Written by 春日野 馨
高町恭也は海鳴大学病院の駐車場に車を止めるとG病棟の医局へと向かっていた。
彼の手にはいつもの通り高町家の二人の料理長と次期翠屋店長(?)が作った弁当の入ったバスケット。
海鳴大学病院のとある若い女医が当直の晩の恒例となった行事である。
「恭也くんと一緒に北海道に行ってから夜は怖くなくなったの。だからとっても恭也くんには感謝してるわ」
ことあるごとにフィリスはそう言う。
「でもね、当直の時に恭也くんに来てもらえる理由が減っちゃったのが不満なの」
そう言うとぷぅっと頬を膨らませるフィリス。
「だって、ナースさん達ったら『高町さんだってお忙しいんですから、子供みたいに駄々こねて呼んじゃ駄目なんですよ』
なんて言うのよ。別にそんなんじゃないのに……」
恭也はそんなフィリスを見て思わずほほが緩んでしまう。
「あ〜、恭也くんまでそうやって笑うのね……もう意地悪……」
そういいながらもフィリスの目も笑っている。
実戦剣術、小太刀二刀御神流の師範代、高町恭也と海鳴大学病院の若手ドクター、フィリス・矢沢が付き合い始めて
からもうどのくらいになるだろう。
恭也の周りからは、もうそろそろいい加減に婚約してしまえ、という妬みともやっかみとも取れるつっこみが容赦なく降
り注がれている。
最近では、大学の中でも
「あ、高町ね。あいつは売約済みだから」
などという話が公然と飛び交っているらしい。
恭也自身、噂の出所は薄々は感じてはいるのだが、出所に仕えるメイドさんのロケットパンチと妹のなのはの
「忍おねえちゃんをいじめちゃ駄目だよ」
という一言で逆襲に転じられないという、御神流師範代としては実に情けない状態である。
恭也自身も
「それでもいいか。煩わしくないし」
などと半分不謹慎な事を考えている節も無きにしも非ずではある。
ただ、恭也自身も、そろそろ本気で婚約を考えないと……という気持ちは持ち合わせていることはいうまでもない。
「……はぁ……美味しかった。ごちそうさまでした」
「ごちそうさまでした」
フィリスと恭也は空になったお弁当箱を目の前にして手を合わせる。
フィリスは必ず「いただきます」と「ごちそうさま」を言うときには手を合わせている。
そういえば不思議だな、食事の前後に必ず手を合わせるなんて。最近は食事の前に挨拶をすることすら忘れている
ことだって多いのに。
恭也はそう考えていた。
恭也がそういう習慣なのは、武術家としてごく自然なことだ。
武術家たるもの、自分が生を受け、武術の鍛錬に勤しむことが出来るのは森羅万象の賜物であるのだから。
でも、フィリスが、なぜそういう習慣を持っているのか……
疑問を禁じえなかった恭也はフィリスに訊いてみることにした。
「先生、食事の前と後に必ず合掌されますでしょう。どうしてなんです?」
フィリスはちょっと恥ずかしそうな顔をする。
「わかっちゃった?あのね、実はこれ、おばあちゃんに教えられたの」
「おばあちゃんというと矢沢先生のお母さん……ですか?」
「ええ、わたしが研修医の頃に亡くなっちゃったんだけど」
そこまで言うとフィリスは窓の外に目線をやって、ちょっと遠い目をする。
「……わたしって養子でしょ、実の孫じゃなかったわたしにもとっても優しくて、事あるごとに『生きるってことはいろんな
もののお世話になることなんだよ。だから、いろんなものに感謝しなくちゃ駄目なんだよ』って教えてくれた」
「そしてね、おばあちゃんはこんなふうにも教えてくれたの……」
あれはわたしが矢沢先生の所に養子に来たばっかりのころ。
わたしは静岡の施設で社会生活のための訓練とか教育を一通り受けてきてはいた。一応中学生レベルくらいの教育
と社会常識は身につけていたはず。
で、海鳴に来て、義父さんと義母さんの方針で、わたしはごく普通の公立の中学校に転入することになった。
もちろん、それまでの書類は形だけでも作り上げて……
転入初日からわたしは周りの生徒たちの好奇の目に晒される事になった。
それは成績のせいでもなんでもない。
ただ、わたしの髪が銀色で、わたしの肌が透き通る様に白いというだけで。
「『フィリス』っていうなら外国にいたんだろ。一日英語だけで生活してみろよ」
などと言われてみたり、
「髪が銀髪ならきっと下の毛だって銀色に違いないな」
なとどいう謂れもない詮索を受けることは日常茶飯事だった。
そんな状況が一月も続いた頃だろうか、わたしは学校にいく頃になると体調の変化を覚えるようになった。
いわゆる登校拒否である。
学校に行くと、またあることないことを言われなくちゃいけない……
それが嫌で、それが怖くて……
そんな日が一週間も続いただろうか。
部屋に閉じこもったままのわたしにおばあちゃんが声をかけてくれた。
「フィリス、ちょっとおいで」
恐る恐るおばあちゃんの前に出たわたしにおばあちゃんはこういった。
「ちょっとあたしと一緒にお風呂に入らないかい?」
「……?」
なぜにお風呂に?
