|
―――赤。
いつものようにパソコンに向かう兄の首筋にそれを見出した時、啓介は全身が沸騰するのではないかと思った。同時に氷が心臓に押し込まれたかのように冷たく、なる。
虫にさされた痕なんかじゃない。
はっきりと明瞭な―――所有の、証。
眩暈がした。
(どうして―――)
兄に限って、と思う。
けれど疑惑は身体中を蝕んで自分を侵食していく。
兄に限って―――でも、どうなのだろう。弟の自分に身体を開くことにどうしても抵抗があるのなら、もう少し抵抗のない相手に……?
そんな筈はないと何処かでは思うけれど、はっきりとした痕跡が自分が今まで信じてきた全てを、不意に根底から疑わせる。
兄のことは分かっているつもりでいた。勿論自分には兄みたいに整然とはっきりと理屈をつけて理解できるのではないけれど、それでも、多分、兄が思っている以上に兄のことは知っているつもりだったのだ……そう言えるだけの歳月、ずっと傍に寄り添ってきたのだから。
けれど違うのだろうか?
自分は知らない―――何処かの、誰かに。
(信じられんねえ……っ)
自分だけが……知っていると、思っていた顔。
あのいつもの冷たくすら見える冷静な顔以外の顔を知ってるのは、絶対自分だけだと思ってたのに。
女ならまだしも許せるけれど。
でももし―――
「……啓介? どうしたんだ、怖い顔して?」
その兄は自分が何に気づいたか全く気づかない様子で、パソコン画面から目を放してこちらを見る。その冷静な顔にかっとなった。
裏切っておいて。表情一つ崩さずにいられるような人なのだ。こんな顔されたら馬鹿な自分は一生でも気づかなかっただろう。
自分だけだって信じて。忙しいから相手にして貰えないんだって信じて。
昨日もヤケに遅かった。先に寝てしまって……いつ帰ってきたかなんて、知らない。そんなことが今までにどれだけあった?
だとしたら―――どれだけ……。
(馬鹿みてえじゃんか俺……っ!!)
泣きたくなってきた。疑ったこともなかっただけに眩暈がしてきた。忙しい忙しいと始終家にいなかったことも何処までが一体本当なのか。全てが瓦解していくような気がする。
自分は冗談じゃなく兄以外に触れる気なんてしないのに。
(酷過ぎる……!)
「……啓介……?」
いつまでも黙り込んでいる啓介に、涼介は怪訝げな声を出す。
その顔まで憎たらしくなってきて、啓介は力任せに兄の肩を掴むとベットに引き倒した。
「……ちょ……っいきなり何するんだ!?」
「そおゆうアニキは何してたんだよ昨日!」
言葉を叩きつける。目の前が赤い気がした。
「……昨日?」
けれど兄はワケが分からないという風に眉を顰めて見せる。
欠片も動揺など示していない。ただ怪訝げに、何を言われてるか分からないと怪訝に思う顔。
これが演技、だとしたら……今までのどれが演技だったかなんて見分けがつかない。自分には思ってる以上に兄のことなんて見えていなかったのだ。
それが何だか死ぬほど悔しい。単に自分以外の誰かと寝たなんて問題じゃない。兄を知らない人みたいに感じた。自分にも平気で、こんな風に完璧に、嘘をつける人なのだ。それは確かにポーカーフェイスは得意だけれど、肝心なことでは決して自分には偽りを告げない人だとそう、思っていたのに。
それだけの絆があると思ってたのに。
そう、信じてたのに。
「酷過ぎる……っ!」
泣きたいくらいなのに涙も出なかった。兄のあくまでも平静な顔が、余計に憤りを煽っていく。
「…………酷いというのは人がデータを纏めてる時に無理やりベットに押し倒してるお前の行動の方……ってお前……っ!」
驚く兄に構わずに無理やり胸元を引き千切るように開く。そこにもやはり、はっきりとした痕が幾つもこれみよがしに残っていた。
見間違いなんかの筈がない。
「……こんなこれみよがしに痕なんかつけやがって……っ! 俺が痕つけんのも嫌がるくせに!! 何処のダレにそんなもん付けられたんだよ!? 言ってみろよ!!」
「―――」
途端に兄の目がすっと細まる。その表情の意味を理解しかねた。もう何もかもわからない。分かっていたつもりだっただけなのだ。頭が沸騰していてワケが分からなくなってきた。
知られた、と気づいたから開き直る気か? これを切っ掛けに、やっぱり兄弟での関係なんて終わらせるべきだとか……そうゆうことでも言い出す気なのか……。
世間体云々はともかく、何かが兄の枷になってるのは漠然とは、思っていたけれど。
「この痕を誰がつけたかだって……?」
感情を殺ぎ落とした低い声音が耳朶をうつ。知らない人間の声みたいに聞こえた。
「そうだよ!! んなことさせる相手が何処に―――」
「…………そうか。そんなに気になるか。なら教えてやる」
がし。
不意に兄はいきなりこちらの肩を掴んで押し戻した。不意をつかれる形で反対にベットに押さえ込まれる。
「うわ!?」
いきなりのことにかなりびびった。肩を押えつけられて兄がこちらを間近に覗き込んでくる。
そして兄は不意にそれはにっこりとコワい笑顔を浮かべ、仰った。
「昨日人が熟睡してるところにいきなり寝ぼけて乱入してきたどっかの馬鹿犬に散々べたべたとマーキングされたことを聞きたいんだろ?」
「―――――――――――――――は?」
間。
10秒くらい啓介は意識がぶっとんだ。
最初の衝撃があんまりにも大きくて更にそれがまたひっくり返った衝撃で、全身がシェイクされてるみたいな気分で思考が容易には繋がらない。
でもそれって……それって……それって……もしかして?
