Written by 春日野 馨
あん、何でもう大晦日になっちゃったのかしら。
まだ大掃除だっておせちの準備だって何一つ出来てないのに。
あぁ、もうお昼過ぎちゃった。あと十二時間切っちゃったわ。急がなくちゃ。
お昼食べてる暇なんてないかも。
わたしはフィリス・矢沢。海鳴大学病院の医師。
で、よりによって昨夜は当直でついさっき帰ってきたばっかりだったりする。
スーツから急いでトレーナーとジーンズに着替えてエプロンを着ける。
手始めにまずは大掃除からね。
でも、そんなに徹底的になんて出来ないから、とにかく前から気になっていたところを中心に進めることにする。
キッチンの換気扇はこの前掃除したばかりだから、とにかくガスレンジと流し台回り。
それが終わったら窓拭きをして掃除機をかけて、玄関のお掃除をして、それでやっとお正月飾りがつけられるはず。
早速ガスレンジのお掃除から。五徳をはずして簡単に分解して、洗剤を吹き付けてナイロンたわしでこする。
いつも気がついたら軽く拭き掃除をしているとは言うものの結構隅の方は汚れている。これだから大掃除って必要な
のかもね。そんなことを考えながら、力を入れてこする。
ふぅ、何とか落ちてくれそう。でも、猫の手も欲しいくらいなのは変わらないんだけど……
ちょっぴり安心したのもつかの間、携帯電話の着信音……なんだってこんなに忙しいときに……そんなことを思いな
がら電話に出る。
「はい、矢沢です」
「お忙しいところすみません。恭也です」
「恭也くん……」
「あの、先生、何かお手伝いできることなんてありませんか?」
わぁ、願ってもないお話。とっても嬉しくなる。
「ええ、でも恭也くんはいいの?」
「うちのほうは終わりましたし、先生、ここのところお忙しかったですから気になって。もしよろしかったら暇にしてるのを
若干二名ほど連れて行きますが」
「えっ、本当に?とっても嬉しい。是非お願いするわ」
「じゃ、これからお伺いします。……そうだ、何か買い物なんてありますか?」
「うーん、今のところはないかしら。じゃあ、待ってるわね」
電話が切れる。
うふふ、きっと来るのはレンちゃんに晶ちゃんね。なぜかそんな気がする。
恭也くんって日ごろはぶっきらぼうなくせに、なぜかこういうときに限って助けてくれるの。だから恭也くんってとっても
誤解されやすいんだと思うけど、こうやってお付き合いしてみると、本当はとっても優しいんだなぁってことがよくわか る。
あっ、いけない、手がお留守だった。恭也くんたちがくるまで少しでも進めておかないと。
二十分くらいたっただろうか、表で車の停まる気配。ドアの開閉音と、それからチャイムの音。
「はぁい、開いてるわよ。どうぞ」
ちょっとはしたないけど声だけで答えてしまう。だって、手が離せないから。
「フィリスせんせ〜、お邪魔します」
ちょっぴり心地よい感じの関西弁。これはレンちゃん。
「お邪魔しまーす」
この元気な声は晶ちゃんね。
「先生、お邪魔します」
で、これが恭也くん、と。
どうやらメンバーは揃ったみたい。それじゃ、あらためて戦闘開始っ。
「せんせ〜、リビングの窓拭き、終わりました〜」
「じゃ、和室の障子お願い」
「襖張りあーがりっと。次はどこですか?」
「廊下、ワックスお願い。あっ、恭也くん、箪笥動かして」
「これですね。せいっ……」
……正味三時間ちょっとの戦闘で無事にわたしたちは大掃除という難敵の撃破に成功した。鏡餅をお供えして、注連
飾りをつけて、これで完成。
「……恭也くん、レンちゃん、晶ちゃん、どうもありがとう……」
すでにわたしは疲労困憊状態。それなのに、何でレンちゃんや晶ちゃんは元気なのかしら。恭也くんは男の人だから
わかるけど……
「いえいえ、そんなお安い御用ですよ。な〜、晶」
「そうですよ。俺たちにかかれば大掃除の一つや二つ、朝飯前です」
やっぱり若さなのかなぁ……ちょっぴり悔しいけど。
「でも、せんせ、これで無事に年、越せますね」
「おい、大事なこと忘れてないか?」
「大事なことゆうたら……そうや、忘れとった。せんせ、おせちの準備、できてます?」
あっ……すっかり忘れてた。でも、こんな状況じゃとても今からだと出来そうにない。
でも、いくら一人とはいってもやっぱりこれだけは……お正月だもの。
「……それが、まだなの……仕方ないからこれから買いに行かなくっちゃ。今年は出来合いでも仕方ないわ」
「あの、せんせ、桃子ちゃんが『もしうちので良かったらお分けします』言うてはりましたよ。まぁ、作ったのはこのおさる
ですんで、味のほうは保証でけへんですけど」
「このカメ、言うに事欠いて何抜かす。まぁ、フィリス先生のお口に合うかわかりませんけど、よろしかったら……」
わぁ、本当?すっごく嬉しい。晶ちゃんの作なら絶対に間違いないから。だって、いつも美味しいお料理を作ってる高
町家和食料理長ですもの。でも、何か悪いみたい。
「……でも、いいの?」
「それはご心配なく。かーさんがそう言ってましたし、毎年、翠屋の皆さんに持って帰っていただくくらい作りますから」
「……それじゃ、お言葉に甘えちゃっていいかしら」
「ええ、そうぞどうぞ……って、これ、うちが言うことやあらへんな」
みんなが笑いに包まれる。ああ、こういうのってやっぱりいいわね……ほとんど一人暮らしだと、家族っていいなぁって
思ってしまう。
「それじゃ、大掃除も終わったことですし、うちにいらっしゃいませんか?」
と恭也くん。
確かに、おせちもいただきにお邪魔しなくちゃいけないし、ちょうどいいのかな?