わたしは正直言って面食らってしまった。
おばあちゃんと久しぶりに入るお風呂。
ちょっと狭いけれど、でも、なぜかほっとしてしまう。
「フィリス、髪洗ってあげようかね」
「え?わたししますから」
「いいのいいの、あたしがしたいんだから」
そういうとわたしの髪を洗い出すおばあちゃん。
でも、いつもと感じが違う……
いつもなら、シャワーで下洗いして、シャンプーつけて本洗いして、流してリンスして……もう一度シャワーで流して…
…
「はい、フィリス、できたよ」
「……」
わたしは息を飲んだ。
銀色だったわたしの髪……それが真っ黒になっている。
「……おばあちゃん……」
「フィリス、たまにはこんなのもいいんじゃないかね」
おばあちゃんが笑っている。
お風呂から上がって、髪を乾かして普段着に着替えたら、またおばあちゃんから声がかかった。
「フィリス、ちょっと一緒に出かけないかい?」
「はーい」
もうわたしは面食らうこともなく、二つ返事で一緒に出かけることにした。
おばあちゃんはわたしよりも前に立ってどんどん進んでいく。
おばあちゃんってこんなに早く歩けたんだ、そんなふうに思えるほど。
そして、着いたのは……行きたくないと思っていた学校。
校門から校庭を眺めると、ちょうどわたしのクラスが体育の授業中。
女子は……一〇〇メートル走の計測中かしら。
男子は何してるのかな?トラックを走ってる。
わたしはそれをしばらくぼんやりと眺めている。
そうするうちにチャイムが鳴った。
整列して、先生に礼をして、みんなが校舎に帰ろうとする。
これでホームルームが終われば放課後。
そのときだった。
クラスメートの一人がわたしを見つけた。
「フィリスちゃーん」
そういいながら駆け寄ってくる彼女。
その声を合図に、男子も女子もクラスのみんなが駆け寄ってくる。
「矢沢、何で休んでたんだよ。心配したぞ」
「明日からは来いよな」
「フィリスさん、髪染めちゃったの?わたし銀色好きなのに」
「矢沢、知ってたか?こいつな、矢沢の銀の髪の毛、お守りにしてるんだぜ」
「あーてめぇ……言うなって言ったろ!!」
「へっへー」
顔を真っ赤にした男の子。
「元気そうでよかった。また一緒にお弁当食べようね」
みんなからの矢継ぎ早の言葉……
「……うん……うん……」
わたしの目からは自然に涙がこぼれていた。
「うん……明日は必ず来るからね……」
みんなに囲まれて……みんなと抱き合って……みんなと握手して……
わたしの顔はきっとくしゃくしゃになっていただろう。
そして、わたしはみんなと別れた。
帰り道すがら、おばあちゃんが声をかける。
「どうだい、フィリス?髪の色くらいでみんなあんたを見逃したりしたかい?」
「……ううん……」
「あんたはね、もう立派な仲間なんだよ。髪の色が普通とちょっと違ってて、それがちょっと珍しかっただけ」
「……うん……」
「あんた、自分がたった一人だって思ったりしていなかったかい?」
「……うん……」
「あんたの髪の毛お守りにしてるって男の子も居たみたいだけど、みんな、あんたのことが気になって仕方ないんだよ」
「……」
「あんたがほかの人を気になるように、みんなほかの人が気になって仕方がないのさ」
「……」
「だからちょっかいも出す……気になればなるほど……ね」
「あたしもそうだったっけねぇ。おじいさんのことが好きになって、どうしてもこの人じゃないと駄目だって、何度も何度も
懸想文書いてね」
「何度『私は医学の道を究めたいのでお付き合いできません』って返されたかねぇ」
そういうとおばあちゃんはけらけらと笑う。
「でも、ついに根負けさせてお付き合いするようになったってわけ」
「……そうだったの」
わたしはちょっとにっこり。
「フィリスや、人っていうのはね、相手の人のことが気にならなかったら何の反応もしないものなんだよ。相手の人が気
