I wish……

Chapter 2



Written by 春日野 馨


『朝ですよ。時間です、起きてください』
 目覚ましからレンちゃんの声がする。眠い。頭が重い。はっきり言わなくても明らかに寝不足。
 嫌な夢見ちゃって昨夜はあんまり熟睡できなかったから。
 でも、今日はやらなくちゃいけないことがある。内科の真由美ちゃんが退院できる日なのだ。そんな大事な日に主治
医のわたしがいないわけにはいかない。
 目覚ましを止めるとがんばってベッドの上に身体を起こす。
 脇に置いてある鏡を見ると、見るも無残な顔のわたしがいる。いけないいけない。熱いシャワーでも浴びてこよう。しゃ
きっとしなくちゃ。

 食欲はないけれど、少しでも朝ごはんは食べないといけない。
 昨夜作っておいたゆで卵とサラダを冷蔵庫から出してコーヒーを淹れる。トーストは今日はいらない。そこまで食べら
れるかどうか自信がない。
 食卓脇のTVを時計代わりにつけるとちょうど七時になったところだった。
 政治、経済、国際情勢、事件、事故……そこいらへん中から集めたいろいろなものがごっちゃになっている。だからN
EWSって言うのかしら。東西南北いろんなところから記事を集めているんだものね、なんて脈絡のないことを考えてい
たわたしは一つの記事に吸い寄せられていた。

『次は国際的な武器商人逮捕のニュースです。ICPO・国際刑事警察機構はFBI・アメリカ連邦捜査局とともに日本時間
の昨日午後十一時、アメリカ・コロラド州の山中にあった武器密輸組織の本拠地を摘発し、組織のリーダーで国際的武
器商人の中国系アメリカ人、リカルド・ワン容疑者をはじめとする組織のメンバーの大半を逮捕したと発表しました。こ
の組織の活動は単なる武器密輸だけにはとどまらず生体兵器の開発も行っていた模様で、そのための施設を日本国
内にも設置していたとして、警察庁もICPOに対してワン容疑者を国際手配していました。この度の逮捕について警察
庁国際共助課の……』
 そうなんだ、やっと逮捕されたんだ。やっと……
『では、次のニュースです』
 やっと……逮捕された……
 電話が鳴る。
「はい、矢沢です」
「おはようフィリス、ボクだよ」
「リスティ、おはよう……」
「今のニュース、見た?」
「……う……ん……」
「ボクにはこんなことしか言えないけれど……よかったね」
「うん……ありがとう」
「今晩でも家に行こうか?あっ、当直だったっけ?じゃ、フィリスの都合のいいときに行くから」
「うん……ありがとう、リスティ」
「それじゃぁ、また」
 電話が切れた。
 そうだった、今日は週に一度の当直だったんだ。リスティに言われて初めて気がついた。そんなことも気がつかないで
いたなんて……やっぱり今日は変。

 食器を片付けて軽いメイクをして、病院に出かける前に火の元と戸締りを確認する。
 なぜかわからないけれどなんとなく不安で今日は三回も見直してしまった。なんだろう、この不安は。
 起きてから食事が終わるまで感じていたなんとなく変な気分が今になって不安へと変わってきている。
 変よね。不安になることなんてないはずなのに。不安になることなんてあるわけが……
 そう考えて気がついた。そうだ、今日は一人で当直過ごさなくちゃいけない。今晩は恭也くん来られないんだ。学校の
用事があるから。
 でも、それが原因なのかしら。
 ううん、きっと寝不足で精神的に不安定になっているだけよ。そうに違いない。
 フィリス、しっかりしなくちゃだめよ。主治医のわたしが精神的に不安定になっていちゃ退院する真由美ちゃんが不安
がるじゃない。笑顔笑顔。外来の患者さんにだっていい感じ持ってもらえなくなっちゃうものね。そう自分に言い聞かせ
て病院へ向かう。