「それじゃ、お邪魔させていただいていいかしら」
「フィリスせんせやったらうちはいつでも大歓迎ですよって、遠慮なんかせんといらしてください」
「おい、それはお前の台詞か?」
「あ、あかん、またやってもうた」
また笑い。不思議よね、こんなふうに明るい気持ちになれるのって。
それから恭也くんの車に乗って高町家に着いたのはもう夕方の五時を過ぎていた。年末のこの時期じゃもうあたりは
真っ暗。恭也くんは車にガソリンを入れてくるとかで私たちを降ろすと出かけていった。
「桃子ちゃん、ただいま〜」
「ただいま帰りました」
「こんばんは」
「あ〜、フィリス先生、いらっしゃい。二人ともお疲れ様。恭也は?」
「師匠ならガソリン入れにいかれましたよ」
「そう、じゃ、じき帰ってくるわね。さ、先生、どうぞ」
「あっ、すみません、お邪魔します」
桃子さんに促され、早速お邪魔してしまう。
なぜか高町さんのところの雰囲気ってよそのお宅のような気がしない。わたしがホームドクターだというせいもあるの
かもしれないけれど、それでもこんなに明るくて雰囲気のいいお宅は珍しいと思う。
お茶をご馳走になってちょっとお話して、それからおせちを分けていただく。
数の子、昆布巻き、栗きんとん、白豆、黒豆、お煮しめに田作り、紅白かまぼこに伊達巻まで。三段のお重に入りきら
ないくらい。お雑煮にってお出汁と三つ葉までいただいてしまった。
こんなにたくさん頂戴しちゃったから、せめてお代でも……と言おうとしたら逆にこう言われちゃうし。
「先生、うちの家族が健康でいられるのも先生がいらっしゃるからなんですよ。ですから、そのご恩返しのつもりですの
で、お気になさらないでください」
「でも……」
「それに、恭也が明るくなってきたのも先生とお付き合いさせていただくようになってからなんですよ。やっぱり母親とし
ては嬉しいですから」
「……それじゃ、遠慮なく……」
結局押し切られちゃった。
桃子さんって、意外と押しが強いのよね……でも、そうじゃなくちゃあれだけ繁盛する翠屋を切り盛りしていけないか
も。わたしは翠屋厨房の桃子さんって知らないけど。
「桃子さん、仕度できました。師匠も戻られましたから」
「あー、晶ちゃん、ありがと。じゃ、そろそろご飯にしましょ。今日は晶ちゃん手打ちのお蕎麦ですって」
わぁ、いいのかしら。おせちいただいて、年越し蕎麦までご馳走になっちゃうなんて……
でも、この状況じゃ遠慮するとかえって失礼よね、ここはお言葉に甘えちゃおうっと。
すっかりわたしは雰囲気に同化していた。
そのころ、矢沢邸玄関前では一人の女性がタバコをふかしながら立っていた。
「……フィリス、出かけたな。姉をほったらかして。きっと恭也のところだろう。後で時間みておしかけてやろう」
くすっと微笑むと停めてあった車に乗り込む。シルバーブロンドのショートボブ……リスティだった。
晶ちゃんお手製のそばつゆと天ぷらに手打ちのお蕎麦はとっても美味しかった。
わたしもいつもはそんなに食べられないはずなのに、気がついたらしっかり二人前は食べていたみたい。
「……はぁ……恥ずかしいです。とっても美味しくてちょっと食べ過ぎちゃったみたい」
「あはは、そんなに食べていただけて、料理人として嬉しいです」
晶ちゃん、嬉しそう。
「じゃ、一休みしたら初詣の準備しちゃいましょう。もう九時過ぎですし、先生も一緒に行かれますよね」
と、桃子さん。
「え……ええ……」
ちょっとびっくり。なぜかそういう話になってしまっている。
「先生、ご心配なく。あとでお送りしますから」
と恭也くん。
「でも、そのつもりじゃなかったからこんな格好で来ちゃったし……」
そう、わたしの格好はといえば。エプロンは外してあるけれど、トレーナーとジーンズのまま。とてもこんな格好じゃ恥
ずかしくて初詣なんて行けない。
「あの、恭也くん……できれば一度帰って着替えて来たいんだけど……」
「その必要はないかもしれないですよ。かーさんが何か考えているようですし。俺にはどうしても教えてくれないんです