になるから、相手の人が好きだからいろいろおせっかいも焼くし、ちょっかいだって出すもんなんだよ」
「……うん……」
「お義父さんだってそうじゃないかい?人が好きだから医者なんてやってるのさ。好きじゃなければ医者なんかじゃなく
て生化学者でもやってるよ。あの子はそういう子さ」
「……うん」
「だから、フィリス、たくさん人を好きにおなり。なんたってあんたはあたしの孫なんだから。自分から人を嫌いになっちゃ
いけないよ」
「……うん……うん……おばあちゃん……ありがとう」
わたしはおばあちゃんの胸に飛び込んで泣き出していた。
「こらこら、こんなに大きくなった子が泣いちゃおかしいじゃないか」
そう言いながらもおばあちゃんは気の済むまでわたしを泣かせてくれた。
「だから……わたしはいろんなものが好き。だから、いろんなものに感謝したい……」
フィリスはそういうとココアに口をつけてまた話し始める。
「だから、今のわたしがあるのはおばあちゃんのおかげ」
「……そうですか……」
「でも……」
おばあちゃんの体の調子が悪くなって海鳴大病院に入院したのはわたしが研修医一年生のとき。
病名は……非小細胞性肺癌……
それも発見が遅かったから、まず治癒の見込みはない。
一応医者だから……義父さんに呼ばれておばあちゃんの胸部CTを見せられたときに、手術は無理だろうなって思っ
た。
それは義母さんも同じ意見だった。
これをどうやっておばあちゃんに告知するかが一番の問題だった。
「……やっぱりおれが告知するか……主治医だし」
義父さんが覚悟を決めたようにボソッと言った。
「……あの……義父さん、わたしに言わせて」
「フィリス?おまえがか?」
「だいじょうぶなの?」
「……うん……あんまり自信はないけど、でも、わたし、おばあちゃんにとっても優しくしてもらった。だから、わたしから
伝えたい。おばあちゃんのためにも」
「そういうなら、任せようか。母さん、いいかな」
「ええ、フィリスがそういうなら」
そして、翌日、わたしはおばあちゃんの病室の前に立っていた。
こんこん
「どうぞ」
おばあちゃんの声。
「おばあちゃん、おはようございます。フィリスです」
「すっかりお医者さんらしくなったねぇ」
目を細めて笑って言うおばあちゃん。
「ご飯食べられてます?」
「そうだねぇ、できたらフィリスのご飯が食べたいかね」
「うふっ、じゃ、こんど内緒で持ってきちゃおうかしら」
「そう願いたいね」
二人でちょっとの笑い。
「あのね、おばあちゃん」
「なんだい、フィリス」
「今日はね、おばあちゃんの病気のお話をしに来たの」
「あぁ、そうだね、フィリスはお医者さんなんだものね」
「ええ、でね、ちょっとこれを見て欲しいの」
ビューアーにCT写真をセットして灯りを点ける。
「あのね、これ、おばあちゃんの胸の写真なの。で、この白くなっているところが病気」
「そうかい」
「正直に言うわね。おばあちゃん、あのね……この白いのってガンなの」
「……やっぱりそうかい」
「……おばあちゃん……」
「あたしだって医者の妻ですからね、自分の体の具合からどんな病気なのかくらいは想像できますよ」
「……おばあちゃん……」
「で、フィリス、あとどのくらいなのかね?」
「……あと……長くて……一年……」
「そうかい。じゃ、充分だね」
「……え?」
わたしはおばあちゃんの反応にびっくりした。普通はとてもこんな反応は出来ないというのに。
「今までフィリスがあたしに甘えた分、あたしが甘えさせてもらうのには充分だね」
そう笑顔で言うおばあちゃん。
「……うん……おばあちゃん……いっぱい甘えてね……」
わたしのほうが涙声だった。
それからというもの、わたしは時間が取れるとおばあちゃんの病室に行っていた。
