秋晴れ



Written by 春日野 馨


 中庭の欅も葉がほとんど落ちてしまって、あたり一面落ち葉の絨毯状態。
 さすがにスーツだけだとちょっと寒くなってきている。
 晩秋というよりも初冬と言った方がいいだろうか?
 午前中の外来診察が終わってのお昼休み、わたしは中庭のベンチに座って何をするでもなくぼんやりとしていた。

 今くらいの時期になるとわたしは思い出すことがある。
 あれは風校時代のこと……
 いまになって思えば憧れだったのかもしれない。わたし自身にないものを持った人への憧れ。
 でもそのときは真剣だった。それしかないと思っていた。そうして……今がある……
 そんなわたしの過去の一ページ……


「フィリス、好きな人なんているの?」
「……え?」
 お昼休みの他愛のない世間話の最中に出た一言にわたしはどきりとする。
「だってフィリス、最近とっても綺麗になったんだもん」
「あ、そうよね。私もそう思う」
「ねぇねぇ、どんな人なの?そっと教えて」
「あんたに話したら放課後までに学校中に広まってるわよ……」
「それってあたしがスピーカーだってこと?」
「……そうともいうわよね」
「ひっどぉい。あたしそんなにおしゃべりじゃないわよ」
「あんたがおしゃべりじゃないなら太陽が西から昇るわよ……」
「ぐぅ……で、本当のところはどうなの?」
「……え?ううん、まだ……まだなの……」
「そうか、まだかぁ。フィリスはとっても可愛いし、あたしが男なら言い寄っちゃうんだけどなぁ」
「……なに、あんたそっちの気もあったの?付き合い方考えようかな」
「なによ、言葉の綾じゃないの、そういうあんたこそどうなの?」
「ん〜、私はね……」
 そう……まだなの……まだ告白していないだけ……

 わたしはフィリス・矢沢。風校の三年生。
 センター試験があと二ヶ月弱に近づいてきたのもあるのだろうけれど、推薦で進学先の決まった人たちは残り少ない
風校生活を存分に楽しもうとしているみたいで、一般入試組はこれからが本当の追い込みに入るせいかぴりぴりしはじ
める。今がちょうどそのぎりぎりの境目。

「ったく、推薦で決まったお方はいいわよねぇ。何であんたが推薦で私が一般組なの?試験官の目って節穴じゃないか
しら」
「あら……言ってくださいますわね。この品行方正、成績優秀なあたしをつかまえて」
「……あんたがそうなら留年するのっていなくなると思うんだけど……」
「そうそう、フィリスは勉強進んでる?」
「……ううん、ちっとも……」
「フィリスは成績いいもの。きっと東京の理3だって余裕で合格よね」
「私もそう思うんだけど……どうして海鳴なの?」
「それは……その……」
「あ……前に話してたわよね。お義父さんのお手伝いしたいって」
「……うん、そうなの」
「やっぱりフィリスって優しいわぁ。今度爪の垢くれない?煎じてこいつに飲ませてやるから」
「……あら……そのお言葉、そっくりそのままお返しいたしますわよ」
「……ふふ……」

「おーい、サッカーやるぞー」
「あ〜俺も入れろ〜」
 その声を聞いたとたん、わたしの胸は早鐘のようにどきどきしだす。
「お前も来るのかよ、頼むから手加減しろ」
「やだねっ、今日こそは絶対ゴール割ってやる」
「お前上手すぎなんだよ。まぁ、ジャパンの強化候補じゃ俺たちとはレベルが違うからなぁ」
 そんな会話をしながらわたしの前を通り過ぎていく男の子たち……
 その中の一人をわたしは目で追っていた。もちろん誰にも気づかれないようにして。

