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悩める魔女思想
 


5  今夜も月がきれいだね



 「あれでよかったのかな。ぼく、分からなくなってきたよ。」
「いいのよ、あれで。」
「でも姉さんはそれでいいのかよ。タズトの奴、姉さんのことすっかり忘れちゃったんだぜ。」
 まだ6月もはじめだと言うのに、開け放たれた窓から入ってくる風は夏の気配を含んでいた。あたしの部屋の東向きの窓からは、夜空に浮かんだばかりの月がよく見えた。
 いつからそうしていたのだろう。
 あたしはもうずっと長い間、暗くなったことにも気付かずに、窓の桟にひじをついて月を眺めていた。
 そこへウイが入ってきて、「電気もつけないで、気味悪いなあ」と憎まれ口を叩きながら部屋の電気をつけた。
 タズトにホレ薬を飲ませてしまったあたしを激しく罵倒したウイも、今ではあたしに同情すらして優しく接してくる。
 あたしはなんだか複雑な気持ちでウイをチラッと見ただけで、再び月に視線を戻した。
 あれから一週間が経っていた。
 あの後――
 あたしはタズトに解毒剤を飲ませた。けれどもタズトには解毒剤は効かなかった。
 元々あたしを好きだったために、ホレ薬は本来の働きをせずに増幅作用を引き起こしてしまったらしい。元の心と、ホレ薬を飲んだ後の心とのハッキリとした境界線が存在しないために、解毒剤そのものが意味を持たなかったわけだ。
 だからあたしはタズトの心の中から、あたしの記憶を消すことにした。
「姉さんの記憶を消したのは、タズトにしてみれば酷《こく》だったよな。」
「そういう気持ちも含めて消したんだから、つらいことはないわよ。」
「それは、そうなんだけど……」
 ウイの言葉はどれも歯切れが悪く、そのつど「でもなぁ」と折り返してくる。
「ぼく、姉さんがタズトにホレ薬を飲ませたって知った時は頭にカアーッと血が上っちまって、姉さんのこと殴らずにはいられなかったけど、タズト自身はどうだったのかなーって今になって考えるんだ。ホレ薬を飲ませたってことは、姉さんも少なからずタズトに好意を持っていたわけだろう。そうだとしたら、あれはあれでタズトにとっては幸せだったのかな、てさ。」
「ウイは間違ったこと一つも言ってなかったわよ。あの時ウイは、ホレ薬を飲ませたらタズトの気持ちが嘘になる、て言ったよね。あたしもそう思った。でも、そんなことはどうでもよかったのよ。あたしはただ、元のタズトに戻ってほしかったの。だから記憶を消したのよ。」
 あたしがきっぱりと言い切ると、ウイもようやく納得したのか「そうか――」と溜息混じりに小さく呟いた。
 記憶を消すためにタズトを家に呼び出したあたしは、魔法円の中にタズトを立たせ、ラバンサラとラベンダーで作った睡眠を誘発する薬の匂いを嗅がせようとした。その時になって、妙な雰囲気を感じ取ったタズトは急に抵抗をしはじめた。
「何をするつもり?」
 当然のことを訊ねてきたタズトに、あたしは本当のことを正直に答えてあげた。
「なぜ俺の記憶を消そうとするの?」
「今のタズトはホレ薬に操られているからよ。」
「ホレ薬? 何の話してるの?」
 タズトは眉を寄せ、いぶかしむようにあたしを見つめた。
「昨日あたしはタズトににホレ薬を飲ませちゃったの。それでタズトはあたしを好きだって錯覚してるのよ。」
「錯覚だって? 俺はずっと前からキルさんのことが好きだったよ。」
「以前のタズトなら、そんなにストレートに感情を吐露《とろ》したりはしなかったはずよ。」
「そんなこと……」
 タズトは何かを言いかけて、ふっと言葉を飲んだ。思い当たるふしでもあったのだろう。
「あたしには逆らえないような気がするんじゃないの? それがホレ薬の恐ろしい作用なの。今のタズトはあたしの言いなりなの。あたしが死んじゃえ、て言ったら、タズト死んじゃうかもしれないんだよ。」
「俺死なないよ。キルさんが悲しむの知ってるから。」
「ばかっ」
 歯に衣着せぬタズトの言い方に、思わず私は赤面した。これはホレ薬の作用によるものだと頭では理解していても、面と向かって言われるとやっぱり恥ずかしい。あたしの心臓はバクバクと音を立てて跳ね上がっていた。
「今の俺がホレ薬による結果だとしても……もしそうだったとしても、キルさんを好きだという気持ちは嘘じゃないはずだ。」
「そうじゃないの。違うのよ、タズト。」
 あたしはしどろもどろになった。タズトの真っ直ぐな視線を受け止めきれずにうつむいてしまい、燃えるように熱くなった頬を両手で押さえつけた。
