番外編競作 禁じられた言葉 参加作品 / 注意事項なし

虹と風の生まれる国 番外編

ユグドラシルの小枝

written by よもぎの森
 この世で一番美しいものに変えてあげるよ。

 キキ・ピコの呪いの言葉がアルの中でこだまを繰り返していた。
 この世で一番美しいもの、アルにとってそれは、妹のフレイヤのことを指していた。
 アルは今、王族の居住区である棟の中の、とある一室の前に立っている。
 扉は鋲が打たれた分厚い樫の一枚板で、まるでアルを拒むかのように目の前に立ちふさがっていた。なんとも物々しい扉だ。以前はその扉にも白い百合や鈴蘭などのリースが飾られ、無骨な雰囲気を和らげていたのだが、それらが飾られなくなってから一体何日が過ぎ去ったのだろうか。この黒々とした重くるしい扉の向こうに、フレイヤがいるはずだった。
 神々の国アスガルドの第三王子のアルは、国を崩壊に招いた七つの魔物を元の封印に戻すために、生まれ育ったワルハラ城を出、下界《アルカーナ》へと降りることとなった。
 明朝の出発を知るものは誰もいない。アルは誰にも告げずにこっそりとワルハラ城を出るつもりでいたからだ。
 しかし母親違いの妹フレイヤは、これまで幾度となくアルの心に安らぎを与えてくれた唯一心の許せる親族だったから、明日の出発をフレイヤにだけは伝えておこうと思い直したのだ。
 そう決心するまでに、だいぶ時間がかかってしまった。
 もう夜も遅い。フレイヤはもう眠ってしまったかもしれない。やはり何も告げずに去るべきなのか。
 しばらくためらったあとに、アルは意を決して扉をこつこつとたたいた。返事はなかった。ただ扉が音もなく開かれ、部屋に灯された明かりが廊下に染み出るようにもれてきて、アルの靴先を照らした。 
 フレイヤは角型の出窓の内側につくりつけられた窓座に腰掛け、窓枠に肘をついてぼんやりと真っ暗な外を眺めていた。窓の外は星も月もない漆黒の闇でしかない。うすぼんやりとした部屋の灯りが黒いガラスに反射して鏡となり、フレイヤの悲しげな表情を映しだしていた。扉口に立つアルの姿もまた小さく映しだされている。フレイヤはそれを見て、いや、フレイヤならば、アルが部屋に入った瞬間に、たとえ虫の羽音ほどの物音を立てなかったとしても、誰が部屋に入ってきたかを正確に感じ取ることが出来たであろう。
 振り返ったフレイヤは、ふせたまつげをゆっくりとあげて、アルが憧れてやまないブルーの目をアルに見せた。
「アルお兄さま……」
 消え入りそうなほど小さな声だった。
 窓枠に置かれた蝋燭《ろうそく》の炎のせいか、フレイヤの顔は一瞬たじろぐほどやつれはてて見えた。アルはごくりと息を飲んだ。
「びっくりさせたかな? まだ寝ていなかったんだね」
 そう言って、アルは一歩フレイヤに近づいた。
 アルの記憶にあるどのフレイヤも、いつも美しく光り輝いている姿だった。アルは自分の見間違いを正すために、フレイヤの姿をあますところなく観察した。
 あどけなさの残る少女の顔に際立つ青い目は空の色と同じ輝きを持つ。波打ちながら背中を流れる金色の髪は神が愛でる黄金の滝だ。そのどちらもが、醜い黒い髪と瞳しかもたないアルにとって、常に羨望の的であり続けてきた。
 決して汚してはならぬ神の領域、神々が愛でるもの、それがフレイヤだったのだ。
 ところがどうだろう、今のフレイヤは見るからに疲れ果てている。もともと大きな目は落ち窪んで気味の悪いほどだし、瞳自体も濁り白目は充血しきっている。いつでも手入れの行き届いていた髪はぼさぼさに乱れ、頬は削り取ったようにこけて、顔全体に陰影を落としていた。
 訊かずとも、フレイヤがもう長いこと眠ってはいなことが分かった。一体、いつから? 
 アルの胸がチリリと焼けた。
 部屋を見渡したところ、側仕えの侍女の姿はどこにも見当たらなかった。みんな下がらせてしまったのだろうか?
