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悩める魔女思想
ど こ か の 国 の 魔 女
著・よもぎの森


2  マザーツリー


 あたしたち四人の魔女は山間の小さな谷で、ひっそりと、けれども割と豪勢な暮らしをしていた。
 山では山菜や木の実が豊富にとれるし、ちょこっと足を運べば岩清水の注ぐきれいな池や沢もあって、そこで魚も獲れるのだ。小屋の脇には湧き水を引いて作った水場もあるから、いつでもおいしい水が飲める。お風呂にだって入れる。生活するのに困ることは何もない。
 それに、なんといってもあたしたちは魔女だ。ここで自給できないものは、ホウキに乗って人里にひとっ飛びすればいいだけのこと。もうちょっと足を伸ばして大きな町まででれば、それこそなんでも揃ってしまう。空が飛べるおかげで、麓の里よりも都会的な暮らしをしていたりする。
 三人の魔女の態度に頭にきて外へ出たあたしは、家の裏手にまわり菜園を抜けて岩場に向かった。そこに小さな池があるのだ。
 ふらふらと歩きながら、確認するように自分のこと、三人の魔女たちのことを頭の中で反芻《はんすう》してみた。そうすることで、それこそ湧き出る泉のように、色々な記憶が頭にあふれてきた。
 岩場に着くとあたしは池を縁取る石の上に立ち、ぐるりと辺りを見回してみた。
 クヌギやブナやハンノキが生い茂る山に、埋もれるようにして建つあたしたちの家。もともとは緑色だった屋根が灰色っぽく変色して、山の景色にすっかり溶け込んでいた。よほど注意して見ないと、そこに家屋があることすら見逃してしまう。
 どこもかしこも、あたしの目になじんだ景色だった。
 こう感じることが、あたしには不思議でならなかった。あたしの足はここに来るまでの道のりを、何の迷いもなく通ってきてしまった……。
 あたしはここを知っているのだ。
 なのに、ここはあたしのいるべき場所ではないように思う。
 あたしは池の水面に身を乗り出して、そこに映る自分の姿をのぞき込んでみた。
 そよそよとそよぐ風が水面を揺らしていた。張り出した枝葉が池の上をまるで天蓋のように覆い、周辺をすっかり陰にしている。岩に生した苔も手伝って、水は透き通っているにもかかわらず、墨を流したように黒く見える。角度によっては深い緑色にも見え、池は艶やかに輝くぬばたまの水鏡となっていた。
 枝葉の合間からちらちらと見え隠れする空が水に落ち、それを背景に一人の少女があたしのことを見つめ返していた。どうやらこれが、あたしの顔ってことらしい。
 大きくも小さくもない目、ふっくらとした頬、鼻はわりかし筋が通っていて形がいいと言えないこともないけど、口はこれといって特徴がなかった。総じて、あまりパッとしない顔。
 ターシャもキエリも、そして初老のトーニですらも美人だったから、ひょっとしたら自分も美人なんじゃないかって淡い期待を抱いていたんだけど、見事に裏切られちゃったわ。
 あたしの顔は、あいかわらずあたしの顔のままだった。
 そう。池に映し出された、あまりパッとしない女の子の顔には確かに見覚えがある。自分の顔ならそう思って当たり前なんだけど、でも、やっぱり、なんというか、辺りの景色や三人の魔女たちに抱いたように、どことなく違和感を感じてしまった。
 自分の顔に違和感だなんて、あたしの記憶障害もかなり重症ね。
 名前なんてあって当たり前で、普段はあまり気にも留めないものだけど、もしかして名前って、その人その人をこの世界につなぎとめる楔《くさび》のような役割を果たしているんじゃないかしら。だからそれを失くしてしまうと、そこに存在している自分自身さえも不確かなものに思えてしまう?
 まあ、なんであれ、今のこのもやもやとした感じがいやだった。足はきちんと土を踏みしめているのに、意識はどこか中途半端なところをさまよっていて、そこから自分や世界を客観的に眺めているような、そんな気までしてしまう。
 サリー。
 池に映る自分に、ターシャが勝手につけた名前で呼びかけてみた。また風が吹いてきて、水面をいたずらに揺らし、あたしの顔を不細工に壊していった。あたしは溜息をついて、顔を上げた。
 仮の名前を付けられても、ここには繋ぎ止められない。やはり本当の名前を取り戻さなければ。
 この池は岩場からしみ出る湧き水がたまって出来たものだ。岩場をはい上がれば、向こう側に山の更に上へ登る小径がある。岩場の角度はほぼ直角。だけど、ちょうどいい間隔にでっぱりがあって、よじ登ることは簡単だった。山へ入る径は他にもあるけど、あたしはいつもここを利用している。
 小径は最初こそ傾斜がきついものの、あるところまで登りきってしまえば、後はゆったりとした勾配になる。
 下生えのシダも瑞々しく、けもの道同然の道を十五分ほど登ると、樹齢千年とも千五百年ともいわれている垂乳根《たらちね》の巨樹が立つ、わりかし平面な場所に出る。ゆうに二十メートルは超えるであろう幹の、その根元には、ここでしか採れない薬草やきのこが生え、珍種の五つ葉かたばみが群生している。あたしたちはその不思議な木をマザーツリーと呼んで大切にしていた。
 土の匂い、木の匂い、葉の匂い。
