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書籍名少年記 (文庫)
著 者野田 知佑
出版社文藝春秋 (2004/8/4)
気ままに100文字書評
自分の少年期を思い返してみても、息子を持つ身で現在をみても、大切だと言うのは誰もがわかるはず…自分の少年記を書くとしたら…私の頃の背景にはまだ自然があった…果たして今の子供達が少年記を書くとなった時には…

少年記〜少年時代を振り返り現在を思う〜

採って飼わなきゃわからない

川と釣りと田んぼと



採って飼わなきゃわからない

 私が小学生の頃は、夏休みの朝は毎日、部落の小学生が神社に集まり、ラジオ体操をしたものだ。ラジオ体操の出席カードを首にぶら下げて行き、6年生が出席のはんこを押してくれた。ほぼ皆勤賞に近かったと思う。今から思えば、夏の家族旅行は一大イベントで、我が家の場合、お盆も親戚が集まる家だったので、ホントに毎日家にいたのだ。話をラジオ体操に戻すと、ラジオ係の子供がラジオを持って来る。録音テープとは違うので毎日6時前に集まり6時の時報と共に
 ♪あたらしい朝がきた.希望の朝だ、よろこびに・・・
 とラジオ体操の歌を歌っていた。ラジオ体操が終わると皆でジョギング。ジョギングも片道1kmくらいあったんじゃないかな。毎日だったかどうかはっきりと覚えていないが、目的地となる折り返し地点はクヌギの根っこ!かぶと虫のいるポイントだった。私は部落の中で

2007.05.15 φ(・ω・ )執筆開始 ・・・

川と釣りと田んぼと

 私の生まれたのは千葉県成田市です。成田市といえば、成田山や成田空港を思い浮かべる方が多いと思いますが、私の実家は成田空港近くの市街化から取り残された中途半端な田舎にあります。

 小学生の頃は、当時流行っていた釣りキチ三平の影響で、友達の誰もが釣りを始め出しました。近くの川に誘い合って友達とよく行きました。釣りだけでなくザリガニやクチボソを捕まえたり、石を積んで堰を作って流れを変えたり池を作って見たり、川に入ってよく遊びました。深みで泳いだり仕掛けてあった網の中身を拝借したり、楽しい川遊びがありました。
 同級生だけでなく近所の子供達が集まり、上級生から下級生まで一緒に遊びに行っていました。上級生が教えてくれるし、見て覚えて自然に知識を得る機会がたくさんありました。
 最近ではその川で遊ぶ子供をほとんど見掛けません。現在では遊びも多様化し、集団で1つのことに熱中して遊ぶ機会がなくなってしまったんだと思います。また、何でも他人のせいにしたがる大人が増えたので、行政をはじめ自分のせいにされてはかなわないと、どこでも入っちゃダメ、なんでもやっちゃダメ、と言う大人が増えてしまったんだと思います。
 更には、空港工事関係の移転等で家が減り、人が減り、更に核家族化により子供が減っている影響の方が大きいかもしれませんね。なんと私の通った小学校現在は、全校で50名にも満たない状況なのです。

 釣りに話を戻しますと、今でも鮮明に記憶に残っている釣りは、学校が終わってから一人で自転車で川に行き1時間くらいで鮒を3匹釣った日のことです。
 それまでの釣りは友達と一緒に行くので釣るというより遊ぶ感覚が強く釣れないことの方が多かったのですが、その時は釣り場に他に人がいなくて、ウキを集中して見つめながら、川と一体化しているような感覚になって、「これぞ釣りじゃん」と実にいい感じだったのを覚えています。
 ちょっとあいた時間に一人でフラッと行ってサッと釣ってきてしまったことに何とも言えぬ充実感と、大人やと友達と一緒ではなく、一人というところに小さな冒険みたいに感じたところがあったのだと思います。

 帰り道で、声をかけられたおじさんに自慢げに魚を見せて「三平みたいだね」とおだてられ、意気揚々と帰ったのでした。持ち帰った鮒をきちんと飼うことが出来たかどうかよく覚えていません。せいぜいバケツで数日程度だったのでしょう。その頃、母親が七輪で鮒を焼いていた記憶もありますが、釣った鮒だったのかどうか。でも身近な魚が目の前で網で焼かれるのみて、「かわいそうだよ」と食べなかったことは覚えています。

 川だけでなく田んぼのミヨでもいろいろな生きものが採れました。父がミヨに仕掛けた竹製()(成田方面では「ず」ですが、「うけ」「どう」「たる」とも言うらしい。)を上げるのについていくと、バケツいっぱいにどじょうが採れました。現在は、定食などのメニューに柳川を見つけると、懐かしいなと思いながら注文しおいしく食べるのですが、子供の頃は、前記の鮒と同様、「かわいそうだ」と決して食べませんでした。

 田植えや稲刈りの時期になると、親戚一同が手伝いにやってきて、いとこと一緒に田んぼについていきました。初めて私が田んぼに行った頃はまだ手植えだったので、手伝いながら、苗の塊を投げていました。植えやすいところに投げるのではなく、どこまで遠くに投げられるか、どれだけ高く投げられるかを競っていました。
 稲刈りには機械を使っていましたが、現在のものとは違って、刈り取って束ねるだけのシンプルなものです。稲刈りが始まり機械が近づくとイナゴが一斉に飛び出したり、亀が見つかることもあったり、機械の周りをウロウロしながらキョロキョロしていました。稲を干す竹にぶら下がったり、田んぼも最高の遊び場でした。

 よくよく考えると、小学4年生の頃には空港が開港していたのですが、やはり当時と比べると、現在では、空港へのJRの線路が田んぼを横切ったりなんだりで、自然は減っています。田んぼの作業も機械化が進み、懐かしむ風情はなくなってしまいました。森林や草むらの量だけなら大きな差はないのかも知れませんが、自然が豊かで無くなってしまった気がします。でも千葉に比べると自然は多いので息子を連れてくると田んぼに行きたがります。
 また、千葉ニュータウン方面から空港に入る新しい路線の工事で車輌すれ違いのための駐機スペースが出来るらしく実家の田んぼも近いうちに使えなくなってしまうそうです。工事用車両等の往来が始まると雰囲気も台無しですね。

そういう私は、結婚し実家を離れて千葉市に住み、田植えや稲刈りもほとんど手伝わず、しかも成田空港で働いているのですから、とやかく言えた義理ではないのですが・・・。

2006.10.30 執筆中(;^_^A ・・・