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第十一話 はじまり 翌朝、夜も明けぬうち、アルはひっそりと長年慣れ親しんだ部屋に別れを告げた。 宮殿棟を出ると、静まり返った外の空気が肌に少し寒かった。 本来なら今の時間、東の空がうっすらと白みはじめる頃だが、黒灰色の雲が覆った空は、未だ闇から抜け出せずにいる。 要所要所に灯されたかがり火のオレンジ色が、闇の中で鮮やかに浮かび上がっていた。 人気のない側廊の壁に、かがり火を受けたアルの影が長く伸びる。 側廊を抜け、いくつかの中庭を横切って、アルは城塞門の前まで来た。 巨人族の襲来は、ほんの二日前の出来事だ。急ピッチで補修作業は行われているものの、崩れ去った見張り塔の屋根や壁など、巨人の残した爪あとはまだ生々しかった。 城壁の上には見張り兵の姿が絶えることはなく、ピリピリとした空気が漂っていた。これではさすがに城壁を乗り越えて外へ出るのは難しそうだった。 そんなことをしなくとも、七つの魔物を退治する王命を受けた今のアルなら、堂々と門を通ることは出来るのだが、大義名分の影に本当の目的を隠している後ろめたさから、アルは誰にも気付かれずに城を抜け出したかったのだ。 アルは城壁沿いを歩き、見張りが手薄な所を注意深く探してみた。 城を抜け出す時いつも使っている樫の木の傍には二人の見張りがついていた。 しかし直ぐ脇の壁には明かりもなく、闇に紛れればどうにか抜け出せそうな感じだった。 積まれた石レンガのちょっとした出っ張りや窪みに爪を立て、トカゲさながらに壁にへばりつきながら、アルは器用に城壁を乗り越えた。 「へへ、いつもながらチョロいチョロい。」 高々とした城壁を見上げながら、ぺロッと舌を出してみせた。 十四年間過ごしたワルハラ城は、アルにとって決して居心地の良いものではなかったかもしれない。 しかし、これで見納めかもしれないと思うと、どっと寂しさが押し寄せてきた。 大臣達の陰口、兄との確執、辛いことばかりと思っていたのに、アルの脳裏に思い浮かんでくるのは、不思議と楽しい想いばかりだった。やはり最後に父王と語り合えたのが良く影響しているのかもしれない。 「さて、行くか。」 ワルハラ城をさんざん目に焼き付けてから、アルは踵を返し歩き出した。しかし、数歩と行かぬうち、アルは突然息を飲んで立ち止まった。 暗闇の中、直ぐ前方に影を感じたのだ。 はじめの内は鹿か何かだろうと思っていたその影が、目が慣れるにつれてはっきりとしたものとなり、アルはすらっと背の高い若者の姿を見たのである。 「オレに黙って、一人で城を出るつもりだったのか。」 響きのある低い声で若者は言った。責めたてるような口調であった。 「……エルド」 一瞬あやかしを見たと思ったほど、そこにエルドが立っているのは不思議だった。 「どうして、ここにいるのさ。」 「ガゼル様を待ち伏せしたんだよ。謁見の間から出ていらっしゃったところを懲罰覚悟で呼び止めて、全てを聞いた。」 「父王を呼び止めたのか?」 大それたことをやったものだと、アルはあきれた顔でエルドを見返した。 「アルがワルハラ城を出て行くというのなら、オレもついていく。」 「どうして分かったんだ? 出発する日は、誰にも伝えていなかったはずだけど」 「何年お前と付き合ってると思ってるんだ。……と言いたいところだが、さすがのオレも今回に限ってはアルの考えることは予測不可能だった。マローの森で別れてからというもの、お前はさっぱり普通でなくなった。と言うか、アルは重大な何かを隠しているんだ。だからオレに対してもよそよそしくなった。……と考えれば、もしかしたら皆に黙って城を出て行くなんてことも有りかな、と思っただけのことだよ。」 エルドの見事な推理にアルは閉口した。遠からず心境を言い当てられて、なんだかエルドの手の平で転がされたような気分になった。 「アルの無謀なところが以前と変わってなくて良かったよ。みすみす一人で行かせてしまうところだった。だいたい世間知らずの子供が、一人で何をするつもりだったんだか」 エルドの口調はいつのまにか説教に変わっていた。 はじめの内は黙って聞いていたアルだが、次第にムッとなってエルドを睨みつけた。 「ぼくは父王から七つの魔物を退治する命令を戴いたんだ。以前のぼくと同じだと思ったら大間違いだぞ! それに」 「風の剣のソードマスターなんだろ。ガゼル様から聞いたよ。それはすごいことだと認める。けどな、いくら名のある剣を手に入れても使いこなせなければただの棒と同じなんだぜ。」 「そんなこと分かってる! 剣の腕は旅をしながら徐々に身に付けていくつもりさ。」 「誰にも教わらずにか?」 