 その日の授業も無事に終わった。いっしょに帰ろうという友人たちと用事があるということにして別れたわたしは外周
道路をグラウンドのほうに向かっていた。
「おら〜もっと早く縦に出せ〜。そんなんじゃ日が暮れるぞ〜」
 わたしは無意識に声のするほうを向いていた。声の主を探す。
 いた……彼だ……
 今頃の季節は日が短い。四時になるともうあたりは暗くなってくる。そんな落ちかけて赤みを帯びた陽を浴びて、彼が
ボールを追っていた。
 グラウンドに長い影が伸びている。彼が誰よりも早くボールに詰めていき、そしてキープしてタッチライン沿いを上がっ
て行く。
 あとからやってきた選手がゴール前に位置取りをして……チラッとそれを見た彼がゴール前にクロスボールを上げ
る。
 ディフェンダーとの競り合い……残念ながら大きくクリア。
 彼はそれを見て全速力で下がっていく。そのくりかえし。

 わたしはそれを練習が終わるまで見つめていた。


 その晩、どうしても勉強は手につかなかった。考えるのは彼のことばかり。
 わたしは一念発起して手紙を書いた。
 わたしの想いを綴った手紙。
 そして、明日が晴れならこれを渡そう……そう決心した。
 ……その晩は一睡も出来なかった。

 翌朝のこと、徹夜明けのわたしには目が痛くなるくらいの秋晴れ。
 わたしの食欲がないのを心配した義母さんに、「今日小テストがあるので夜更かししすぎたから」と言い訳をして学校
に向かった。
 かばんの中には昨夜一所懸命に書いた手紙。

 授業もお昼休みのおしゃべりも上の空だった。
 早く放課後になって欲しい……そればっかりを考えていた。
 そして……放課後……
「昨日いっしょに帰れなかったので今日はどうしても」
という友達の攻勢をかわしきれずに結局一緒に帰る破目になってしまった。

「じゃ……また明日〜」
「さよなら〜」
 友達と別れて風校に取って返す。
 まだ練習終わってないよね……まだ彼……いるよね……
 はやる気持ちとあたりが暗くなるのに比例するように歩みがだんだん速くなる。最後には駆け出していた。

 そうして、グラウンドに着く。
 よかった……まだ続いてた……わたしはほっとする。
「よお〜し、今日はこれで終わり〜、しゅ〜ご〜」
 走ってきたせいで上がった息を落ち着かせる間もなく、練習が終わった。

 そうして、わたしは校門に回って待っていた。
 でもなかなか彼は出てこない……
 お願い……一人で来て。そうじゃなきゃ渡せないから。そう願い続けていた。
 
 やっと彼がやってきた。かばんを肩に引っ掛けて。
 がんばれ、フィリス。手紙渡すって決めたんでしょ?
 自分にそう言い聞かせて……でも、彼ったら思ったよりも歩くのが早い。近寄ろうとしたら先に行かれちゃった。
 ちょっとあとからついていって人通りが少なくなったところでちょっと走って声をかける。

「……あの……」
「はい?」
「あの……」
「あれ?矢沢さん?」
「はい……」
「どうしたの?部活やってなかったよね」
「……はい……」
「何かあったの?」
 ……そうなんです……あったんです……いいたくても言葉が出てこない……
「うち、こっちだったっけ?送っていくよ」
 うなづくのが精一杯。フィリス、どうしたの?
 無言で彼としばらくいっしょに歩いて、気持ちが落ち着いてきて、でも胸の動悸は止まらない。
 胸の音……聞こえちゃっていないかな……こんなにどきどきしてて……

「じゃ……俺このへんで」
 突然彼がそう告げる。
「……まって……」
 やっと言えた。
「あの……これ……読んでください……」
 彼に手紙を差し出す。
 彼はうなづいて受け取って、目の前で読み始めてくれた。
 わたしはそれをじっと見つめていた。いや……動けなかったというほうが正確かもしれない。

「……矢沢さん、ありがとう。俺、嬉しいよ」
 そこで彼は大きく息を吸った。
「……でも……ごめん。せっかくの想いだけど応えてあげられそうにないから。知ってると思うけど、俺は自分の力でジ
ャパンをワールドカップに行かせたいんだ。思い上がりかもしれないけど」
 彼はそういうと空を見上げる。
「そんな夢があるから。だから俺は海鳴にいられそうにない。筑波に行くことが決まってるんだ」
 彼は視線をわたしに向ける。
「だから気持ちはとっても嬉しいけど、何かあったときに俺は矢沢さんを守れない……だから……ごめん」
 彼はそういうと深々と頭を下げる。
「……うん……わたしこそありがとう……がんばってね。わたし、応援してるから」
「ありがとう、矢沢さん」

