悩める魔女思想・番外編
どこかの国の魔女
著・よもぎの森

22  あたしと彼と狭間の物語



 「お姉さま!」
 長い長い旅からようやく戻ってきたような気がする。実際には、どれほどの時間があたしの中で流れていたかは知らないけれど。
 あたしに『キル』という名前をくれたタズトが消えて、かわりに目の前に立っていたのが――妹のレイだった。
 レイはあたしを見て驚き、次の瞬間には目に涙をためてあたしに抱きついてきた。そして、わんわんと泣き出してしまった。
 ここは――?
 あたしは首をめぐらせて、辺りを見た。
 ここは、あたしの部屋だ。勉強机には中学校の教科書が並び、本棚にはマンガ本と雑誌、乾燥ハーブの入った小瓶が数本、壁には月齢カレンダーとお気に入りのイラストハガキが入った額が下がっている。お小遣いとお年玉をためて買ったオールドキルトのベッドカバーに、クッション。どうしても捨てられないボロボロの猫のぬいぐるみ、チェック柄のカーテン。ほんの六畳たらずの空間にあふれた、あたしの大好きなモノたち。
 突然の再会、突然の別れ……。
 色んな感情がごちゃまぜになって、気持ちの整理がつかない。あたしは今、嬉しいのか悲しいのか分からなかった。
「ねえ、あたし、どうしちゃったの?」
 あたしを抱きしめるレイの手の感触が背中に心地よかった。それはあっちの世界に居た時とはまるで違って、はっきりとしてみずみずしく、たしかなあたし自身の五感として感じるものだった。
 あたしは紛れもなくこっちの世界に生きる魔女なんだ。
「一週間前のことですわ。わたくしとお姉さまは、屋根裏で見つけた<スペルカード>を使って呪文を作り出していたんです。お姉さまは<スペルカード>を並べるのに、とても熱中していらっしゃいました。邪魔をしてはいけないと思いましたので、わたくしもお姉さまとは別に呪文を作ることにしたんです」
 スペルカード。
 同じだ。むこうの世界のあたしが名前を失くしたのも、<スペルカード>が原因だった。もしかして……。
 その後の顛末がなんとなく読めるような気がした。
 案の定、レイが説明してくれたことは、あたしの推測を肯定してくれるものだった。
「それで、わたくしもついつい<スペルカード>を並べるのに夢中になってしまって……、振り返った時にはお姉さまの姿が忽然と消えていたんです。いつ、どうして……、いったいお姉さまの身に何が起こってしまったのか……、まるでキツネにでもつままれたようでした」
 同じ部屋にいながら何も気づけないでいたことを、レイはとても悔やんでいるようだった。
 あの時あたしの身に何が起きたのか、それはあたし自身にも分からないことだった。
 向こうの世界のあたしがしたように、こちらのあたしも<スペルカード>で古に封印された禁断のチャームを完成させてしまったこと以外は。
「異変はそれだけではありませんでした。わたくしも、お母さまもお父さまも、弟たちも、家族全員が誰一人としてお姉さまの名前を思い出せなくなってしまったんです。だからきっとお姉さまの名前を思い出せば、お姉さまの身にふりかかった魔法が解けるのではないかと思い、それからわたくしたちは手を尽くしてお姉さまの名前を思い出そうとしました」
「で、レイが思い出してくれたの?」
「いいえ」
 レイは否定すると、あたしから体を離し横に一歩ずれて後ろを振り返った。そこにタズトが立っていた。その時はじめてあたしはタズトの存在に気づいた。
「タズトが思い出してくれたんです」
「タズトが?」
 あたしは驚いていた。
 今回あたしにかけられた魔法を解く鍵となったのは、『キル』というあたしの名前だった。
 向こうの世界でもその鍵を見つけてくれたのはタズトだ。
 今、目の前に居るタズトは、あたしの弟の同級生で、小学生の頃から家族ぐるみの付き合いをしている男の子。年下だから、あのタズトと違って背だってそんなに高くない。あたしの背を最近ようやっと抜いたくらいだ。控えめで礼儀正しくて、とっても優しい。
 そしてあたしは、いつのまにかそんなタズトに片想いをしていた。この恋心に、ごく最近気づいたのだ。
 タズトとタズト。これって、偶然なんだろうか? あたしは考えた。
 ちょっと待って。
 そういえば向こうの世界でのあたしの名前は『キル』ではなかったはずよ。なにしろ母音がウとアの名前だったんだから。『キル』という名前なら、母音は当然イ・ウになる。
 ということは、向こうの世界での魔法を解く鍵は『キル』ではなくて、別の名前だったってこと、よね?
 なのに魔法は解けて、あたしは自分の世界に戻ってくることが出来た。ううん、むこうでも同じく魔法が解けたとは言い切れないじゃないの。
 ……いや、でも、ひょっとしたら……。
 今回発生した不可抗力の魔法は、あっちとこっちでは作用が微妙に違っている。
 あたし自身と、あたしの名前がみんなの中から消えたこっちに対して、あっちでは単純にあたしの中からあたしの名前が消えたのだ。
 あの魔女は、あたしであって、あたしではなかった。なんというか、とっても不確かなものだった。
 今にして思えば、本来の人格のほかに別の人格(あたし)が入り込んでしまったせいだったのよ。
 向こうの世界のあたしが、自分の名前だけが聞こえなくなってしまったのも、だからあたしが無意識のうちに「それは自分の名前じゃない」と拒絶していたと考えられないかしら?
 つまりは、あたしがあの魔女の中から排出されることが、あの世界のあたしにかけられた魔法が解ける条件だったってことになる。
 あたしは感慨深げに目の前のタズトを見つめた。あのタズトとは似ても似つかない。いや、やっぱりどことなく似ているのだろうか。雰囲気というか、タズトを見るとドキドキするところは同じだから。
 十年経ったら、タズトもあんなふうになるのかしら。と考えて、あたしはすぐさま否定した。
 あのタズトも、そしてあたしも、もちろんターシャたちも、あきらかに日本人って感じではなかったものね。
 じゃあ、あの世界は、いったいどこにあるんだろう?
 タズトを見ているうちに、あっちでのタズトとの思い出がどっとあふれてきて、あとで考えるとどうしてこんな大胆なことが出来たのか、あたしはタズトに抱きついていた。
 とたんにあたしを支配したのは、圧倒的な寂しさと悲しさだった。混濁していた意識の中からそれら二つの感情が浮き上がってきて、あたしを激しく揺さぶった。
 いい思い出ばかりではない。ほんの数日間の出来事だったけれど、タズトとは楽しいこと辛いことを共に経験した。あたしの中でタズトの存在は多彩に変化して、そして確かにタズトはあたしの心に触れたのだ。
 あたしは二度と、あのタズトに会うことは出来ない。その事実に、ようやく気がついた。
 あたしはタズトの肩に強く顔を押し付けて、わっと泣き出した。
 突然あたしに抱きつかれて、どうしていいか分からないタズトの戸惑いが伝わってくる。
 宙をさまよっていたタズトの手が、おずおずとあたしの背に触れた。こういうことにタズトは全然慣れてない。とてもぎこちなくて、蝶がふれるような、ほんのかすかな感触だった。
「キルさん、どうしたの?」
 キルさん、キルさん、キルさん、キルさん……。
 あたしの名前を呼ぶタズトと、ただ一度だけ「キル」と呼んでくれたタズトの声が、あたしの中で混ざり合う。
 何度も何度も呼びかけるタズトの声に、あたしもタズトの名前を呼び続けた。
 そうよね。あたしにも、タズトが居る。
 あちらの世界にもちゃんとタズトが居て、タズトに恋してるあたしがいる。あたしは中途半端に帰ってきちゃったけど、ちゃんと仲直りしてくれるわよね?
 そしてあの二人はいずれ結婚して、あの山のどこかに小さな家を建てるんだわ。
 だから悲しいわけがない。「おめでとう」という祝福は、そのままあたしに還ってくるのだから。
 あたしはあたしで、この自分が存在すべき世界で、タズトを手に入れるために頑張っていこう。