当たり前のことを指摘されて、アルはぐっと言葉に詰まった。ひるんだアルにエルドは容赦ない言葉を浴びせた。 「だからお前は子供なんだよ。」 くやしいが言い返すことは出来なかった。無謀なこと、誰よりも自分がそのことを理解していた。 「……だからって、エルドを連れて行くわけにはいかないよ。これはぼく一人が背負わなければならないことなんだ。これ以上誰も巻き込みたくないんだよ。特にエルドは、これまで数え切れないくらいの無理を言って振り回してきただろ。城を出てまでエルドを縛り付けるつもりはないよ。」 「縛り付ける……て、オレはそんな風に思ったことなどないぞ。」 「エルドは騎士になりたいのだろう。今ここで城を出たら、一生騎士にはなれないぞ。」 「オレはお前付きの従者だから、後々は騎士になろうと考えていただけだ。お前のいない城で騎士になって何の意味があるんだ。」 「フレイヤ付きの騎士になる……という道もある。」 突然フレイヤの名を出されて、エルドは困惑した。 「……なんでオレがフレイヤ様の」 「フレイヤのこと好きなんだろ。ぼく知ってるんだぜ。」 「バカ言うな。好きだからって、どうこうできる相手じゃないだろう。」 「幸か不幸かフレイヤは誰のものにもならないよ。アスガルドの偉大なる巫女だからね。一生傍で仕える価値はあるだろう。」 確かに、エルドはフレイヤに好意的な感情を抱いているかもしれない。 が、あくまでもそれは敬虔なものだ。アスガルドの民衆ならば当たり前のように抱くそれと、同じものだ。 そんなこと一々説明しなくても分かるものだろう。エルドは心の中でぼやいた。 「エルドもフレイヤに仕えた方が今までの何倍も幸せだろう。ぼくももっと早くに、そのことに気付けば良かったよ。そうしたら城を出る前にフレイヤに一言頼んでおけたから。」 「それは、オレのことを思って言っていることなのか?」 慎重にエルドは尋ねた。 「もしそうだというなら、アルはオレのことをバカにしているぞ。オレだって忠義心くらい持っている。好きとか嫌いとか、そんな浮ついた気持ちだけで、おいそれと主を変えられるか。いいか、この際だから言っておくが、オレはアル以外の人に仕える気はないからな。」 アルは思わずまじまじとエルドを見た。 エルドの言葉には揺るぎない意志があり、そこまで言われれば誰だって嬉しいはずだが、アルには逆に不思議でさえあった。 「なんでそうまでぼくの傍にいてくれるんだ? ぼくは忠義心を捧げられるほど立派な人間ではないのに」 「アイオロスに選ばれた奴の言う言葉とは思えないな。」 エルドはからかうように言って、アルを肘で小突いた。 エルドのその行為は、ぎすぎすした二人の間の空気を、少しばかり砕いてくれたようだった。 アルは思わず照れ笑いを浮かべてしまい、慌てて眉をしかめ表情を険しくした。 「ぼくはアルカーナへ下りるつもりだ。マローの封印から飛び出した七つの魔物は、アルカーナへ向かっていったそうだから。アルカーナは魔物の巣窟《そうくつ》だと聞いている。今まではアスガルドに支配され、数多《あまた》の魔物どももおとなしくしていたかもしれないが、これからはそうはいかないだろう。」 「それを聞いたら、ますます一人でなんか行かせられない。」 「もう、ここには戻って来られないかもしれない。エルドはそれでもいいの?」 「かまわないさ。」 すがすがしいほどきっぱりとエルドは即答した。 エルドの気持ちがそこまではっきりしているのなら、アルはエルドの希望を受け入れるべきなのだろうか。 正直なところ、エルドがついて来てくれるのは、アルにとって大変心強いことだ。 しかし、エルドを連れて行くとなると、キキ・ピコに呪いをかけられた身体を気付かれてしまう危険がある。 なにしろエルドは誰よりもアルのことを知り尽くしている。 隠し続けることが出来るのか、はっきり言って自信はなかった。 アルが女になってしまったことに気付き、この旅の本当の目的をエルドが知ったら…… 考えれば考えるほど、不安が絶え間なく押し寄せてきた。 それでも…… もしかしたら、と思ってしまう。 エルドなら、何があっても自分を見捨てないかもしれない、と。 エルドには常に自分の傍にいて欲しい。 そう願う自分が心にいるのだ。単なる甘えかもしれない。けれど、そんな自分を認めた時、アルはふっと心が軽くなるのを感じていた。 「どうなったって知らないからな」 念を押すように言うと、エルドは「くどいぞ」と言って笑った。 かくして神王ガゼルの三番目の王子は、風の剣を手に、一人の従者を従えて七つの魔物退治に出発したのである。 未知なるアルカーナへ―― |
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