変 化
のあぁぁごぉぉぉ
からみつくような猫の声。
外では春のついた猫が、喉のひだをふるわせて鳴き声を拡散している。
近所に住み着いた猫のが、そうやって不特定多数の恋人候補へ向け、恋の呼びかけをはじめてから、まだほんの一日。ふと鳴き声のする方へ目をむければ、早速一匹の猫が名乗りを上げたようだ。
なあぁぁごぉぉぉーーーー
黒い猫と白い猫。
この妙な鳴き声はどちらのものなのか。ここからでは判別はできなかったが、白い猫が黒い猫に求愛をしているように見えた。
黒い猫は、はすむかいのお宅の敷地からアルミのフェンス越しに、道路で座り込む白い猫を、じ、と見下ろしている。まるで品定めをしているかのようだ。
猫の世界で男女逆転現象が起きていない限り、白いのがオスだろう。
いや、逆か。むしろ白い猫こそが黒い猫を品定めしているのかもしれない。なにしろ黒い猫は檻≠フ中にいるのだから。
どっちであれ、あの二匹は他のものが見えなくなるほど神経質に、男女のかけひきをくりひろげているのは確かだ。住人に見つかって水をかけられなければいいが。
「何見てんだ?」
僕の肩に手が置かれた。トウジさんの手だ。トウジさんは僕の返事は待たずに、僕が見ていた先に視線を向け「ああ」と言った。
「あの二匹には沸騰石が必要だな」
沸騰石。
熱を加えた液体が沸騰して容器から飛び出したり、突沸の衝撃で容器が割れるのを防ぐために入れられる石のことだ。理科の実験で、何度か使ったことがある。僕が使ったのは煉瓦を砕いたものだったが。
「なぜ?」
僕は疑問符を打った。
「放っておいたら、野良猫が増えるからに決まってるだろう。増えるのは困るが、駆除されるのは可哀想だ。聞くところによると、猫の交尾はメスがかなり痛い思いをするらしい。だからオスは、交尾が終わったら即刻メスから離れないと、痛い目にあうんだと」
「オスなんか引っ掻かれてしまえばいいんだ」
僕の物騒な物言いに、トウジさんの左の眉がぴくりとつりあがった。問いたげな雰囲気を感じて僕は自分の手の指に視線を落とした。
「男女の間に沸騰石を投じたら、女のひとは子どもを生まなくなるんじゃないかな。男と比べると、女のひとか背負うリスクが多すぎるもの」
トウジさんは一瞬考え込んだ。
「子育てのことを言ってるのか?」
「それもあるけど、妊娠すればお腹はふくらむし、出産のときは当然痛いだろう? テレビで一度、そのときの声を聞いたことあるけど、途中で怖くなったからチャンネルを変えてしまったよ。子猫を産んだ母猫ってさ、乳房もお腹の皮もたるたるで、今にも地面につきそうじゃないか。もしかして、ひとも同じなんじゃないの? そうだとしたら……気の毒だ。死ぬほど苦しんだ上に身体の状態も変わってしまうなんて、酷過ぎるよ。それなのに、女のひとは子どもを生むだろう。だからさ、もろもろの嫌なことを忘れさせる麻薬のようなものが、つまりは情熱なんじゃないか、って思ったんだ。だからそこに沸騰石を――」
トウジさんは突然、こらえていたものを吐き出すように笑い出した。それこそ突沸したかのように。
トウジさんはそのまましばらく笑いころげていた。なんだか馬鹿にされたようで不愉快な気分だったが、その笑いが僕の言葉の何に対するものなのか、トウジさんが説明してくれるのを静かに待った。
「おまえの言い方だと、子どもを生むことはこの世の拷問であるかのようなに聞こえるな。それじゃ、情熱が引いたあとで、女たちは膨らんだ自分のおなかを見て、絶望するのか? おまえは一つ大切なことを忘れている。いいか、女には母性というものが備わっているんだぞ。子どもができると価値観が変わるのさ」
「美しさは必要でなくなるってこと?」
「そうは言ってないさ。女は子どもを生むと変化するんだよ。妊娠すると、母性とかかわりのあるホルモンが多く分泌されることも証明されている。まあ、まれに変化があらわれないケースもあるだろうが」
付け足された言葉には何らかの含みがあったが、僕には意図するものが何か、分かりそうになかった。そもそも女のひとが子どもを生んで変化する云々の話も理解できていないのに。
ただ、目に見えて不公平なリスクに対して、それでもなお長きに渡り成り立っている営みそのものが、不思議でならなかった。
なぜ女のひとは、子どもを生むのか? 結婚して、相手側に強要されて生んでいるのではないかとさえ疑いたくなる。もしくは親に「孫の顔が見たい」と言われ、仕方なく―――
子猫を産み、自らの養分を吸い取られながら授乳させ、あらゆる危険から子猫を守るのは、すべて母猫の役割だ。
僕のまわりにいる女のひとは、鏡を見ることが大好きなひとたちばかりなのに。そんなひとたちが母親になるなんて考えられない。
子どもを生むことで180度変わってしまうような生活に耐えることなんて、彼女達に出来るのだろうか。
「難しく考えるな。自分の母親のことを考えてみろ。おまえのことを厭々育てていたのか?」
ああ、それなら少し、分かる気がする。
女のひとが母親になることは考えづらくても、自分の母にも若い時代があったということは分かる。
厳密に言うと、学生服を着て恋をしている母なんてものは想像できないのだが。でも、母が元から母だったはずもない。
僕の母は、物語で描かれる砂糖菓子のようなまなざしの母というわけではないが、それでも僕のことは大切に思ってくれているのは感じる。
その時、一際へんてこな猫の声が僕の思考に割って入ってきた。
黒い猫は、誘ってみたりつれなくしてみたりと、思わせぶりな態度をとり続けている。白い猫はますます切なそうに声をふるわせ、情けなくうろうろしていたが、不意にフェンス内に入るという大胆な行動にうつり、猫パンチを喰らっていた。
僕は思わず吹き出してしまい、馬鹿だなあ、とつぶやいた。
トウジさんも隣で同じように笑っていた。そんなトウジさんの横顔を見つめていたら、ふとトウジさんの彼女のことを思い出してしまった。たしか付き合ってから一年は経つ。
トウジさんとあのひとが結婚するなんてことはあるのだろうか?
まるで想像できないけど、それ以上に、僕自身がいずれ誰かを好きになり、結婚しようと思う日がくるなんて、考えただけでなんだかむず痒くなった。
でも、もしその時がきたら、そして自分に子どもが出来たとしたら、僕はその子に愛情をたっぷり注いであげようと思う。その子の母親以上にかわいがり、もちろん世話もまかせっきりになんかしない。子育てには積極的に参加するつもりだ。
そうすることで、女のひとのリスクを少しでも減らせてあげられたらいい。
でも、そう思うのは、もしかしたら僕がまだ子ども、だからなのかもしれない。
フェンスの外に追い出され妙な鳴き声を張り上げている白い猫に、僕は自分の将来を重ねてみた。
大人になると、男には何の変化が待っているのだろう。
了
あとがき
純粋で理想の高い男子(15歳くらい)と、知ったかする男(22歳くらい)の話です。
書き始めたのは去年。本当は『3-SS TrackBack Center』のお題「視線」「春」「沸騰」/しばり 「登場人物はふたり」/ジャンル「現代」 で書いたものだったんですが、規定の5枚以内に収まらず、放り投げていました(笑)
季節がめぐってまた春が来たので、掘り返してきて、加筆修正してみました。最終的には8.4枚(ノベルチェッカー調べ)になりました。