 この不思議な異次元体験のことを、あたしはときどき思い出しては懐かしんでいる。
 そのたびに訪れる一抹の寂しさは、いつまでもいつまでも変わらないだろう。
 ターシャ、トーニ、キエリ、そしてあちらの世界のタズト。
 出来るのなら、あたしはまた、あの人たちに会いたい。正真正銘のあたしとして、月城キルとして、みんなに会いたい。
 あたしは胸に手をやり、魔女のために色々と動いてくれた人、優しくて朗らかでちょっぴり臆病で、でもたくさんのたくましさを持っていた人のことを思い浮かべた。
 タズトのことを思うと、必ずドキドキと胸が震えた。そう、あたし自身もまた、あたしだった魔女と共にあのタズトに恋していたのだ。
 あたしは目を閉じて、まぶたの裏に焼き付いている神秘的な垂乳根《たらちね》の木を思い浮かべた。
 ターシャとキエリとトーニが力をあわせて治療すれば、マザーツリーはきっとよみがえる。また元の雄大な姿に戻るまでは、何百年とかかるのかもしれない。けれどもあの三人の魔女は、いや、三人でなく四人だ、名前を失くしたドジな魔女も含めて四人の木を護る魔女たちは、きっとその役目を後世に伝えていってくれるのだろう。
 いつの日にか、元気になったマザーツリーの根元にタズトと二人で立ってみたいわ。
 うっそうとした気配のにおいたつ雄大な梢を見上げたら、あたしはマザーツリーにきっとこう告げる。あたしの本当の名前は『キル』なのよ、と。
 え? その時隣に立っていてほしいのはどっちのタズトか、ですって!?
 それってつまり、年上のタズトか年下のタズトかってこと?

 それはね、

 うふふ。

「タズトはタズトよ」


おわり

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