 アルがまた一歩フレイヤに近づく気配を見せると、フレイヤも窓座から立ち上がり、水の中を進むようにゆっくりとした動作でアルに歩み寄ってきた。
 アルは、アスガルド神王ガゼルの第三子として生まれながら、城では一族のつまはじき者だった。覚えている限り母はなく、二人の異母兄からは嫌われ、誤解は解けたとはいえ実父にも無視され続けてきた。廷臣たちの蔑みの目に取り囲まれた息の詰まるようなワルハラ城での生活の中で、ただ一人、この異母妹だけが、アルにくったくなく接してくれていた。
 もちろん、物心ついたときから共に育ち、何があろうともアルを支えてくれた従者エルドの存在は大きい。しかし、従者では到底埋めきれない孤独感がアルの中に巣食っていたのだ。
 同じ血。実の家族。
 その輪からはじき出されることで生じた心の闇は、血のつながりの無い、いわば他人同士でしかない従者では払拭することはできない。
 正直に言おう。フレイヤは、これまでのアルの心の拠り所だった。幾度となく陥りそうになった孤独感のもたらす深淵で、アルは死に物狂いで手を伸ばしてはフレイヤの存在にすがり付いてきた。
 とはいえアスガルドの大巫女たるフレイヤは、一日一日を分刻みで管理され、城の神殿か封印の森で過ごす身だ。アルと同じに、王族の居住棟にフレイヤの私室はあるが、妹がその部屋に戻ってくることはめったになく、そうたびたび語り合う機会があったわけではなかった。
 しかし、一ヶ月ぶり、二ヵ月ぶりに会ってアルを見つめる目、話しかけてくる声だけで充分だった。フレイヤは決してアルをはじき出すことはない。その目がいつも、アルを兄として慕ってくれていることを示してくれていた。
 手を伸ばせば届くほどの距離までつめた二人は同時に立ち止まり、お互いを見つめあった。ふたりの距離はそれ以上縮まらないかに思えた。と、その時、突如フレイヤは動いてアルの胸に飛び込んできた。
「アルお兄さま!」
 アルはフレイヤを抱きとめた。背中に回されたフレイヤの手に力が込められるのを、アルはふいに感じた。フレイヤがしがみつくようにして、自分に抱きついている。こんなことは、今までに一度としてなかったことだった。アルは少なからず狼狽《ろうばい》した。
 どうかしたのか――そう言おうとしたアルの言葉が、切羽詰ったフレイヤの言葉にかき消された。
「このような状況の中で城を出るなんて危険すぎます。まして下界《アルカーナ》へ降りるだなんて……正気の沙汰とは思えません」
 そうだな。正に狂気だ。アルは胸のうちでフレイヤの言葉を肯定した。自分のせいで国を滅ぼしてしまうところだったというのに、正気でいられる人間などいるだろうか。
『愚か者』とみなが言うのなら愚か者でいればいい。これまでのアルは、自分に対するみなの評価を逆手にとることで、自分なりに自分を正当化してきた。思えば、それが自分に出来る唯一の防御策だったのかもしれない。が、これまでの愚行を全てあわせても足りないほど究極の愚行をやってのけてしまった今、アルは自分を防御する気にもなれなかった。
「ここにいれば、結界が守ってくれますわ。どうか、どうか、考え直してくださいませ」
 いっそのこと、七つの魔物が解き放たれた衝撃で洞窟が崩れおちた時に、瓦礫《がれき》に押しつぶされて死んでしまえばよかったのだ。だが、アルは生きていて、逃れきれない罪と屈辱的な呪いとをその身に刻まれた。
「フレイヤ、ぼくは……」
「アルお兄さまはきっと混乱しているのですわ。突然、<風の剣《アイオロス》>の主に選ばれたから」
 フレイヤの頬をさわろうとしたアルの手が、アイオロスの名を聞いたとたんにピタリと宙で止められた。手は所在なげにしばらくその場に留まったあと、体の脇にぱたりとおろされた。
「そうか、フレイヤは全部知っているんだね?」たしかめるように訊ねる。 
「ええ。突然……見えました」
「そうか、そうだね。フレイヤに見えないものなどないからね」
「アイオロスが目覚めてから、わたくしの水晶玉にはアルお兄さまの姿が鮮明に映し出されるようになりました。それで分かったんです。古代より王家に伝わりし<風の剣>が永い時と眠りを経て、ようやく主を見つけたのだと」