 そうしてわたしは彼と別れた。
 歩いていると、自然と目頭が熱くなってくる。
 目の前の景色が滲んでくる。
 目から水滴が落ちてくる。
 しゃくりあげてしまう……
 どこに行くでもなく歩き回る。
 そうして気がつくと、わたしは展望台に立っていた。

 わたしはぼんやりと海鳴の街の明かりを見つめている。
 彼にわたしの想いは伝えられた。でも、叶わなかった。
 誰が悪いんじゃない。それはわかっている。誰も悪くなんてない。ただ……彼には何者にも勝る夢があったから。
 それだけだというのに……

「あれ?フィリスちゃん?」
 突然声をかけられる。
「あ……やっぱり。おひさしぶりー。どうしたの?こんな時間に」
「……愛……さん」
 それまで必死でおさえていた箍が外れた。
 わたしは愛さんにしがみつくと大声で泣き始めた。


「あ……こんばんは……愛です。いつもうちのリスティがお世話になってます。あの、ほかでもないフィリスちゃんのこと
なんですが、実は展望台で見かけまして、今さざなみに来てもらっているんですよ……ええ、学校で何かあったみたい
で。で、もしよろしければ今晩はこちらでお泊めしようかと……ええ、明日はお休みですから……ええ、うちは一向に構
いません……はい、ありがとうございます。それじゃ先生にもよろしくお伝えください……はい、ごめんくださいませ」
 愛さん、うちに電話してる。義母さん、心配してたんだろうなぁ……ごめんなさい。
「まぁ、そういうことだから心配しないで泊まってけ。そうだ、夕飯まだだろ?お〜い耕介〜、何か作ってやれよ〜」
「はいはい、もうやってますよ、真雪さん」
「……すみません」
「いいってこと。うちは愛を筆頭におせっかい焼きが多いからな」
「真雪さんもそのひとりですよね」
「愛〜、それを言うなって」
「だってそうでしょ?ね〜、耕介さん」
「あはは、どうでしょうね」
 耕ちゃんの笑い声。暖かい……
「あー、フィリス、久しぶりー」
「おう、知佳も来たのか」
「おにいちゃん、私もおなか空いちゃった。フィリスといっしょしちゃ駄目?」
「……知佳……太るよ。燃費の悪い誰かさんと違うんだから」
「リスティ〜、誰が燃費悪いねん」
「……みなみ」
「こんの餓鬼〜言わせておけば〜」
「あはは、ここまでおいで〜」
「またいつものじゃれあいが始まったのだ〜。フィリス、なにがあったかわからないけど元気出すのだ」
「はい、できたよ。知佳もいっしょに食べるんだよな」
「うん、おにいちゃん、ありがと」
 あぁ……わたしはひとりじゃないんだ……なぜかそんなことを考えていた。

「おう、食べたか。食欲があるってことは大丈夫だな。じゃ、次はこれだ」
 目の前に一升瓶が出てくる。
「耕介〜、何かつまむもの頼む〜」
「ったく……真雪さん、未成年に呑ませるんですか?」
「……耕介、お前いくつから呑んでた?」
「……はい……作ります……」
「真雪〜、ボクもいっしょにいい?」
「おう、ぼうず、やるか」
「まゆきさんっ!!」
「おう、愛もいっしょにやろう。今日はフィリスの失恋祝いだ」
「まゆおねえちゃん……」
「……あの……真雪さん……」
「あぁ……言うな言うな。耕介〜、愛と知佳も参加だ。頼むぞ。……まぁ、呑んで忘れろよ。それが一番さ」
「すみません。でもわたし、お酒って初めてで……」
「じゃ、無理には呑むなよ。ちょっと気持ちよくなったかなーってところでやめとけば大丈夫だからな」
「……はい……」
「めいめい猪口はいったか?じゃ……かんぱーい」
「かんぱーい」

