 次々とソールを褒め称える歓声が上がる中、ソールは悠然とした姿でアルの前に降り立った。
「ソール……」
 アルはおずおずしながらソールの顔を見上げた。ソールはそんなアルを激しく睨みつけ、「バカ者!」と叱咤した。
「剣も持たず、持ったところでろくに扱えない奴が、巨人相手に何をしようというのだ。死ぬつもりだったのか?」
 雷を起こした余韻のためか、ソールの体は取り囲むような光を発していた。威厳を兼ね備えた輝きに目がくらんだ。無論、そんな姿のソールを見るのは初めてだった。まるで尊大な神を見ているようだと、アルは無意識に思っていた。
「死にたくなくば、おとなしく城に引っ込んでいろ」
 冷めた口調は、いつもと同じ。しかしアルの心に、以前のような兄に対する反感は湧いてこなかった。
 自分との違いを、こうまで見せ付けられたのだ。呆けたように立ち尽くす弟王子を一瞥し、ソールは不意にエルドの名を呼んだ。武装した男達の中からエルドが前に進み出てくると、アルはようやく我に返り、見慣れたエルドの顔に、ぼんやりとした視線を向けた。
「早くこいつを連れて城へ戻れ。」
 言い捨てるようにソールはエルドに命令した。エルドはソールに敬礼してから、アルの腕を取った。
 逆らう気も失せ果てたアルは、無言のままエルドの引かれるがままに従い、二人は足早に戦場を後にした。


 気味が悪いくらい素直についてくるアルを見れば、彼がひどく落ち込んでいることが分かった。
 聞きたいことは山ほどあったが、アルの様変わりした顔を見ると、口にすることは、はばかられた。
「いつもは突き放しておられるけど、ソール様はアルのことを大切に思ってくれていたのだな。」
 励ますつもりで、エルドは陽気すぎる声で言った。
「アルが巨人の前に飛び出していった時は、オレも焦ったけど、誰よりもソール様が血相を変えていたんだ。相変わらず言うことはきついけれど、あれが、ソール様なりの優しさなのかもしれないな。」
 おとなしくついてきたアルが突然立ち止まった。突っ張られてエルドも立ち止まり、アルを振り返った。
「どうかしたか?」
 優しすぎるエルドの口調が、かえってアルの気に障った。
「何も知らないくせに……」
 アルは微かな皮肉をこめて笑い、言い捨てた。
「ぼくには、邪魔をするなと聞こえたよ。」
 既にアルの心は歪んでしまっているのだ。心に負ったアルの傷の深さを測りかねて、エルドは困惑の表情を浮かべた。
「……何か、あったのか? マローの森で離れ離れになった後のこと、オレに教えてくれよ。」
 あの日以来、アルのことがさっぱり分からなくなってしまった。誰よりもアルの理解者だと自負していたのに……。
 エルドはこの三日間ずっと後悔していた。あの時アルを見失わなければ、と。
 それぞれに想いを抱きながら、二人は思わず見つめあった。張り詰めた空気の中で、アルの迷いだけがエルドに伝わってきた。
「言ってくれなきゃ、何も分からない。なぁ、アル。オレたちの間に隠し事は無しにしようぜ。」
 何かに苦しんでいるアルを見るのは、実際辛かった。打ち明けることで、苦しみは分かち合えるものだとエルドは信じていた。
 どれくらいの間、二人はそうしていただろうか。エルドには身にこたえるほど長い時に感じた。
 だが、沈黙を破ってアルが言ったことは、エルドの期待するものではなかった。
「父王にお会いしたい。謁見の許可を取ってくれ。」
 そっけない口調で、アルはそれだけを言うと、あからさまに背を向けた。拒絶の意思表示だった。
「答えになってないぞ!」
 エルドはカッとなった。アルに追いすがると、肩を強くつかんで、無理やり振り向かせた。とっさにアルはエルドの手を振り払おうとし、二人は組み合う形となった。
 その時である。
《ekerilarforiyahateka:aaaaaaaaRRRnnn:bmuttt:alu………》
 唄ともつかない奇妙な声が、どこからともなく流れてきて、二人は動きを止めた。この不思議な響きの声の主を探して、二人は同時に天守を見上げた。天守のバルコニーに、フレイヤが立っていた。
《salusalu:ekerilarwigiponarhateka:aaaaaaaRRRnnn:bmuttt:alu/algizopila-wihailag:purisaz/ aaaaaaaaRRRnnn:bmuttt:alu》

 これは選ばれた巫女にのみ、口頭で伝承される古き呪文だ。フレイヤは天守のバルコニーに立って、この古き呪文を大空へ向けて唱えていた。何と言っているのか、アル達にはまるで聞き取れない、言葉でない言葉だった。
 フレイヤが呪文を唱えるごとに、辺りの澱んだ空気が浄化されていくのが分かった。重苦しい心が、軽くなっていくような、不思議な感じをアルは覚えていた。フレイヤの呪文は空気に溶けて、ソールに力を与えるのだろうか。ワルハラ城に結界を張り、巨人族から多くの人を助けるのだろうか。
 フレイヤはフレイヤで、自分のやるべきことを、しっかりとこなしている。だからこそ、あんなにも美しいのかもしれない。
『王子様を、この世で一番美しいものに変えてあげるよ』
 フレイヤの姿を見つめているうちに、突然脳裏によみがえってきた言葉に、アルはギクリとなった。
 アスガルドの荒廃や巨人族の襲来で、今の今まですっかり忘れていたが、キキ・ピコは最後にそう言って、アルに魔法をかけたのだった。
(この世で一番美しいもの……)
 アルは心の中で何度も言葉を繰り返した。あれはどういう意味だったのか。
 アルは再びフレイヤの姿を見上げた。上空を吹く風が、フレイヤの黄金の髪をなびかせている。
(一番美しいものって……、まさか!)
 ある事が脳裏をよぎった時、思わずアルはフレイヤから目をそらした。
 それからみるみる恐ろしくなってきて、アルはたまらずにその場を逃げ出した。
 どこをどう通って自分の部屋のある宮殿棟まで戻ってきたのか記憶にないまま、無我夢中で自分の部屋に駆け込むと、扉にカギまでかけた。乱暴に服を脱ぎ捨てながら部屋を大股で横切り、アルは姿見の前に立って、恐る恐る目を開けた。
 鏡に映し出された一糸まとわぬ自分の姿と対峙したアルは、呻き声を上げてその場に崩れ去った。
「なんてことだ……」
 鏡の中の自分は、まだはっきりとした異変は無いものの、以前の自分とは明らかに違う姿をしていた。成長期特有の枝のように骨ばっていた身体が、ほんのわずかだが丸みをおびているのが分かった。
 アルの体は、キキ・ピコによって女に変えられていたのである。その事実を確認して、アルは嘆きながら、何度も拳を床に打ちつけた。
 今ならまだ他人に気付かれることもないだろうが、日に日にハッキリとした形となって身体に現れてきたら、どうすればいいのか?
 隠すにしたって、限界がある。いや、隠し通せるとは思えない。アルは顔を上げた。
 血の気の失せたアルの顔は死人のように白くなっていた。
「キキ・ピコを探さなければ………」
 虚ろな目で暫し虚空を見つめたが、やがてカサカサに乾いた唇でうわごとのように呟くと、ふらりと立ち上がった。
 自分にどれだけの時間が残されているのかも分からないのに、塞ぎこんでなどいられない事実にアルは気付いたのだった。


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