「では、ぼくがしてしまったことを説明する必要はないかな」
 言いにくいことを言わなくてもすむのかもしれない。アルはささやかな慰めをそこに見出し、そんなことを思う自分を内心で嘲笑《あざわら》った。
 フレイヤは思いつめたようにアルを見つめた。この奇妙な表情はなんなのだろうか。アルはごくりと息を飲みこんだ。アルはフレイヤのブルーの瞳を注意深くのぞきこんだ。同情? 憐れみ? まさか。アルはフレイヤの真意を読み取ろうと無駄な努力をしてみた。
「――七つの魔物が解き放たれたのはアルお兄さまのせいではありません。わたくしが巫女として未熟だったからなのです」
 軽蔑の込められた言葉を投げつけられると身構えていたアルは、予想もしていなかった言葉に、あぜんとなった。罵られることはないまでも、多少の咎《とが》めの言葉は覚悟していたのだ。
 自分の予想していたものとは別の類のものだったが、アルがショックから立ち直るのに数分はかかった。ようやく口がきけるようになった時も、心なしか震える声になってしまった。
「いや、あれはぼくのせいだよ。ぼくは三日三晩意識不明だったかもしれないが、あの時のことは今でもはっきりと思い出すことが出来るよ。禁域に入り込み、ぼくのこの手が、そう確かにこの手だった、そうとは知らずにマローの封印を解き、そこから魔物たちが飛び出していったんだ」
「違うんです。たしかに封印そのものを解いたのは、アルお兄さまかもしれませんが、わたくしはそれを未然に防ぐことも可能だったのです。わたくしはずいぶん以前からマローの森を覆う不穏な空気に気がついておりました。それなのに結局何もすることができず、封印を守ることが出来なかった……」
 フレイヤの言葉には、自責と激しい無念が込められている。そして言葉にしたことで突如感情が込み上げてきたのか、フレイヤは苦しそうに目をつむって、何かに耐えた。
「封印を守るのがわたくしの務め。それを守れなかったのは、やはりわたくしの責任なのです」
「それは違う」
 アルはとっさに否定した。
 フレイヤがアル以上に自分を責めていたことを知って、アルは心底仰天した。責められるべきはアル一人であるべきだ。
「フレイヤは立派に務めを果たしていた。ぼくがその邪魔をしただけだ。それに、七つの魔物の破壊からワルハラ城を守ったのは、誰でもない、フレイヤだったじゃないか」
「かろうじて、ですわ」
「そう、かろうじてだ。しかし、あの破壊にワルハラ城もが飲み込まれていたら、アスガルドは本当に壊滅していた。ワルハラ城が無事だったからこそ、アスガルドは今も存在している“国”なんだよ。フレイヤの力が、アスガルドの明日をつないだんだ」
「いいえ! わたくしの力は、前大巫女のエメルダに到底及びません。あれほど広大だったアスガルドの、たったワルハラ城しか守り通すことが出来なかったなんて……。大勢の民が破壊の犠牲となりました。鳥や魚や虫、草木、生けとし生きるものの多くが死に絶え、土と水と空は汚染されてしまいました。ビフロストの橋が石化してしまった今、いずれあの橋を渡って冥府より[眠り《ヒュプノス》]と[死《タナトス》]の呪いがアスガルドに流れ込んでくるでしょう。その時が来たら、もはやわたくしの力ではどうすることも出来ません。アスガルドの民は呪いをうけ、今度こそ全てが死に絶えてしまうのですわ」
 フレイヤの尋常ならざる言葉に、アルは思わずぞっとした。
「あまり悲観的に考えてはダメだ。おまえは自分を過小評価しすぎているんだよ」
 フレイヤの目は、あらゆる方面から、またあらゆる次元から、物事を見定めている。
 そんなフレイヤが急にかわいそうに思えてきて、アルはたまらずにフレイヤを引き寄せ抱きしめた。怯えた子供をあやすように、フレイヤの髪を何度も何度も優しくなでおろした。フレイヤはほんのわずかの間だけ、陽だまりの猫のようにアルの胸にもたれかかっていたが、つと体を引くと、涙で潤んだ目でアルを見上げてきた。
「アルお兄さまは、アイオロスが選んだ、ただひとりの“主”です。マローの封印が解かれたと同時にアイオロスが目覚めた意味をお考えください。アスガルドは今、アルお兄さまの力を必要としているのですわ。ここに残り、みなで力をあわせてアスガルドを守りぬきましょう」
