Written by 春日野 馨
午後五時のチャイムが鳴る。今日も一日これで終わり、これからは当直体制の時間。わたしは当直に出るために医
局に向かう廊下を歩いていた。
「あっ、フィリス先生、帰りにみんなでご飯でも食べに行きませんかぁ?」
看護師の足立さんが声を掛けてくる。
「由美子、駄目よ。フィリス先生には先約があるから」
同じ看護師の山室さんが彼女をたしなめる。
「ええ、そうなの。ごめんなさい。あいにく当直で……」
「えっ?そうなんですか。私、てっきり高町さんとお食事にでも行かれるのかなと思っていたんですが……」
「ええ、そうだったらよかったかも。でも、恭也くんもあいにくお仕事なんだって」
「じゃぁ、先生たちはクリスマス・イブなのに、お二人そろってお仕事なんですかぁ。」
「そうなの。仕方ないわね。残念だけど」
「ほんと、残念ですよね。それじゃ、私たちはお先に失礼します」
「しつれいしまーす」
「はい、お疲れさまでした。たくさん楽しんできてね」
「はぁい」
彼女たちは帰っていった。
そうだった。今日はクリスマス・イブ。でも、わたしも恭也くんも今日はお仕事。
そうよね……仕方ないのよね。わたしは一人で無理に納得しようとする。
わたしはフィリス・矢沢。海鳴大学病院の医師。
恭也くんというのは高町恭也さん、わたしの患者さんで、わたしにとって一番大切な人。大学生で御神流という剣術の
師範代でボディーガードのお仕事もしてる。
そもそもの事の起こりはわたしが当直を代わったことだった。
あれは先週の月曜日のこと。
「あのね、フィリス先生、お願いがあるんだけど……」
先輩女医の柘植先生がなにやら深刻そうな顔で話し掛けて来る。
「はい、なんでしょう」
「とっても言い難いことなんだけど、今度の当直、代わってもらえないかしら」
「今度のというと、二十四日ですか?」
「ええ、そうなの。子供がとっても楽しみにしてて、どうしても当直受けられないの。お願い」
お子さんが……それはどうしても一緒にいてあげたいわよね……わたしはそんなことを考えて、そして、こう返事をし
ていた。
「ええ、いいですよ、柘植先生。せっかくのイブなんですからお子さんと一緒にいてあげてください」
「ありがとう、フィリス先生。この埋め合わせは必ずするわね」
「そんな。お気になさらないでください」
「ううん、本当にありがとう」
あ〜あ、結局当直受けちゃった……
実はわたしも楽しみだった。恭也くんと一緒のクリスマス・イブ。
お付き合いを始めてから初めてのクリスマス・イブだったから……余計に、ね。
でも、そんな楽しみもなくなっちゃったかもしれない。
その晩、わたしは恭也くんに電話をした。
コール三回で彼が出る。
「はい、高町です」
「恭也くん、フィリスです。こんばんは。あの、クリスマスイブのことなんだけど……ごめんなさい、当直に当たっちゃった
の。せっかくのイブなのに……ごめんなさい」
「先生、俺のほうこそすみません。俺も仕事が入ったんです。パーティに出るVIPのガードなんですが」
「……そうなんだ……じゃ、二人そろってお仕事なのね」
残念、本当に残念。恭也くんもお仕事なんだ。じゃ、夜は一人で過ごさなくっちゃ。寂しいけど。
「本当にすみません。終わり次第駆けつけますから」
「ううん、恭也くんも忙しいんだもの。無理しないで」
「じゃ、出来るだけ早くということにさせてください」
「はい。お仕事がんばってね」
「先生も、お仕事がんばってください」
「うふ、ありがと。それじゃ、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
つまんないな……せっかくのイブなのに……お仕事でもいいから恭也くんと一緒にいたかったな……
はっきり言って手持ち無沙汰。時間つぶしなんて医局でぼおっとしているくらいしか思いつかない。でも、時間はまだ
夜の七時。時計の針は今日に限って進みが遅いみたい。
「あっ、フィリス先生。ちょうどよかったわ。ねぇ、これ着てもらえないかしら?」
今日の当直師長の七瀬さんが医局にやって来た。
「これって……なんですか?」
「うふふ、あのねぇ、サンタさんの衣装なの。今日はクリスマス・イブでしょう、小児科病棟の子供たちにプレゼントを渡
すのに、サンタさんがいないと気分が乗らないでしょ?」
「そうですね、でも、何でわたしが?」
「そこは、それ、子供たちに一番人気があるのがフィリス先生だからよ。きっと子供たちにもいい思い出になると思って
ね」
