青少年健全育成条例について
 どうも淫行という言葉に引っかかるものがありますよね。私は淫行なんてしていない!と主張するときにも、"みだら"と言う言葉を繰り返し使わなくてはいけないのが、とても屈辱的です。
わいせつだの、淫らだのと形容されることが、どれほど不当なのか少し考えてみたいと思います。
 
やはり彼女自身がどういう気持ちであったのかが、当局者の手で隠されてしまうことが問題なのだと思います。きっと彼女としては言いたいことも言えなかったでしょう。彼女の性的自己決定権に留意した調書が作られたとはどう考えても思えませんから、誤った触法意識が彼女に植え付けられる事によって決して"青少年健全育成"が成されたとは思えないのです。ひとつ彼女の心に闇を作っただけで、終わってしまわないか、良識派を標榜する誤った教育活動によって虞犯少年を一人増やしただけに終わってしまわないかと非常に危惧します。
 
 この条例の意図するところは、当事者なんかどうだって良いのです。「風紀を乱すとこんな恥ずかしい目に遭うぞ!」と抑止することが主眼でしょう。問題を起こした(とされる)当事者(被害者と呼ばれる少女も含めて)を吊し上げることによって、他の集団を律するのが目的です。その証拠に条例自体が親告罪では無いところが多い、つまり当局が双方のプライバシーに介入することを明示的に認めているのです。言い換えれば、触法者と触法少年は捕らえて辱め、切り捨てる。その上で青少年集団に対して威圧的に「捕まりたくなければそうするな」と教示しているわけです。そんな条例、憲法違反どころか、児童憲章にすら抵触します。だって、教育する立場の大人が子供を「威力をもって辱める」のですからね。性的搾取から青少年を守るなら他の立法でするべきです。性道徳観の世代間の溝を埋めるのは家庭の努めであるべきです。

 教育とは、青少年健全育成とは、型どおりの正論を青少年に飲み込ませることでは無いと思います。少なくとも彼らの疑問に応える形で進んでいくものでなければなければならないと思います。少年犯罪を嘆く教育関係者が、視点を改めなければ単なる嘆きの評論に終始してしまうが如く、現状認識や相互理解と言うことを怠ってはいけないと私は思います。責任がないと考える人々の評論的な嘆きが、何の解決にも繋がっていないことを問うていかなければならないのだと感じます。それが屁理屈や、ゴマメの歯ぎしりと言われないように、批判に耐えうる論理展開と、理想を持って立ち上がらなければいけない時期だと思っています。