が」
「……う……ん……」
でも、本当にいいのかしら。それに、いくら初詣の準備だからといってもこんなに早くからはじめるのも不思議だし…
…
「じゃ、先生、行きましょ」
桃子さんは、そんなふうに心配していたわたしの手を取ると二階に連れて行った。
二階の一室の前に着くと、桃子さんは
「先生にはこれをお召しになって欲しいんですよ」
と言いながら戸を開ける。
「……」
思わず息を呑む。目の前には、着物が……それも振袖が掛けられていた。
全体的には淡い青色が基調。淡い藍地にピンクの花びらが舞って……桜かしら。袖の下半分や身頃のすそ近くにな
るにつれて藍が濃くなってきて、そこには水が流れるような柄が入っている。
一目見ただけでわかる。相当に高価な品物だろうということが。
「あの、これは……」
「実は、うちのお客さんで加賀友禅の作家さんがいらっしゃるんです。その方がお店に来られた先生を見て、そのイメー
ジで描かれて振袖に仕立ててお持ちになられたんですよ、是非先生にって」
「……そうなんですか……綺麗……なんて綺麗なのかしら」
「ええ、きっと先生に似合うと思います」
「……はい、わたしでよければ、着させていただきます」
それから着付けにとりかかった。
何分、着物なんて着たことがなかったから普通の人の倍近くの時間がかかってしまったけど、でもとっても嬉しい。
帯は髪に合わせて桃子さんが持っていた銀色系をした西陣の帯。
重ね衿は着物の柄の花びらと合わせて薄いピンク色。
帯揚げはそれよりはちょっと濃い目のピンク色。ちょうど八重桜の花びらみたいな感じかしら。帯〆もピンク色。
髪はやっぱり日本髪ということで、島田髷に結ってくださった。
「はい、先生、終わりましたよ」
その声で我に帰って姿見を見るとこれが本当にわたし?と思ってしまう。信じられない。
別のわたしがいるみたい。
もう時間は十一時近かった。
桃子さんに手を引かれて下のリビングに戻ると、そこには恭也くんとなのはちゃん、レンちゃんに晶ちゃん、そして、リ
スティまでがいた。
「……はぁ〜ごっつう綺麗やわ〜」
「わあ、フィリス先生、とっても綺麗、なのはも大きくなったら着てみたいなぁ」
「やっぱり馬子にも衣装か。衣装に呑まれてるかもな」
「先生綺麗すぎですよ。俺なんかじゃとても着られないや」
そして、恭也くんは
「……」
「恭也、感想は?」
「……あ……うん、綺麗……です」
桃子さんに促されて恭也くんが感想を言ってくれる。嬉しい。
「それじゃ準備も出来たことですし、初詣に出かけましょうか?」
「さんせ〜い」
初詣は西町の八束神社さん。そう、さざなみの那美さんが管理代理をしている神社さん。
で、今日は美由希ちゃんも巫女さんとしてお手伝いをしているそう。
この前のハイパークイズで那美さんが優勝してからというもの、ここは学業成就のご利益があるということになってい
るようだ。本当は家内安全のお社らしいのだけれど。
「先生、大丈夫ですか?」
石段を上るのに恭也くんが手を引いてくれる。男の人らしい力強い手。
わたしは着物のすそを気にしながら一段一段ゆっくりと石段を上っていく。みんなは先に行っちゃったみたい。
「恭也くん、ごめんなさい、わたし、歩き慣れていないから」
「大丈夫です。ゆっくり行きましょう」
そう言いながら恭也くんはわたしの一段先をペースを合わせて手を引いてくれる。
中ほどまで上っただろうか、お寺の鐘の音。
「あっ……除夜の鐘ね。本当に今年ももうすぐ終わっちゃうのね」
「そうですね、早いですよね」
「今年は、恭也くんと出会って、お付き合いを始めて……」
「俺も先生と会ってなかったらこんなに膝が調子良くなってはいなかったです」
「……恭也くん、本当にわたしでいいの?だって、わたしって普通とずいぶん違うのよ。お仕事だって不規則だし、それ
に……」
「先生、それを言ったら俺だって十分普通じゃないですよ。剣術の師範代でボディーガード。下手したら怪我ですむかど
うか」
