あるいはこれも平穏な日々



Written by 春日野 馨


「ねえ、恭也くん、明後日、海、見に行かない?」
 当直中、医局で一緒に夜食を食べているとフィリス先生が突然尋ねてきた。
「……海……ですか?」
「ええ、だって、今年の夏はなぜか忙しくてどこにも行けなかったし、それに最近一緒にお出かけしていないでしょ?明
後日は久しぶりにお休みだから……ね」
 そういえばそうだった。
 今年の夏は海に行こう、と春から話していたのに俺もフィリス先生もなぜか忙しくて結局行かず仕舞。更に最近は一
緒に出かける時間も取れなくなっていた。俺としても一緒に出かけたくないわけではない。
「そうですね、じゃ、車出しましょう」
「それじゃわたしはお弁当作るわね。でもあんまり期待しないでね。上手じゃないんだから」
「そうはいきませんよ。先生のお弁当だったら期待できますから」
「あ〜ん、もう、意地悪!」
 フィリス先生はぷうっと膨れてみせる。でも、その仕草がとっても可愛いので思わず笑ってしまう。
「あ〜、もう、そうやって笑うんだから。ふぅんだ、恭也くんのお弁当だけ思いっきり辛口にしちゃうんだからね」

 フィリス・矢沢先生。海鳴大学病院のドクター。俺の主治医でホームドクターで恋人。
 いろいろと複雑な過去を持つ女性で、でもそんなことを微塵も感じさせないところが患者さんたちに好かれる理由なん
だろう。
 そして、周りを明るくしてくれる不思議な力をもった女性。

 俺は高町恭也。実戦剣術である御神流の師範代。そして、学生の身ながらボディーガードをしている。

 フィリス先生と恋人として付き合い始めてからもう九か月になろうとしている。
 妹の美由希に言わせれば
『恭ちゃんはフィリス先生とお付き合い始めてから変わったよね。前は寡黙でちょっと近寄りがたい雰囲気っていうのが
あったけど、最近は良く笑うし、なんといってもおしゃべりしてくれるようになったもの』
だそうだ。
 確かに俺自身も性格が変わってきたのかなと思うことがあるのは事実だ。
 そして、それに抵抗を感じていない自分にも驚いている。

「ねぇ、恭也くん、どこがいいかしら」
「そうですね……鹿ノ島なんてどうですか?」
「鹿ノ島って、あの鹿がいっぱいいる島よね」
「ええ、そうですが」
「わぁ……うれしい。わたし、鹿さんと遊びたかったの」
 フィリス先生は子供みたいにはしゃいでいる。こうしているととても年上だなんて思えない。
「お弁当、何にしようかなぁ。鹿さんとも一緒に食べたいし……鹿さんって何が好きなのかしら」
 すでに心は明後日に飛んでいる様子。なんとなく俺までうれしくなってしまっていた。

 朝七時四十分、俺は海鳴駅前のロータリーに車を乗り入れた。待ち合わせは八時。まだ早いだろう。そう思っていた
が、その考えは一瞬で打ち消された。
 自家用車乗降場の見覚えのある、いや、間違えるはずのないロングのシルバーブロンドの人影が目に入る。いった
い何時ごろここに着いたんだろう。
 そんな疑問はとりあえず置いておいて、俺はフィリス先生の前に車を停める。荷物をリアシートに置き、先生には助手
席に座ってもらい早速出発する。
「先生、何時頃からお待ちだったんですか?」
 一応訊ねてみる。別に深い意味はないのだが。
「えっ……やだ、恭也くんが来るちょっと前に着いたばかりよ」
 ちょっとびくっとしたような感じの答え。ちょっと悪戯心を出してもう少し突っ込んでみる。
「ちょっと前ってどのくらい前なんですか?」
「ちょっと前はちょっと前よ」
 しきりに隠そうとする。これは何かあるかも。
「具体的には?」
「う〜ん、言わなくちゃだめ?」
「駄目って言ったら話してくれますか?」
「あん、もうわかったわ。……七時十五分ころかな……家をちょっと早く出すぎちゃって」
 やっぱりそうだった。待ち合わせの四十五分も前に来ていたなんて……早めに来ておいてよかった。
「先生、これからは外で待ち合わせるの止しましょう。俺が迎えに行きますから」
「……楽しみで待ちきれなかったの。だって、一緒にお出かけなんて本当に久しぶりだから」
「じゃ、待ち合わせ時間の十五分前まではお互いに来ちゃ駄目ということにしませんか?」
「はぁい……でも、待ってる時間だって楽しかったのに……」
 先生はちょっぴり不満そう。気持ちはわかるのだが、これがエスカレートすると徹夜で待ってるなんてことも……さす
がにないか。