「………………もしかしなくても俺?」
ぽつり、と声を漏らす。
「お前以外にダレがいるんだこんなことするヤツが!」
「ぐえ。アニキ窒息死はイヤだから力緩めて」
「こっちは文句言いたいのにお前ときたら散々痕つけるだけつけてさっさと自分は熟睡してたんだろう…! それでもお前の部屋に叩き込む努力を払った俺は偉大だと思わねえか…?」
「い、偉大デス。すごく偉大っ。つ〜かもしかして目が覚めたら床に寝てたのってその所為?」
「人の安眠を妨げといて自分だけはベットで目覚めたかったのかお前は? それでも完全に寝ぼけててのことだから見逃してやる気でいたのに…………啓介」
すっと細まった目がそれはそれはオソロシイ。地球の最後を見る気分だ。
「は、はいなんでしょ〜か?」
思わず口調まで改まってしまう。
「……お前この痕見て何想像してた?」
「…………え〜っと…………」
それは色々と想像したような気が…………。
「冗談でも俺が男にのられてる図なんて想像してねえよな?」
「え、笑顔で言わなくても……っ。だってそおゆう痕みたら……っ」
「なんでただでさえクソ忙しい上お前みたいな始終やらせろやらせろうるさいのがいるのにどうしてわざわざ余所で男なんか見繕うんだ。ましてや痕なんかつけられるのなんて死んでもご免だ、気色悪い。そんな暇あったらやることは山程ある」
「え〜っと……」
やっぱり兄は自分が知ってる兄だったらしい。
死ぬ程安堵したが、衝撃の連続に最早啓介自身もワケが分からない。
「この際問題をはっきりさせておこう、啓介」
「え?」
怖い微笑を浮かべる兄に、啓介は目を瞬かせる。
「お前以外でどうしても何があっても男と絡めと言われたら上の方がマシだ」
「……っ」
あんまりにはっきりしたお言葉に啓介が言葉もなく硬直する。
「別に俺はお前でもいいんだぜ……?」
この体勢で言われると冗談にならない。
「うわっ。俺が悪かったったらアニキっ! すんごくすんごく反省してますっ」
「お前の反省というものがあてになった試しがあるのか?」
「ホントに悪かったったら〜! 俺だって好きで誤解したんじゃねえ!!」
「……まあ確かに昨日のことを覚えてないんじゃな……」
不意に涼介が溜め息をつく。
襟を掴む力が緩まったところで、啓介も不意に緊張が一気にほぐれた。思わず笑みが浮かんでくる。衝撃が大きかっただけに安堵も大きい。
「でも……良かった……」
「最初に誤解するのが間違ってる。あんな目に遭うのはお前だけで充分だ」
「俺ならいいんだ?」
啓介は兄の下から抜け出して、兄の首に両腕を回してしがみ付く。
涼介はいつものポーカーフェイスに戻った。返事を考えているらしい。
「……まあ、仕方ねえからな」
「仕方ねえってアニキ……」
もう少しこう甘い言葉を期待していた啓介は、がっくりと兄の肩で項垂れる。
「仕方ないから仕方ないんだ。ほら、いいからもう離れろ」
「ヤダ」
「ヤダじゃなくて……。お前本当にそれが反省してる態度なのか?」
「すげ〜してる。やっぱり大好き」
「……やっぱり全然反省してないだろうお前……。全く……」
兄は諦めたように溜め息をついている。
「でも寝ぼけてなんて……。やっぱり痕つけてえからかな?」
啓介は首筋の痕の上に唇で触れた。
「っ! だからやめろといってるだろうそんな見えるとこに……」
「見えなきゃOK?」
「程度の差だ! 普段から嫌だと言ってるだろう……っ。大体人の安眠を奪っておいてべたべたするな! 今日は絶対熟睡するから起こすなよ。昨日はお前の所為で腹が立って寝れなかったんだ」
「ちえ〜……」
不満だけれど、その筈なのだけれど、自然と顔が緩んだ。
その啓介の頭を涼介は苦笑して掻き混ぜる。
そして自分だけに見せる優しい微笑で、兄は言う。
「痕なんて必要ねえだろ……? 俺はお前だけのものなんだから……」
「あ、アニキ……っ」
甘い言葉に啓介が歓喜に浸りかける、が。
「―――けどこの痕全部綺麗に消えるまで触るな」
「は!?」
まさに飴と鞭というかなんとゆ〜か。いきなり天国から地獄へ突き落とされた啓介が硬直する。
「寝ぼけてのことだから不問にしようと思ったけどこうなったら無視できねえだろ? 無意識下のことまで責任とれてこそ大人だぜ」
「え〜っと……。でもだってそのえっと」
「何か文句が?」
「……な……ないです……」
「お前しっかりしつこく痕残したからな……、結構時間かかるだろうなこれが全部消えるのは……」
「………………」
|