いっぱいいっぱい話をした。
おばあちゃんとおじいちゃんの馴れ初めから、義父さんと義母さんの馴れ初めとか……
そして、それから八ヵ月後、深夜のICU……
酸素吸入器をつけられたおばあちゃんが目の前のベッドに横になっている。
周りには義父さんと義母さん、わたし。
おばあちゃんが口を動かして……何かを言いたそうにしている……
「フィリス……おばあちゃんと話しなさい」
義父さんが呼ぶ。
「おばあちゃん……なあに?」
「フィリスや、あたしはね、あんたが孫で本当によかったよ。いろいろありがとうね」
「おばあちゃん、わたし、まだ何にも恩返しできてないのに……」
「……そんなことないんだよ……いっぱい恩返ししてもらったよ、あたしは」
「……約束したじゃない。おばあちゃんに曾孫の顔見せるんだって……」
「そうだったっけかね……じゃ、上から見させてもらうからね……」
「……」
「フィリス、あんたは一人じゃないからね。……いつもあたしが一緒にいるからね」
「……うん……うん……」
「それじゃぁね……ありがとう……」
そういうとおばあちゃんはゆっくりと目を閉じた。
心拍計の信号が停まる……
当直の藤島先生が瞳孔反射を取る。
「……お気の毒ですが……ご臨終です」
時間は午前一時三十二分だった……
不思議と涙は出なかった。ただ、これでもう、おばあちゃんとお話が出来なくなるんだという空虚な感情だけがわたし
を支配していた。
葬儀は気がつくと終わっていた。あわただしくって……
そして……おばあちゃんのいない日常が動いていった……
それが普通であったかの如く。
「先生……明後日ってお時間ありますか?」
恭也が突然フィリスに尋ねる。
「……うん……大丈夫だけど……」
「俺にもご挨拶させてください。そんなおばあちゃんだったらぜひご挨拶させて欲しいです」
「……恭也くん」
「それに……そんなおばあちゃんなら、ぜひ自己紹介しておかないとあとでなにを言われるか」
「あはは……そうかもね」
二人は緑茶とココアを飲む。
二人で一緒にいられることの幸せをかみしめながら。
二日後の雨のそば降る日、フィリスと恭也の姿がとある寺の墓所にあった。
面前の墓石には「矢沢家代々之墓」
そして……真新しい卒塔婆と花を供えて、数珠を携えたフィリスと恭也が一心に祈りを奉げていた。
「おばあちゃん、フィリスは元気です。あのね……今隣にいる人と、わたし、一緒になります。高町恭也さんっていいま
す。おばあちゃんならきっと気に入ってくれるわよね……曾孫出来たら絶対に見せに来るわね。おばあちゃん楽しみに してたものね。忙しくてなかなか来れないかもしれないけれど、またお盆には必ず来ますね。おばあちゃんの教えを守っ てフィリスは頑張ります。応援してくださいね」
「はじめまして。高町恭也と申します。フィリス先生とお付き合いさせていただいています。俺にどこまで出来るかはわか
りませんが、フィリス先生を精一杯愛して、精一杯護るつもりです。そして、一生フィリス先生を愛し続けます。こんな俺 ですが、お力をお授けくださいますようお願いいたします」
駐車場に戻る道すがら、どちらともなく話し始める。
「ねぇ、恭也くんは何をお話してたの?」
「よろしくお願いします……って少なくとも身内になるのは間違いないし……」
「わたしも恭也くんをよろしくねって。だって……ねぇ……」
二人は笑みを浮かべながらお互いの顔を見合わせて……そしてキスを交わす。
お互いの信頼を改めて確認するように。
さっきまで冷たかった春雨はいつの間にか二人を応援するかのように温かみを含んだ雨に変わっていた。
(初出 天使のささやき)
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