 平日でおまけにラッシュとは方向が逆なこともあり、車は快調に走っていく。
「ねえ、恭也くん、まだ怒ってる?」
「なにがですか?」
「あの……わたしが早く来すぎちゃったから。気に障ったんだったらごめんなさい」
「いや、怒ってなんかいませんよ。俺のほうこそ言いすぎでした。ごめんなさい」
 ちらりと横目で見ると先生はほっとしたような顔をしている。
「よかった……嫌われちゃったらどうしようと思っちゃった」
  先生は小声でつぶやく.。

 しばし無言が続く。
 信号待ちで停車して、ふと助手席を見るとフィリス先生は気持ちよさそうに居眠り中。
 やっぱり疲れているのだろう。せっかくの眠りを妨げないようにオーディオの音を少し絞る。

 医者とは大変な仕事だと思う。当直にご一緒させてもらってそれはつくづく感じる。一応仮眠時間というものはあるの
だが、それも状況によってはないも同然。
 翌朝も当直明けだからといっても当然の如く外来診察をこなし、院内の回診に研究会や勉強。その間にはもちろん急
患だってあるだろうし……こうやって考えると医者という仕事は肉体労働なのかもしれない。
 そんなハードな仕事をフィリス先生はこなしているのだ。俺が先生に出来ることはいったい何だろう……ふとそんなこ
とを考えてしまう。

「……う……ん……」
 どうやらお目覚めのようだ。
「お休みになれましたか?」
「あっ……やだ。寝ちゃってた?ごめんなさい。起こしてくれてもよかったのよ」
「いえ、お疲れのようでしたのでそのままと思っていたんですが」
「ありがとう。やっぱりわたしって仕事中毒なのかな?」
「……」
「あのね、昨日リスティが家に来たんだけど、顔を見るなりこんな事言われちゃった。『久しぶりに恭也とデートか。フィリ
スはワーカホリック(仕事中毒)なんだからもっとデートに行かないとそのうち愛想つかされるぞ』だって。わたしって考え
てることがそんなに顔に出ちゃうのかしら?」
 ちょっと問題が違うような気はするが……
「顔に出ないことはないと思いますけど、きっとリスティさんはお姉さんだから余計にわかるんじゃないですか?」
「だといいんだけど……またさざなみ寮で話題にされてるような気がするのよね。それも変な尾鰭が付いて」
 ちょっとあきれたような口調。こんな雰囲気のフィリス先生は絶対に病院では見られない。家に来てくれたときでも見ら
れない。俺の前だけで見せてくれる表情……それがなぜか嬉しくなったりする。

 いつのまにか道は海岸線のワインディングに入っていた。
 とばすほうではない俺だが、運転は嫌いではない。決して攻めてはいないが、気持ちよくコーナーを走っていく。する
と、後ろから追いついてきたバイクがものの見事に抜き去っていった。赤白と青の革つなぎを着たライダーだ。一目で
走り屋の類だとわかる。
「バイクって早いわね。そういえば、さざなみ寮の美緒ちゃん、耕介さんが昔乗っていたバイクをもらって乗り始めたんで
すって」
 美緒ちゃんというのは陣内美緒さんというさざなみ寮の住人だ。うちの美由希と学年が一緒で結構仲良くさせてもらっ
ているらしい。
 耕介さんというのはさざなみ寮の管理人兼料理人槙原耕介さんのことで、俺達もさざなみ寮で宴会があるときなどは
招待に与っている。

「でも、やっぱり心配。美緒ちゃん、無茶な運転しないといいんだけど。耕介さんもそれを気にしているみたいだし」
「そうですね。大学にも事故に遭って入院中の奴がいますから」
「本当、バイクの事故って怖いものね」

 それからたわいもない話をしながらコーナーを抜けていく。目指す鹿ノ島へと渡る船の乗り場まではあと少しだ。
 右のコーナーを向けて左コーナーへ入ろうとしたときだった。道路上にバイクが転倒している。
 とにかくブレーキを踏む。強烈な減速感とがくんというショックを残して車は停まった。

 ライダーがバイクの傍に倒れている。
「大変……」
 フィリス先生は急いで車から降りるとライダーの側に駆け寄る。俺は二次事故を防止するために車のハザードを点
け、反対側には非常表示器を置く。
 転倒したバイクを路側に寄せてからライダーのところに行ってみると、赤白青の革つなぎを着ている。さっき追い抜い
ていったライダーだ。

