|
第一話 ワルハラ城 オーディンの玉座はワルハラ城でも、とりわけ高い塔の天辺にあり、この玉座に上がれば全宇宙を見渡すことが出来るとされていた。 しかし玉座に上がった者には容赦ない天罰が下るとされ、誰もが畏れて近付かないこの場所に、アルは度々やって来ては、城下を見下ろすのが好きだった。 今日もよく晴れている。紺碧の空を受けて眼下に浮かぶ雲も薄く、全宇宙……というのはさすがに大げさだが、ビフロストの橋までは、いつでも良く見通すことが出来た。 ビフロストの橋とは神々の国(アスガルド)と下界(アルカーナ)とを結ぶ虹で出来た掛け橋の名称である。 この橋を渡れるのは、神の血を継ぐ者だけであり、今ではそれも王家の者だけとなっていた。 アルは神王ガゼルの三番目の王子。だから当然、その橋を渡ってアルカーナへ下りることは可能だった。 だがアルの興味は今は別の所にあった。 アルの視線の先には、ワルハラ城に一番近い町、シオンの森を越えたボナ・デア≠ェある。 ボナ・デア≠フ円形広場で狼煙《のろし》が上がっているのを確認したアルは、勢いよくオーディンの玉座を下りた。 螺旋状に長々と続く塔の階段を降りるのももどかしく、手摺をまたいで滑り降りるのは、いつものこと。オーディンの塔を飛び出したアルは、使用人達の詰所に直行した。 「エルド! エルドはいるか!!」 詰所のドアを開けるなりアルは大声で怒鳴った。そこにいた大勢の使用人達がドアの音に驚いて一斉にアルを振り返った。 「エルドなら、アル王子の所へ行くと言って宮殿棟の方へ行きましたけど。」 すぐさま一人の使用人が答える。 通常、王族の者なんぞが訪れるはずのないこの詰所に、アル王子が現れるのも、またいつものことであり、アル王子が慌《あわただ》しく詰所を出ていった後でも、使用人達は何事もなかったように仕事の準備に取り掛かるのである。 要塞と宮殿棟を繋ぐアーチ状の梁の連なる柱廊まで来たアルは、前方にエルドらしき後姿を見つけ、一際大きくエルドの名を叫んだ。 「エルド、出かけるぞ。早急に仕度しろ!!」 エルドはギョッとして後ろを振り返り、あやうく手にした二本の剣を落としそうになった。 「出かけるだって? 何言ってるんだ。これから剣の稽古を受ける予定だってのに。」 「そんなものサボりだ。そんなことよりウェルギールだよ。ボナ・デア≠ノ今、吟遊詩人の ウェルギールが来ているんだぞ! 剣の稽古なんかしてられるかっ」 「あのなぁ……」 エルドは柔らかい栗色の前髪をくしゃくしゃにかき乱して溜息をついた。 「舞踏や竪琴の稽古ならともかく、剣の稽古だけは受けておいた方が身のためだぞ。」 ただでさえ、と言いかけてエルドは口をつぐんだ。 アルの兄……つまり第一王子のソール、第二王子のフレイは、アスガルドの平和をおびやかす巨人や怪物を多数退治しており、民衆に英雄と称され、もてはやされている。 それに比べ第三王子のアルは、ぼんくら王子で有名だった。 アル付の小姓として城に上がり、常にアルの一番近いところで兄弟のように育ったエルドとしては、アルの良くない噂を耳にするのは快くないことだった。 そんなエルドの心痛を知りもしない当の本人は、 「早くしないとウェルギールの詩が終わってしまうよ」 などと言って、そわそわとしている。 「エルドはいつものように門兵を引きつけておけよ。ぼくはその隙に壁を乗り越えて外へ出るからさ。」 一方的に言うことだけ言って、アルは城を抜け出す身支度のため、そそくさと自分の部屋へ戻っていってしまった。 一人残されたエルドは暫くその場で渋っていたものの、結局は諦めて武器庫に取って返し、出してきたばかりの剣を元に戻した。 武器庫を出たエルドはアルの言い付け通り、気の乗らない足を城門へと向けた。 ワルハラ城の門は要塞門である。 堅牢な造りの門は高さ20メートルもあり、一定の間隔ごとに見張りの円塔が建てられ、外敵の侵入に備えられていた。 その門を抜け出そうというのだから、それこそ命がけだ。 アルに付き合わされエルドは何度この門の前で命をかけたことか、もう数えるのも嫌になった。 一方アルの方は、主要門から少し離れた場所の生い茂った樫の木の上にいる。 折れそうにない太い枝にロープを結びつけ、ぶら下がると、振り子のように体を揺すり、勢いがついたところで城壁に飛び移る。 それでもへりまではまだ相当距離があり、石の合間のほんの薄い窪みに爪を立て、垂直の壁を器用によじ登って行く。 こんな猿芸も今では朝飯前のお手のもの。 エルドが見張り塔に立つ門兵の気を引いていることを確認すると、一気に城壁を飛び降りた。 「へへ、チョロいチョロい。」 