「……でも、恭也くんには、普通の女の子が絶対に似合うと思うの。わたしみたいな普通じゃない娘よりも……」
「先生、この前言ったじゃないですか。俺には先生を嫌いになる理由がないですから」
「……うん、そうだったわね。ごめんなさい。このお話はこれで止めましょ」
わたし、まだ自信がない。そう、恭也くんの恋人として自分がふさわしいなんて到底思えない。わたしって本当に弱い
から……
でも、恭也くんはそんな弱いわたしをいつもそっと支えてくれる。わたしはというと、恭也くんに支えてもらってばかり…
…お返しなんて何も出来ない。
こんなことでいいのかしら……そう思えてならない。きっと、わたしって恭也くんのお荷物なのね。そう考えてしまう。
「……先生、俺は、先生を嫌いになる理由がないからだけでお付き合いしてるんじゃないんですよ」
「……えっ」
突然恭也くんが話し出す。いつものボソッとした口調で。
「俺は、一度、膝を完全に駄目になるまで壊して、先生と出会ってからもまた同じ事をしようとしてました。でも、それを
厳しい言葉で止めてくれたのは先生だけだったんです。ほかのどの先生も何も言わなかった。でも、先生は涙まで流し て止めてくださった……」
「……そう……だったわね」
「そのとき、俺は、ああ、先生を泣かせちゃいけないって思ったんです。だから、俺は先生が笑顔でいてくださるのなら、
俺に出来るどんなことでもしようと……そうしたら、俺にとって、先生は心のよりどころになっていたんです。どんなこと が
あっても絶対に先生のところへ帰るんだという気持ちになっていたんです。だから……」
「……恭也くん……」
「……俺にとって先生はどうしても必要な女性なんです。……すみません。よけいなことでしたね」
そこまで聞いたら、わたしは石段の途中だというのに、恭也くんに抱きついていた。
「恭也くん、ごめんなさい。そこまでわたしのこと……ごめんなさい、もう、あんな事言わない。だって、恭也くんはわたし
が恭也くんを想う気持ちよりもずっと深く想っていてくれたんですもの。わたしも負けないくらいに恭也くんを想いたい。う うん、想うから」
「……先生」
「……うん、ありがとう、ありがとう……」
「……先生、行きましょう、みんな待ってますよ」
「……うん……」
残り少なくなった石段を上る。そして、上りきったとき、ちょうど花火が上がった。
「あっ、年が明けたのね」
「そうみたいですね」
人がごった返す境内を歩き、本殿の前に進む。
お賽銭を箱に入れたあと、二回お辞儀をして拍手を二回。お願い事をして、そしてもう一度お辞儀。
「ねぇ、恭也くん、なにをお願いしたの?」
「俺ですか?え〜うちの家族と先生が元気で暮らせますように、ですね。先生は?」
「わたしはね、みんなが元気で平和に安心して暮らせますようにって」
「先生らしいですね」
にっこり笑う恭也くん。
「お師匠〜、せんせ〜。こっちです〜」
レンちゃんがわたしたちを呼ぶ。
「フィリス、恭也といろいろ話なんて出来たのか?」
リスティが突っ込んでくる。顔がほてってきてしまう。
「そのようすだとしっかり話できたみたいだな」
「ねぇ、先生とお兄ちゃん、なにをお話したの?」
「なのちゃんにはちょっと早いかなぁ。もう少し大きくなったら俺が話してやるよ」
「うん、晶ちゃんお願いね」
「それじゃ、御札と破魔矢、買いに行きましょうか?」
「あー、なのは、おみくじひきたいな」
「はい、いいわよ」
でもね実はもう一つお願いしたの。
それは、大好きな恭也くんとずっと一緒にいられますようにって……
そして神様に誓ったの。わたしは一生、恭也くんをこの世の誰よりも想いつづけますって。
恭也くんと目が合う。お互いににっこりとする。嬉しいな……こんな気持ちでいられることが……
ささやかなお願いだけど、きっとかなうはずよね。
恭也くん、大好きよ。だから、いつまでも一緒にいようね……
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