「先生、どんな感じ……」
「まずいわ、頭を打ってるみたい。急いでCTかMRIの設備のある病院に搬送しないと。でも、ここじゃ救急車だと時間
がかかりすぎちゃう」
 先生は苦悩の表情を浮かべる。このままでは助からないかもしれない。何かいい方法はないものか……
「空を飛べたら……空を……空?そうだ、恭也くん、病院に電話して」
「病院……ですか?」
 怪訝そうに訊ねた俺に先生は続ける。
「そう、ヘリコプターよ。今日から運用開始だったの。ドクターヘリが」
「わかりました」
 助かるかもしれない……そう思うと、自然と携帯をもつ手に力が入る。

 電話に出てくれた病院のスタッフに場所と簡単な状況を伝えると、所要十五分で到着するとの返事が返ってくる。フィ
リス先生にそれを伝えたが、たった十五分が何時間もかかってしまったように感じてしまう。

「早く、一刻も早く……」
 俺とフィリス先生は同じ思いでいた。そこに、ヘリの音が聞こえてきた。
 白地の機体に赤のライン、青で杖と蛇のマークに『Uminari Univ.Ambulance Heli』の文字。
 ヘリはホバリングすると、中からオレンジ色のつなぎを着た乗員がロープを伝い降りてくる。そのあとに担架が降ろさ
れる。
 フィリス先生と俺、ヘリの乗員はけが人を担架に乗せた。担架は巻き上げられ、けが人はヘリに収容される。
 続いて先が輪になったロープが下ろされる。フィリス先生はその輪の中に体を入れると俺に向かって言う。
「恭也くん、わたしも一緒に病院に行くわ。ごめんなさい」
「わかりました。俺も後で病院に向かいます。お気をつけて」
 ロープが巻き上げられ先生はヘリに乗り込んだ。
 続いて同じロープが下ろされ、始めに降下してきた乗員がヘリに乗り込んでいく。
 けが人とフィリス先生を収容したヘリはローターの音を一段と高くすると病院に向かって発進した。
 あとには転倒したままのバイクと俺と車が残された。

 それから俺は一一〇番通報をして警察に事故の処理をしてもらい、けが人の搬送先を告げてから海鳴大病院へ向
かった。
 事故に遭遇したのが午前九時半過ぎ。事故処理やらなにやらで気が付くともう午前十一時半を過ぎていた。途中で
渋滞に捉まってしまい、病院に到着したのは午後四時近くのことだった。
 病院のロビーに入ると、白衣を着たフィリス先生とちょうど出くわした。
 けが人の処置は終わったのだろうか、安堵の表情が見て取れる。先生は俺を見つけると嬉しそうに駆け寄ってきて
言った。
「恭也くん、あのね、あの患者さん、大丈夫だったの。助かったのよ。もうちょっと遅かったら危なかったけど。でも、助
かったの……」
「よかったですね、本当によかった」
 俺がそう言うと先生は無言で頷いた。でも、その一瞬の後には申し訳なさそうな顔になっていた。
「でも……ごめんなさい、恭也くん。せっかくのお出かけだったのに……」
 俺は、そんな先生にいつもと変わらない感じで言った。
「じゃ、行きましょうか、先生」
「えっ……どこに……」
 今度はフィリス先生が驚く番だった。
「海ですよ。先生、行きたがってたでしょう?」
「でも、もうこんな時間……」
「いいじゃないですか。せっかく先生が作ってくださったお弁当、そのまま持って帰っちゃさびしいですから」
「……恭也くん、ありがと……」

 結局俺達は海鳴臨海公園に来ていた。周りはすっかり暗くなっていたが、俺達はベンチに座ってお弁当を広げてい
た。
 フィリス先生のお弁当はとっても美味しかった。忙しくて疲れていただろうに、心を込めて作ったであろう事がよくわか
るお弁当だった。

 先生がポットのお湯で淹れてくれたココアを飲む。
「すみません。近場になっちゃって」
「ううん、そんなことないわ。とっても嬉しい」
 そう嬉しそうに言ってからフィリス先生は真顔になって言った。
「恭也くん、今日は本当にごめんなさい、せっかくお時間を作ってくれたのに……あのね、これからもこんなことがあると
思うの。一緒にお出かけする時間もなかなか取れないと思うし、何時こうやって病院に行かなくちゃいけなくなるかもし
れない。こんなんじゃ恭也くんに迷惑をかけてばかりだと思うの。だから……わたしなんかよりも……大学にはずっと恭
也くんにふさわしい人がいるはずだし……こんなワーカホリックのわたしなんて……嫌いに……なられても……仕方な
いわよね……」
 最後はもう涙声だった。

 俺はフィリス先生の頭に手を載せるとシルバーブロンドの髪をクシャっと掴んで言った。
「前にも言ったじゃないですか。嫌いになる理由がないです」
 それを聞いて先生は驚いた目で俺を見た。そして涙を浮かべた目で、でもにっこりと笑って言った。
「うふっ……恭也くん、かっこよすぎ……」








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