 空元気も元気のうちということなんだろうか、それともわたしって意外に演技派だったのか、無事に午前中の回診と外
来の診察を終わらせてお昼にする。
 いつもより長く感じたけれど。
 あいかわらず食欲はない。仕方がないからココアだけでもお腹に入れることにする。いつもよりちょっと甘めにして血
糖値の低下を抑えよう。血糖値が下がると思考能力にまで影響があるから。
「フィリス先生、中庭行きませんか?」
 ココアを飲み終えた頃、ナースの小野寺さんが迎えに来てくれる。
 どうしよう。いつもだとお昼休みはナースさんたちや患者さんと中庭でおしゃべりしたりしてるんだけど、ちょっと今日は
気乗りがしない。
「あっ、今日はちょっと用事があるの。せっかく来てもらったのにごめんなさい、小野寺さん」
「そうですか、用事じゃ仕方ないです。じゃ、また今度お願いしますね」
 彼女はそう言って残念そうに戻っていく。
 悪いことしちゃったな、用事なんて本当はないのに。でも、気が乗らない時におしゃべりに行ってみんなに嫌な思いを
させたくないから……これでいいのよね、これで。
 無理やりに自分を納得させる。
 わたしはデスクの前でぼんやりと窓の外を眺めている。午後の予定は何があったっけ。
 回診に行って、真由美ちゃんの見送りに行って、外来の診察があって、医局で症例研究会があるんだ。

 退院祝いのプレゼント、あったはずよね。わたしはデスクの引き出しを開ける。
 中にはシルバーのリボンのかかった小箱が一つ。
 わたしはいつも自分の担当した患者さんが退院する時には退院祝いをプレゼントすることにしている。
 特に今日退院する真由美ちゃんは入院生活がずいぶん長く、わたしがここに勤務するようになった時にはすでに病
棟の住人だった。そのせいか彼女自身も病院から出られないと思っていたようだった。一言でいえば自分の現状に納
得してしまいそれ以上の変化を望まなくなっていたのだろう。
 そして前任のドクターからわたしは彼女の容態は良くて現状維持だろうという引継ぎまで受けていたのだった。
 わたしはそんな彼女に努めて話し掛けるようにすることにした。それは彼女自身が自分の病気に立ち向かう気持ちが
萎えてしまったなら、それこそ命にかかわってしまうと思ったから。
 そんなわたしに彼女は初めちょっと迷惑そうだったけど、一ヶ月二ヶ月と経つうちにだんだんと心を開いてくれるように
なっていた。そのうち、回診だけじゃなく、廊下で会っても彼女はわたしに笑顔で話し掛けてくれるようになっていた。
 そうすると不思議なもので彼女の容態はだんだんと快方に向かってきた。そして、彼女自身もそれを感じ取ったのか
さらに明るくなってくれて、また容態が回復するといういい方向へ回りだしたのだ。
 そうなると回復するのは早い。今まで五年も入院していたとは思えないほどの速さで回復して、気がつくと一年半で退
院できるまでになったのだ。

 わたしは箱を白衣のポケットに入れると真由美ちゃんの病室に向かう。最後の診察とプレゼントを渡すため。
 こんこん、個室のドアをノックする。
「はい、どうぞ」
 真由美ちゃんの返事
「こんにちは、真由美ちゃん」
 挨拶しながら中に入ると真由美ちゃんがベッドの上に座っていた。
「あ〜、フィリス先生、診察ですか?」
「ええ、そうよ。真由美ちゃんも退院かぁ、よかったわね」
「うん、でもちょっと寂しいかな……このお部屋にいたの、とっても長かったから」
「でも、わたしは嬉しいわよ。だって、元気になってお家に帰れるんでしょう?看護師さんたちだって、医者のわたしたち
だってそれを願って仕事してるんだもの、願いがかなえば嬉しいわ」
 診察をしながら話をする。
「うん……、でもなかなかフィリス先生や小野寺さんに会えなくなっちゃうし……」
「大丈夫。時々定期検査があるでしょ?その時はわたしが担当だからまた会えるわよ、ね。その時にはまたいっぱいお
しゃべりしましょ。そうだ、予約を午前中の診察の終わりごろにしておけばお昼も一緒に食べられるわ、そうしよう」
 にっこり笑ってウインクなどをしてみる。真由美ちゃんもそれにつられてにっこりと笑ってくれる。
「じゃ、楽しみにしてます」
「わたしも楽しみにしてるからね。はい、おしまい」
「ありがとうございました」
「あっ、そうそう、これ忘れちゃいけなかったわ、はい、プレゼント。退院おめでとう」
 ポケットからリボンのかかった箱を出して真由美ちゃんに手渡す。
「えっ、先生、これ……」
 真由美ちゃんはビックリしている。
「あけていいわよ」
「わぁ、なんだろう……」
 人がプレゼントを開けている時ってなぜかどきどきする。気に入ってくれるかなと思ってしまうからなのだろうか?やっ
ぱりその人に合うようにって一生懸命に選んだものだから気に入って欲しいし……
 箱の中にはシルバーのイルカのブローチ。シンプルだけどとっても可愛いなって思って買ったもの。
「えぇっ……イルカさん?わぁ〜ありがとうございます。大事にします」
「うふっ、気に入ってもらえたみたいで嬉しいわ」
「はい、わたし、イルカさんって大好きなんです。退院できるようになったらイルカさんみたいに泳げるように練習したい
なって思ってましたから」
「そうね、水泳はいい運動になるから始めるといいわよ。あっ、でも無理は禁物よ」
「はぁい。ねぇ、これからよろしくね、イルカさん」