「いいですね。じゃ、着替えちゃいますから」
「ありがと。あ〜、フィリス先生がいてくださって助かったわぁ」
七瀬師長は医局を出て行った。
これで少しは時間がつぶせるかも。早く今夜が終わって欲しい。時間が早く過ぎてくれるなら中身なんて何でもいいか
ら受けちゃいそう。
七瀬師長の予想の通り、わたしのサンタ姿は小児科病棟では思いっきりうけたみたい。だって、いつもはとってもやん
ちゃな男の子が今日ばっかりは泣きながら嬉しがってるんですもの。しがみついたっきり離れてくれない女の子だって いるし……
何とか無事に子供たちみんなにプレゼントを届けて医局に戻ると、時間はまだ夜の九時。たった二時間しかたってい
ない。
七瀬師長がお茶菓子を持ってやって来た。
「先生、どうもありがとうございました。おかげで子供たちも大喜びでしたし。でも、先生のサンタ姿ってほんとうにかわい
いですね」
「少しはお役に立てたみたいだしよかったわ。でも、そんなこと言われるとやっぱり恥ずかしいです」
しばらく雑談に花が咲く。ちょっと嬉しかったりして。だって、本当は一人でちょっと心細かったから。
「そう言えば、先生、今日は高町さんはおいでじゃないんですね」
「ええ、そうなの。お仕事なんですって」
「じゃ、寂しいですよね。せっかくのイブなのに」
「うーん、でも、七瀬さんたちがいるからあんまり寂しくないかな?」
「じゃ、今度高町さんがいらした時にそう言っちゃおうかしら」
「あん、もう意地悪」
ちょっとした笑い。でも、手放しで笑えそうにない。恭也くんがいたら、きっと心の底から笑えるはずなのに……
「あっ、雪ですよ、先生」
七瀬師長が窓の外を指差す。
「本当。ホワイトクリスマスね。明日は積もるかしら」
「そうだといいですね……あっ……いけない。巡回の時間だわ。先生、どうもお邪魔しました」
「いいえ、楽しかったわ。ありがとう」
七瀬師長が医局を出ると、あとにはまた孤独だけが残った。
夜の十時過ぎ、目の前の携帯電話を見つめながらわたしは恭也くんに電話をしたい欲求と争っていた。
恭也くんは、今、お仕事中なのだ。そんな彼に電話は出来ない……でも、ほんの少しでいいから声が聞きたい。
あぁ、何でこんな日に当直を受けちゃったんだろう。後悔だけしか思い浮かばない……
時計は夜の十一時半を過ぎている。
恭也くん、やっぱり来られなかった……仕方ないわよね。お仕事なんだから。
お仕事なんだけど……でも、わたしのほうも見て欲しいなんていうのはわたしの我儘なのかしら。
でも、今日ばっかりは我儘でも何でも恭也くんと一緒にいたかった。だって、お付き合いを始めてから初めてのクリス
マス・イブだったから……
それもあと十五分くらいしか残っていない。せっかくのイブだったのに……寂しいな……一人のイブは慣れていたはず
なのに……
やだ、涙が出てきちゃった。
あと五分でイブが終わる……そのときだった。
こんこん……
開けっ放しの医局のドアをノックする音……そして、そこには
「すみません、おそくなりました」
恭也くんが立っていた。
「……恭也くん……」
「思いのほか仕事が長引きまして……すみません」
「ううん、ありがとう……ありがとう……」
後から後から涙が出てくる。でも、さっきのとは違う涙。
そして、時計は午前零時を告げた。
「メリークリスマス、恭也くん」
「メリークリスマス」
わたしと恭也くんはどちらからでもなく、挨拶をし合っていた。大好きな恭也くんと一緒に初めてのクリスマスを祝える
なんて、わたしはなんて幸せなんだろう。
「ねぇ、恭也くん、来年のクリスマスには絶対にお仕事入れないようにしない?」
「そうですね、うまくいくといいんですが。」
「だったら国会方式にしちゃおうかしら……」
「その国会方式ってなんですか?」
「あのね、恭也くんが来るまで午後十一時五十九分で時計を止めちゃうの。それだったら恭也くんはイブにきてくれたこ
とになるでしょ?」
「本当のことなんですか、それ」
「あら、本当よ」
二人そろって笑う。心の底からの笑い……
そして、キス……
『ねぇ、恭也くん、来年のクリスマスは病院なんかじゃなくて、わたしの家で祝いたいわね……』
のどまで出掛かっていた言葉はキスで行き場を失ってしまったみたい。
でも、とっても幸せ。だって、こうして恭也くんと一緒にいられるから。
恭也くん、今まで本当にありがとう。そして、これからもよろしくね。大好きよ……
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