 少々感傷的な口調でフレイヤが言い切った時、涙が一粒、頬に軌跡を描きながらこぼれ落ちた。水晶の粒のような涙だった。なんて美しいのだろう、アルはこの場にそぐわない想いを抱いて、はっとした。頭を振って雑念を払うと、アルはフレイヤに言われたことを噛みしめ、自分が言うべき答えを探した。
「ここにはソールがいる。フレイヤとソールがいれば、アスガルドはきっと大丈夫だ。それに、ぼくは正直言って自信がないんだよ。アイオロスに選ばれたといっても、今はまだ何をしたらいいのか、何をするべきなのか、まるで分からない。ただ確かなのは、ぼくはここにいてはいけないということだけだ」
「なぜですか!」
 訊ねておきながらフレイヤは返答も待たずにアルの視線から逃れるようにうつむいた。
「……アルお兄さまは、何かを隠していらっしゃる」
 ふとつぶやいたフレイヤの言葉に、アルはぎくりと身をこわばらせた。
 フレイヤは鋭すぎるのだ。
 霊力と魔力をもつアスガルドの大巫女なのだから、それも当然といえば当然のことだろう。
 アルが必死になって隠そうとしている秘密も、フレイヤならば真実を突き止めるのにそう時間はかからないはずだ。
 秘密を知ってしまった時のフレイヤの反応を想像して、アルの背筋に悪寒が走った。アルは眉根を寄せた苦悶の表情でフレイヤを見返した。フレイヤはそれを待っていたかのように、真正面からアルの目を見据える。魔力のあるフレイヤの青い瞳は、ともすれば意志そのものが吸いこまれそうになり、アルの心の内側が激しくざわついた。
「アルお兄さまの中で燃える炎が揺らめいているのが見えますわ。アルお兄さまの中で、何かが変わろうとしています」
 アルはその声を、ずっと遠くの方で聞いているような気がしてならなかった。
「その何かは、アルお兄さまの周りに墨のような闇が取り巻いているので、今のわたくしの力では見ることが出来ません。でも、もう少し力を集中させれば、もしかしたら――」
 フレイヤは懐から水晶玉を取り出すと、額のあたりまで持ち上げて、水晶の中にアルの姿を取り込んだ。水晶玉が部屋の灯りに反射してきらりと光った時、アルははっと我に返った。
「だめだ、フレイヤ! それ以上は見てはいけない!」
 アルはわざと強い口調で命じて、フレイヤの集中力を乱した。
「もし何かが見えたとしても、それを口に出して言ってもいけない」
 断固とした口調でアルは言った。それはほとんど命令に近かった。王族の落ちこぼれと蔑《さげす》まされ、神王の子ですらないと噂されてきた疑惑の王子が、アスガルドの全ての民の尊敬と敬愛を受けた巫女姫に対して、個人的なこととはいえ命令をした。はたから見れば、滑稽極まりない光景だっただろう。
 しかし二人の間は、いつでも兄であり妹であった。
「なぜですの?」
 フレイヤは当然のことを訊ねた。
「ぼくの最後のお願いだ。聞き入れてくれるね」
 すかさずアルは答えた。強引に言い聞かせたと言ってもよい。
「最後――アルお兄さまはいったい」
「フレイヤ」
 とがめる視線をフレイヤに投げ、アルはフレイヤの問いを封じた。
「今、おまえの力は、みなの希望の拠り所だ。そして、その力は無限にあふれ出る泉というわけではない。そうだろう? ぼくのことで無駄に力を使わないでほしい」
 アルはフレイヤの肩に手を置いた。アルの細い指でも力を込めれば握りつぶしてしまいそうなほど華奢な肩だった。
「おまえは、こんなにも疲れている。まだ十三歳なのに、その肩に背負うものがどれほど大きいか……。なんの力にもなってあげられなくて、すまない。ぼくは今まで、あまりにも愚かだった」
「これまでのアルお兄さまがなんであれ、今はアイオロスを所有しています。それを誇りに思うべきです。アルお兄さまの力は偉大です。フレイお兄さまはアルフヘイムを動けないのですから、アルお兄さまはここに残って、ソールお兄さまとわたくしと三人で――」
「父王はぼくにアルカーナへ降りるよう命じられた」
「アルお兄さまがそれを望んだからですわ! 神王はアルお兄さまを止めることなど出来ないのです」