「フィリス、いったいどうしたんだ?」
 わたしの隣に席を換えて、真雪さんが訊いてくる。
「あの……こんなことお話してもいいのかわからないんですけど」
「……いいってことよ。だから酒出したんだからな。酒は人生の潤滑油」
 真雪さんがにやっと笑って煙草に火をつける。
「じゃ・・話します。あの……同じクラスの人なんですけど……」
「うん……」
「サッカー部の人で、代表の強化候補に選ばれている人がいるんです」
「あぁ……いたな……そういえば。次のW杯の中心だろうって言われてるな」
「はい……わたし、その人が好きなんです……」
「で……告白して……」
「……はい……でもサッカーに集中したいし、海鳴にはいられないからって……」
「……そうかぁ……でも、想いは通じたのか?」
「……わかりません。でも、ありがとうって言ってくれたんです」
 わたしはお猪口のお酒にちょっと口をつける。真雪さんはぐいっとお猪口をあおると手酌でお銚子からお酒を注ぐ。わ
たしの呑んだ分もちょっと足してくれて。
「そうか。じゃ、きっと気持ちはわかってるよ。そうじゃなければ『ありがとう』って台詞なんてでてこねえ」
「……」
「で、フィリスちゃんとしてはあきらめるのか?」
「……あきらめたくないです。でも……」
「彼のためなら・・か?」
「……はい」
「その考え方は否定はしない。でも、この人だと思ったら有象無象を押しのけて自分が独占するんだというくらいでいっ
たほうがいいかもしれないな」
「……そうでしょうか」
「そんなもんだよ。まぁ、そのうちわかるさ」
「はい……」
「じゃ……その彼の活躍とフィリスちゃんの初恋に、乾杯」
「はい……ありがとうございます」

 それからはさざなみ寮は大宴会状態。私も呑んだことないお酒を呑んじゃって……はじめの真雪さんの注意なんてす
っかり忘れてて、翌朝は頭が痛くて仕方なかったっけ。


「フィリス先生、お時間ですよ」
 ナースの小野寺さんが呼びに来てくれる。
「あ……ごめんなさい。ちょっとぼーっとしちゃった」
「先生、ほかの日はいいですけど、今日だけは駄目ですよ。午後一番で高町さんがいらっしゃるんですから」
 ちょっと笑い声で小野寺さんが釘を刺す。
「あ……そうよね……いっけない。すぐ戻るわね」
「はい、準備して待ってますね」
「あ……小野寺さん、サッカーのイングランド戦、どうだった?」
「勝ちましたよ。和歌山のゴールで」
「アシストは?」
「ええ、戸谷さんです。新婚アシストですね」
「ありがとう。よかった」
「ええ、よかったですよね」
 そういって笑いながら小野寺さんが下がる。

 戸谷くん、ありがとう。そしてご結婚おめでとう。今でも応援してるからね。
 そして……ほんのちょっとの違いですれ違っちゃったけれど、あなたといっしょの時間を過ごせてよかった。
 次の試合は国立よね。チケットありがとう。きっと応援に行くからね。そして……恭也くんを紹介するから。
 恭也くんとあなたってどこか似てる気がする。
 きっと……夢に忠実なところなのかしら……

「高町さん、高町恭也さん、5番へどうぞ」
 小野寺さんの声がする。
 今はそう、恭也くんの診察をして……そして、次の国立の試合に誘わなくっちゃ。
 深呼吸して、さぁ、がんばろう。

 わたしもあなたみたいに夢を追い続けたいから……

 外は秋晴れ。ちょっと寒いかもしれないけど。
 試合当日、晴れるといいな……秋晴れで。空とスタンドが一体になるくらいに青空だといいな。ジャパンのユニフォー
ム着ていくからね。精一杯応援するからね。
 

 がんばってね。わたしもがんばるね。
 ……あ・り・が・と・う……







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