「――もしかしてキルさんは俺のこと嫌いなのか? でも俺、それならそれで構わないんだ。言いなりでも何でもいい。俺はただキルさんのそばに居たいだけなんだ。」
 タズトの言葉にぐらつくあたしの心を読み取っているかのように、タズトは恥ずかしげもなくあたしに言い寄ってくる。このまま言い寄られ続けたら、あたしはタズトに負けてしまうかもしれないとさえ思えてきた。だって、あたしはタズトのことが好きなんだもの。
 早く決着をつけなくちゃ。あたしは揺らぐ自分の心を感じて、焦っていた。 
「ごめんね。タズトは何も悪くないの。全部あたしが悪いの。タズトがあたしのこと好きになってくれて、すごく嬉しい。あたしもタズトのことが好きだからね。」
 だからこうするのが一番いいの。
 自分に言い聞かせるように心の中でつぶやいてから、あたしは意を決してタズトに歩み寄った。
 何を言ってもあたしの考えが変わらないことを悟ったタズトは、今度は何度もあたしに「いやだ!」と訴えてきた。
 ビンの蓋を開けると紫色の煙がゆらゆらと立ち昇り、あたしの呪文に合わせて煙はタズトの方へゆっくりと流れていく。タズトは口と鼻を手で塞いで、決して薬の匂いを嗅ぐまいと抵抗していたが、それでも徐々に重くなるまぶたを必死でもち上げていた。
「キルさんを忘れるなんて、いやだ!」
 意識が途切れる寸前タズトは振り絞るようにそう叫び、魔法円の中でどさりと倒れた。
 あの言葉が今のあたしを支えているのかもしれない。
 タズトの中からあたしは消えてしまったけれど、あたしの中のタズトは消えずに残っている。それも、とびきり大きな存在として。
「タズトはさ、ずーっと前から姉さんのこと見てたんだってさ。家に遊びに来ると、よく姉さんが手作りのお菓子とか持って来てくれただろう。はじめのうちは、自分にもこんな姉さんが居たらいいなーみたいな憧れだったんじゃないかな。あいつ一人っ子だからさ。人を好きになるきっかけなんてそんなもんだろう。」
 あたしはウイに言われて改めて思い返してみた。
 あたしはいつからタズトを好きになっていたのだろう?
 タズトのことを考えるようになったのは、裏のハーブ園で偶然鉢合わせしてしまった時からだけれど。
 あの時タズトに色々なことを言われてしまって、それから……
 それから、そう、「二人きりで話がしたかった」と言われたのだった。
 もしあれがタズトを好きになったきっかけだったとしたら、ウイの言うとおり、人を好きになるきっかけなんて単純なものだね。けれどもそれは、どんなホレ薬や呪文よりも強力な魔法だけれど。
「姉さんのことを少しずつ気になり始めていつのまにかに好きになっていたんじゃないかな? あいつから直接聞いたわけじゃないから、これはあくまでも推測なんだけど。でも多分、そんな感じだったんだよ。だから、さ、姉さんがこのままの姉さんでいれば、タズトはまた姉さんのこと好きになってくれると思うよ。」
「ウイ……」
「だから、そんな落ち込むなって。タズトがぼくの友達だってことには変わりないんだから。」
 元気だせよと言って、ウイはあたしの肩を軽く叩いた。ウイの手はとても温かく感じた。ウイのことをこんな風に思ったことなんて一度もなかった。
 あんたって結構姉想いだったのね。知らなかったわ。
「それから――、タズトの記憶を消したことは母さんには言っておいたよ。」
「怒ってたでしょ。」
「うん。キルはまだまだ甘い! 魔女失格だ。だってさ。」
 母さんの言いそうなことだ。あたしは思わず苦笑した。 
「そりゃ、そうよね。」 
「でもぼくは、姉さんのような魔女がいてもいいと思うんだ。」
 口ではいくら強がりを言っても、傷ついた心のひびにウイの温かさはじんわりとしみ込んでいく。胸がジーンとなって、目頭が燃えるように熱くなってきた。と思ったら、涙が頬をすべり落ちていった。
「今夜も月がきれいだね。」
 あたしのとなりで同じように月を見上げたウイが、しみじみと言った。
 涙でぼやけて見えた月が再びくっきりと輝きだす。今夜の月は、夜空を丸くくりぬいたような満月。
 本当、なんてきれいな月。
 なんて見事な満月なんだろう。
 こんな月夜には、どこからか『恋人を求める呪文』が聞こえてきそうな気がする。

 月の女神よ
 わたしは恋人とめぐり合う
 真っ赤に燃えさかる炎に包まれ
 こうこうたる月の光の中を
 あなたはわたしに
 わたしはあなたにいざなわれて
 二人はめぐり合える


 おしまい

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