 今日の昼間神王に謁見した時に、アルが神王から言われたことと同じことをフレイヤは言おうとしている。アルがわざと言葉にしなかったことも、フレイヤには全てお見通しというわけだ。
「そうだ。アルカーナに降りることは、ぼくが望んだことだ。どうしてもそうしなければならないんだよ。マローによって封印されていた七つの魔物が解き放たれ、アスガルドをめちゃめちゃに破壊して、アルカーナへと逃げていった。フレイヤがなんと言おうとも、今回のことはぼくが引き起こしたことだ。だから、ぼくの手でかたを付けたい。最初で最後かもしれない名誉を挽回する権利をぼくから奪わないでくれ」
 フレイヤは、アルがどれほどの劣等感を持ち続けてきたかを知っている。そして、名誉とは無縁の生活をアルが送ってきたことも、その理由も知っている。
 だから、多分生まれて初めて口にしたであろう『名誉』という言葉に、どれほどの気持ちが込められているか、フレイヤほど分かる人物はいないのである。
 そして、アルもまた、フレイヤが理解してくれることを知っていて、わざと口にしたのだった。
 二人の間に沈黙が流れた。
「何を言っても、アルお兄さまのお気持ちは変わらないのですね」
 静かな声で沈黙をやぶったフレイヤに、アルは頷いた。「ああ」
 その即答に決意の深さを感じ取り、フレイヤはとうとうあきらめて溜息をついた。
 フレイヤはまじまじとアルを見つめてから、一歩、二歩と後ろへ下がった。そして薄く滑らかな生地を何枚も重ね合わせて作られた蝶の羽のようなローブの裾をつまんで広げると、フレイアは流れるような動作で膝を折って深々とこうべをたれた。
 それこそ神々に対して行う儀礼のようなお辞儀であった。アルは度肝をぬかれて立ちすくんだ。フレイヤの所作はそれにとどまらず、再び頭を上げてアルを見つめると、その視線をはずさぬまま、右膝、ついで左膝を折って床にひざまずいた。サラサラ、サラサラという衣擦れの音がそれに重なる。その音に感覚を麻痺させる何かがあるのか、アルの意識は水面下に沈み、ぼーっとなって流線を描くローブの裾の、しなやかな動きに目を奪われた。透けるほど薄い布の一枚一枚が、風に翻弄された蝶のように、また散りゆく花びらのように、フレイヤの動きにあわせて揺れ動き、やがて床の上で花開いて静まった。
 それが意味することに気づくまで、しばらくかかった。アルはどれくらいの時間、ただ呆然としてそれを眺めていたのだろう。
 たった今、目の前で繰り広げられた舞う花のごとき幻影が、本来の姿、つまりフレイヤの姿に戻った時、アルは慌ててフレイヤの傍《かたわ》らに膝をついて手を差し出した。
 愚かでしかない自分の足元で、尊き大巫女が床に額をこすりつけてひざまずくなど、あってはならないことだ。
「フレイヤ、こんなことをしてはいけない。早く立って」
 アルはフレイヤの腕をつかんで立ち上がらせようとした。その手をフレイヤはやんわりと振り払い、首を横に振った。かわりにアルの左手を包み込むようにして握り、目を合わせてにっこりと微笑んだ。そして、その手を握ったまま、アルと共にゆっくりと立ち上がった。
「風の王アイオロス、アル王子、わたくしのお兄さま。アンスーズ・ラグーズ・ウルーズ、ゲーボ・バカラーズ・サガーズ。あなたに祝福を……。わたくしはユグドラシルです。どうぞわたくしの小枝をお受け取りください」
 フレイヤはそう言うと、恭《うやうや》しく握ったアルの手を額の高さまで掲げてから下ろし、身をかがめて手の甲にそっとキスをした。手を裏返して平にも同じように唇をよせ、次いで血管が集まった手首の内側に長い長いキスをした。
 フレイヤの唇が押しあてられたとところがちりちりと熱い。まるでそこから何かが流れ込んでくるような気がした。不思議な、なにか、ちからのようなものが。
 その何かが血管を流れて体中をめぐるようだった。その心地よさにアルは陶然となり、抗いようもなく目をつむった。
 ああ、あたたかい……。
 心にわだかまっていた最後のほころびが癒えていく瞬間を、アルは垣間見た。
 フレイヤはアルに何を注ぎ込んだのだろうか?