 真由美ちゃんの笑顔がまぶしい。よかったな……元気になってくれて。
 やっぱり医者としては元気で退院してくれることが一番嬉しい。だって、それは医者が医者としての勤めを果たせたこ
とだから……でも、不幸にして、そうはいかない患者さんもいらっしゃる……それが一番悲しい。病気を治すためにきた
病院で、医者のわたしたちの力が足りないがためにその思い叶わずに終わってしまう、そんなことが一件でも少なくな
るように……そう思わずにはいられない。
 まだまだ修行しなくちゃね……

「フィリス先生……」
 医局で症例を見ていたら、突然、わたしを呼ぶ声がした。顔を上げると真由美ちゃん……
「本当にお世話になりました。ありがとうございました」
 深々と頭を下げる。
「そっかぁ、おうちへ帰るのよね。おめでとう。よかったわね」
「はい、でもわたしが元気になれたのは先生のおかげです。わたし、先生とお会いできなかったら、きっと病院にいたま
まだったと思います。だから……」
 あとは涙声……わたしはそんな真由美ちゃんをきゅっと抱きしめていた。
「真由美ちゃん、いつでも遊びにきていいわよ。だって、ここは真由美ちゃんの二つ目のおうちみたいなものなんだか
ら。わたしも大歓迎だし、ほかの先生だってきっと喜ぶわよ」
「はい……先生……ずっとお友達でいてくださいね……」
「うん……」
 わたしももらい泣き……

 そして、真由美ちゃんは笑顔で、でもちょっと名残惜しそうに家へ帰っていった。本当に久し振りの我が家へ……
 そうして、きっと、平穏無事な日常生活が始まるのだろう。
 今まで入院していてできなかったたくさんのこと……友達を作ることや学校の教室で勉強すること、友達と遊ぶこと、
そして恋をすること……
 病室の中で止まっていた時間を取り戻すかのようにたくさんのいろいろな体験をするのだろう。
 それがきっと、真由美ちゃんの新しい日常。それは決して変わりのないことではないはず。
 でも、それも日常……
 いったい日常って何なんだろう……

 当直体制に入ったものの、不思議なくらい静かな夜。
 わたしは医局でノートパソコンに向かい症例研究の論文を書いていた。
 でも、なぜか集中できない。静か過ぎて寂しいから?
 恭也くんがいてくれる時はこんなことはないのに……
 そんなことを考えているとナースの小野寺さんがやってきた。

「フィリス先生、今日はお一人なんですか?」
「ええ、そうなの。恭也くん、今日は大学のほうで忙しいんですって」
「じゃぁ先生、今晩は久し振りに一人での当直ですね」
「そう……なんだけど、それが何かあるの?」
「以前の先生って夜暗いところが怖いって仰っていましたでしょう?どうされたのかなぁって思って」
「あっ、ひどい。わたしだってそんなにいつまでも子供みたいなこと言ってないわよ」
「ごめんなさい、そうですよね」
 二人でちょっとした笑い。
 これも日常なのかな……平和な日常……
「あっ、ごめんなさい、せっかく来てくれたのにお茶も煎れないで」
「いいえ、いいんですよ。私がしますから。先生はココアでしたよね」
「じゃ、お願いしちゃおうかな」
「はい、任せてください」