猿顔負けの軽やかな着地の後、アルはぺロッと舌を出し、衣服についた埃をはたきながら立ち上がった。 (後は上手くやれよ) 見張り塔にいるエルドに健闘を祈ってから、早くこの場を立ち去ろうと踵を返したアルは、次の瞬間ギクリとして足を止めた。 目の前に兄のソールが立っていたのだ。 嫌な奴に会ってしまった。 アルは舌打ちしたくなった。 鷹狩か何かの帰りなのだろう。ソールは肩に『オー』と名付けた鷹をとまらせ、獲物らしき野禽《やきん》を三羽腰にぶら下げていた。 従者を一人も引き連れていないのは、その必要がないからだ。 二十五歳になったソールは、ハンマーの一振りで巨人を倒してしまうほどの超人で、次期アスガルド神王《しんおう》の第一継承者として、申し分ない王子であった。 強さもさることながら、ソールが民衆に愛される理由はその容姿にもあった。 光を吸い込んだ川のような黄金の髪や、深い海を思わせる青の瞳、顔立ちは美しく気品にあふれ、立っているだけでまるで一枚の絵のようであった。 ソールは絶世の美女と謳《うた》われた前王妃の面影を良く引き継いでいるのだ。 しかしアルはソールが苦手だった。 宝石のように美しいソールの瞳も、アルから見ればただの冷たい氷にすぎない。 ソールは服の上からでも分かる強靭な胸を反り返らせてアルを冷たく見下すと、ゆっくりと口を開いた。 「……お前のすることに、とやかく口出しするつもりは毛頭ない。元よりお前は一族の面汚しだ。だが、父王の威光を地に落とすような真似をしたら、その時は私がお前をこの城から追い出す。そのつもりでいろ。」 静かだが、これ以上にない刺々しい言葉を吐き捨て、ソールはアルに背を向けた。 その背中はアルの全てを拒んでいた。例えば腰に下げた三羽の野禽、アルを見る時のソールの目は、狩られるそれを見る時と大して変わらないのだろう。 氷のような眼差しを向けられるのは、いつまでたっても耐えられるものではなかった。そのつど心にぽっかりと穴を空けられてしまう気がするのだ。 何も言い返すことが出来ない自分にも悔しくて、アルは無意識に唇を噛み締めていた。 アルに遅れること数十分、お使いと偽りワルハラ城を抜け出したエルドは、城壁の直ぐ傍で立ち尽くしているアルの姿を見つけ、ギョッとして駆け寄ってきた。 「まだこんな所に居たのか。人が苦労して門兵を引きつけておいたのに」 水の泡にする気か! と怒鳴りつけようとしたが、今は文句を言っている時ではないことを思い出して、慌ててアルの腕をつかんで近くの木陰に身を隠した。 それから見張り塔をそーっと見上げ、誰にも気付かれていないことを確認すると、ようやく胸を撫で下ろした。 「この、バカ!」 エルドは改めてアルを怒鳴りつけた。 「誰のために苦労してると思ってるんだ! だいたいオレは城を抜け出すことには反対なんだぞ。それなのにお前ときたら、事あるごとにオレに片棒を担がせて、いい加減嫌になるよ。オレだっていつまでも暇じゃないんだからさ。」 今まで言えなかったことをエルドはここぞとばかりに吐き出した。 「今はまだ士分の身だけど、いずれはオレだって騎士になるつもりなんだ。そのために色々と覚えなきゃならないことが山ほどあるし、これからは、そうそうお前のわがままに付き合っていられないぞ。」 アルは人なつっこい大きな目を見開いて、意外そうな顔をした。 「エルドは騎士になりたかったのか?」 「そういうことじゃない!!」 とぼけたアルの返答にエルドは顔を赤くして憤慨した。 「オレはお前の将来を心配しているんだよ!!」 「………何だよ、それ」 「だから、アルは将来アスガルド神王になるかもしれない一人だろう。その時のために教養やら知識やら政治やら歴史やら……それこそ立ち居振舞いまで、覚えなきゃいけないことはオレ以上にあるはずじゃないか。いつまでも子供じゃないんだぞ。」 いい機会だから、この際アルの根性を叩き直してやろうと意気込んだエルドだったが、最後まで話すことはできなかった。 「時間がない。行くぞ!」 ピシャリと言って、アルはエルドの言葉を遮ぎったからだ。 これ以上の説教は無用とばかりにアルはエルドに背を向け、とりつくしまもなく走り出した。 アルの後姿は、瞬く間に木立の合間へと消えていった。 エルドはやれやれと肩を落とし、「困った王子様だ」と呟いた。 どうせ行き先はボナ・デア≠セし、慌てて追いかけなくてもアルには直ぐに追いつける。 そう、これはいつものことだ、とエルドは軽く考えていた。 だからエルドは気が付かなかったのだ。話の途中からアルの表情が変わったことを。 |
| BACK / INDEX / NEXT HOME |