 誕生と、生命の脈動と、腐敗の混ざり合う苦く芳《かぐわ》しい匂いが、ここには満ち溢れている。
 あたしはマザーツリーの根元に立って、鍾乳洞のように幹から垂れ下がる気根を撫であげた。懐かしい感じがする……。
 見上げたそこに広がるのは雄大な梢。見上げただけで、その壮大さに自然と溜息が漏れてしまう。
 ほんの小さな葉が無数に寄り集まって出来る緑の天蓋から、木漏《こも》れいずる無数の光は淡い緑色の星となって瞬《またた》き、五つ葉かたばみの混じる苔の上に星屑となって散らばった。
 空高いところで四方に張り出す枝は普通の木の幹ほどの太さもあり、そこから更に八方へと先細りする枝が伸びて、梢を広げる。幹、枝、葉、それら全てが折り重なって紡ぎだされるマザーツリーの力強さは、ともすれば足がすくみそうなほど圧倒的だ。
 この木の不思議な力に引き寄せられて、鳥や虫たちが山中から集まってくるのだ。マザーツリーの下に立つと、木漏れ日と共に降り注ぐ自然音のシャワーが、とっても心地よい。
 春は恋をする鳥たちのさえずり、夏は蝉時雨、秋は澄んだ虫の音色、冬は眠る梢を吹き抜ける風音……。あたしは、それらを全て知っている。
 アタシハ、ナゼカ、ソレラヲ全テ知ッテイル。
 ここはあたしのお決まりの散歩コースだ。普段の時も、特別に落ち込んだ時も、こうしてここを訪れては、数え切れないほどマザーツリーを見上げてきた。
 溶けた蝋のように垂れ下がる何本もの気根は地面に達しているものもあり、まるで幹そのものである。しかし本物の幹は気根とは逆に天に向けてそれを伸ばす。天へ地へと伸びる幹と気根が乱立し、マザーツリーは一種異様な気配を漂わせる奇形樹でもあった。
「ねえ、マザーツリー、あなたは当然あたしの名前を知っているわね。あたしは自分の名前が分からなくなってしまったの。だから、教えてくれないかしら。あなたが呼んでくれたら、きっと聞こえると思うんだけど」
 あたしは心の底から真剣に問いかけて、マザーツリーの大きな幹に耳を押し当ててみた。
 とくとく、とくとく、小さな鼓動のような音が聞こえる。
 これがマザーツリーの心臓の音なのだろうか。 
 その音を聞いていたら、なんだか心地よくなってきて、あたしはまぶたを閉じた。そうしたら急に眠気が襲ってきた。それに身をゆだねるべきかあたしは一瞬迷った。
 なんせ今日は、午後からずっと眠りこけていたのだもの。これ以上寝ていいものだろうか、なんてことを真剣に考えていたら、あたしのことを笑うみんなの声がよみがえってきた。
 そうよ、こんなとこで眠り込んだら、それこそみんなの笑いの種にされるってもんよ。
 あたしは力いっぱい眠気に対抗して、ばっちりと目を開いた。
 前々からあの三人にはドジだマヌケだとからかわれてきた。今回、自分の名前を消してしまったことで、完全にダメ魔女のレッテルを貼られてしまったに違いない。ここはひとつ自力で名前を思い出して、みんなを見返してやろうじゃないの。
 ささやかでも目標が出来たところで、身が引き締まる思いがした。
 というわけで、手近なところから、あたしはさっきの居間でのやりとりのことを思い返してみた。
 あたしを呼ぶみんなの口の動きから、あたしの名前が二文字だということが分かる。最初の文字の母音の「ウ」で、次が「ア」だ。
 そうそう、この調子。
 あたしは自分をはげました。
 こうやって少しずつ真相を解明していけばいいのよ。時間はたっぷりとあるんだから。
「もしかして、そのままずばり『ウア』って名前だったりしてね……」
 マザーツリーの高い梢を見上げながら、こうして考えを巡らせていると、どこからともなく男の叫び声が上がった。あたしはびっくりして、その場で飛び上がってしまった。
「なにかしら」
 今まで息をひそめていた鳥たちが、けたたましい鳴き声を上げながら一斉に飛び立ち、からみつくように繁った梢がぎしぎしときしむ音が辺り一面に大反響して、まるで山全体が叫び声を上げたようだった。
 そのせいで、男の声があがった方向が特定しにくかった。もう一度、なんでもいいから叫んでくれないかしら、と思ったその時、まるであたしの心の声が聞こえたかのようなタイミングで、再び男の叫び声があがった。
 あきらかに、普通の状態の声じゃないわ。
 あの叫び声には、恐怖、驚愕が感じられる。尋常ならざる時にあげる声だ。
 あたしは耳をすまし、反響する音と、そうでない音とを必死に聞き分けた。
 ――沢ね。
 場所が特定できたとたん、あたしは駆け出していた。沢が見下ろせる崖を一気に駆け上がると、肩で息をしながら沢を見下ろした。
 けれども不規則に生える細長い木や灌木のせいで、視界の半分が遮られてしまう。下の様子ははっきりとは見えなかったが、緩やかに流れる沢と共に、時折大きな黒いものがちらちらと見え隠れしていた。あれはなんなのだろう。あたしは更に目を凝らして、うごめく黒い影をおった。
 そうしてしばらく影を追いかけていたら、パズルのピースがはまるように、ある時突然その黒い物体がなんであるかを悟った。
 とてつもなく大きな、こげ茶色の毛のかたまり。
 ヒグマだ。
 人がヒグマに襲われているのだ。


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