 ナースの小野寺さんはわたしの過去を知っている数少ない看護師さんの一人。だから子供時代だってよく知ってい
る。
 でも、それだからといって子ども扱いしない、むしろ一人前の大人として扱ってくれる。そんな彼女がわたしはとっても
好き。

「あの、フィリス先生」
「なぁに」
「失礼に聞こえたらごめんなさい。あの、もしかしたら何かお悩みのことでもおありなのかなと思って……」
 ……わかっちゃったかしら。やっぱり小野寺さんには敵わない。
「……うん、そうなの。でも、大したことじゃないから大丈夫よ」
 これも空元気。実は結構精神的に堪えているのだけれど。
「そうですか。お昼休みの先生の感じがいつもと違ったので。先生がそう仰るなら大丈夫だと思うんですが、でも、大し
たことないと思ってばかりだと手遅れになっちゃいますから」
「……そうよ……ね」
 わたしがいつも患者さんに言っている言葉そのもの。確かにその通り。自分が言われる立場になるととってもよくわか
る。
「本当に何かあったら仰ってくださいね。先生のお仕事はストレスが溜まるだろうからって矢沢先生にも頼まれてますか
ら」
「義父さんが……そうだったの」
「うふふ、実は私たちナースもナースステーションなんかで結構ストレス発散しあったりしてるんですよ」
「そうねぇ。なんだか楽しそう」
「ええ、よろしかったら先生もぜひいらしてください。」
「うふっ、じゃ、今度お邪魔するわね」
「はい、お待ちしてます。あっ、でも当直のときは高町さんがいらしているから大丈夫かしら」
「……んもう……でも、一緒にお邪魔してもいいわよね」
「はい、それはもう。でも、高町さん、若いナースに取られちゃっても知りませんよ」
「それは大丈夫よ。恭也くん、そんなに器用な人じゃないから」
「それはよくわかります。先生と高町さんってお似合いだなってみんなで言ってるんですよ。お二人で不器用ですから、
あっ、ごめんなさい」
「……ううん……でも嬉しいかな……」
「高町さん、大事にしてあげてくださいね。私たち、応援してますから」
「うん、ありがとう、小野寺さん」
 ちょっと恥ずかしいけれど、でも嬉しい。恭也くんとわたしの事をそんなふうに見ていてくれたのね。
「よかった。先生、さっきよりも表情が明るくなられてますよ」
「ごめんなさいね。どうもありがとう。もう大丈夫よ」
 本当にちょっと楽になったみたい。やっぱり人に話すって精神衛生上大事なことなんだなぁって改めて実感。患者さん
にはよくそう言うんだけれど、いざ自分がそういう立場になると……やっぱり……ね。

 わたしがちょっと元気になったせいか話が弾んできたところで小野寺さんの院内PHSが鳴る。
「はい、小野寺です。あっ、はい、今行きます。ありがとうございます」
「どうしたの?患者さんに何か?」
 心配になって尋ねたわたしに小野寺さんはにっこりと笑って言う。
「なんでもないんです。巡回の時間になったら連絡してもらうように頼んでおいたんです。それじゃぁ、お邪魔しました」
「はい、どうもありがとう。助けられちゃったわね」
「どういたしまして。それとココアとお菓子、ご馳走様でした」
「いいえ、こちらこそ。じゃあ、わたしはここにいますから何かあったら呼んでくださいね」
「はい、いってきます」
「よろしくおねがいします」
 小野寺さんは病棟の巡回に出かけていった。また元の一人……

 時計を見るともう十一時過ぎ。早めに仮眠とっておかないと。未明から朝方って意外と忙しくなることが多いから。
 ロッカーから毛布とクッションを出してソファーに置く。
 白衣とスーツをスウェットの上下に着替えて、それじゃぁちょっとの間だけれど、おやすみなさい……


To be continued





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