 フレイヤは自分をユグドラシルだと言った。全世界に根をはびこらせ、全宇宙に枝葉を広げる世界樹だと。
 ユグドラシルほどの大樹ならば、小枝の一つを手折ったくらいでは全体になんの影響も及ぼさないということを言いたかったのだろう。
 くすんだ金色の髪や、充血して潤んだ目を見る限り、事実はフレイヤの言葉とは異なっているのかもしれない。フレイヤは、とっても貴重なものをアルに分け与えたのかもしれなかった。
 こんな大事な時期に大巫女の力をすりへらすようなことをしてはいけないと、本来ならアルは言うべきだった。しかしフレイヤが小枝と言い換えた好意を、はねつける気にはなれなかった。今この瞬間に、それが自分に及ぼしている影響が、あまりにも心地よかったからだ。
 なんてことだろう。
 涙が出るほど嬉しい今の気持ちを伝える言葉が、アルには見つけられなかった。
 アルはあらんかぎりの愛情を込めてフレイヤを抱きしめると、涙をこらえながら金色の髪に顔をうずめた。なんと心地よく、なんと安らかな気持ちになれるのだろうか。
 ずっとこうしていたいとアルは思った。しかし、それは許されないことだった。
 アルは自分の心に抗《あらが》い、身を引き裂くような気持ちでフレイヤから体を引くと、鼻の頭にちょんとキスをしてフレイヤを離した。
「もう行くよ」
 未練を振り切るためにわざとそっけなく言って背を向けた時、フレイヤのすすり泣く声が聞こえてきた。アルははっとして足を止め、唇をかんだ。胸が張り裂けそうだった。フレイヤもまた不安なのだ。十三歳の未熟すぎるほど若き大巫女に、我々はあらゆるものを託しすぎている。今まで万能に見えたフレイヤがここに来て突然、触れたら砕けてしまいそうなほど脆《もろ》い存在に思えてならなかった。妹の傍にいて、せめてもの励みにもなってあげられない自分に、アルはひどく罪悪感を覚えた。
 今までアルはフレイヤに何もしてこなかった。与えられるばかりで、自分からは何一つ与えてはいない。
 ほぼ崩壊してしまったアスガルドに大巫女を残していくことには何の咎《とが》も感じない。きっとうまくやってくれるだろうと思う。
 しかし見るからに弱々しく、声を押し殺して涙を流す妹を残していくことには胸が痛んだ。ぼくはまた過ちを犯そうとしているのだろうか?
 自分の行いに疑問を感じつつもアルは歩を止めずに扉の前まできた。
 悲しげなフレイヤの視線をひしひしと背中に感じる。
 アルは振り返らずに部屋を出て行くつもりだったが、扉に手をかけたところでためらい、思い直してフレイヤを振り返った。
 やつれてもなお美しいフレイヤの姿が目に飛び込んでくる。
 しばらく無言で見つめあったあと、アルは心を決めた。
「フレイヤ、ぼくの大切な妹、今日までこんなぼくを兄と慕ってくれてありがとう。ぼくがどんなに感謝しているか、言葉では言い尽くせないよ。本当に、ありがとう。ありがとう、フレイヤ」
 アルはフレイヤに深々と頭を下げた。
 愛しい妹へ心からの敬意の印だった。永遠に続きそうなほど長く頭を下げ続け、ようやく頭をあげてアルは扉を開けて部屋を出た。そして、フレイヤの世界から永久に自分を締め出すかのように、決然とその扉を後ろ手に閉めたのだった。
 開いた時と同様、重厚な扉は音もなく閉じられ、オーディンの血で繋げられた兄と妹を隔てる一枚の壁となった。




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本編情報
作品名 虹と風の生まれる国
作者名 よもぎの森
掲載サイト よもぎの森
注意事項 年齢制限なし / 性別制限なし / 表現注意なし / 連載休止中
紹介 「ぼくは一体何者なんだ」
王族は皆輝く黄金の髪を引き継ぐというのに、第三王子のアルの髪はカラスのように黒かった。
心に傷を持つアルに、魔の手が迫ろうとしていた。
風の剣アイオロスが目を覚まし、運命の歯車は急速に回り始めた。
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