Written by 春日野 馨
その晩、俺、高町恭也はいつものようにフィリス先生と一緒に医局での当直を過ごしていた。
時間はもうすぐ夜十時になろうとしている。
ノートパソコンに向かっていたフィリス先生が顔を上げてレポートを書いていた俺に話し掛ける。
「ねぇ、恭也くん、お腹すかない?」
「そうですね、でも、ちょっと夜食には早いような」
「うーん、そうね、じゃお茶にしましょ。ココア淹れるから。お茶請けはいつものところね」
そういうと嬉しそうに立ち上がって準備を始める。俺はそんなフィリス先生を見ながら戸棚の中からクラッカーを出し
て 皿に盛り付ける。
フィリス・矢沢先生。海鳴大学病院のドクターで俺の主治医で恋人。
ちょっと変わった過去の持ち主だけれどそれを言ってしまったら御神の剣を継いでいる俺も充分変わったことにな
る。
「テレビテレビ、当直だとなかなかニュースなんて見られないのよね」
フィリス先生がカップを片手にテレビをつける。
そこには衝撃的な映像が映し出されていた。
相似形の二棟の超高層ビル、その一棟からものすごい勢いで黒煙が噴出している。火事だろうか?
『ただいま入りましたニュースです。アメリカABCテレビによりますとつい先ほど、日本時間の午後十時前、ニューヨー
ク マンハッタン島にあります世界貿易センタービルに飛行機が衝突し現在炎上中の模様です。ご覧の映像は現在の 世界 貿易センタービルの模様です』
テレビのアナウンスが信じられない。映画か何かじゃないのか?これは特撮じゃないのか?ただ呆然と画面に見入っ
てしまう。
がしゃーん
何かが割れる音。その音で俺も我に帰った。
フィリス先生の足下に取り落とされたカップの破片が散らばっている。顔色は真っ青だ。立っているのが不思議なくら
い。
「先生、大丈夫ですか?」
声をかけ、倒れてしまわないように肩を抱き留める。
「あ、恭也くん、大丈夫……」
そう言うがとてもそんなふうには見えない。
とにかくソファーまで連れて行き、横になってもらう。
ナースステーションに連絡を取って氷嚢と洗面器、タオルを持ってきてもらった。
「先生、本当に大丈夫なの?」
「ええ、ごめんなさい。ちょっとした立ちくらみだから」
「……なら、いいんですけど……」
「ええ、ほんと、大丈夫よ」
「……じゃあ高町さん、お願いしますね」
看護師さんはカップの破片を片付けると、俺に何か少しでも変わった事があったらすぐに連絡するようにと言って戻っ
ていった。医局にはまた俺と先生の二人だけが残った。
横になったフィリス先生の額にタオルと氷嚢を乗せ、俺はその前に持ってきたいすに座る。
お互いに無言。ボリュームを落としたテレビの音声だけが医局の中に流れている。
俺も意識的に画面を見ようとしない。フィリス先生も……
どのくらいそんな時間が続いただろうか、おもむろに先生が口を開いた。
「ごめんね、恭也くん。面倒かけちゃって」
「そんなことありません。他ならぬ先生のためなんですから」
「ありがとう。ねえ、パソコン持ってきてほしいんだけど」
先生はそう頼む。さっきよりも顔色ももどっていることだし大丈夫だろう。
俺はデスクの上のパソコンを先生に渡す。先生は上体を起こしてキーボードをたたき始めた。どうやらメールのチェッ
クらしい。
「あっ、やっぱり来てる。リスティとシェリーからだわ」
警察関係に勤めるお姉さんとアメリカで災害対策に携わっている妹さんからメールが来ていたようだ。
「なんて酷いことを……ツインタワーが倒壊?ペンタゴンまで……予想以上だわ。やっぱりテロのようね。緊急援助隊が
出るみたい」
テロと聞いて、俺は握った拳の中が汗で充ちてくるのを感じていた。
テロ……最も憎むべき行為。
父さんと美沙斗さんの人生を変え、御神の一族と父さんの命までも奪い、あまつさえアルバートさんやティオレさんの
命までも奪おうとした卑劣な行為。
「恭也くん……」
「フィリス先生……テロって……本当なんですか?」
「うん、間違いないみたい。状況からしか判断できないみたいなんだけど」
そう言うと先生はメールを見せてくれた。
複数の旅客機の衝突と墜落、ツインタワーの倒壊、ペンタゴン庁舎の一部崩壊、死傷者はとんでもない数になりそう
だとそこには書かれてあった。
事実とそこから導きだされる結論の羅列、それがこの事件の重大性を物語っていた。
それからまたしばらく無言の時間が続いた。気がついたら時計は午前零時を指そうとしている。
「ねぇ、恭也くん」
口を開いたのはまたフィリス先生だった。
「はい?」
「あのね、もし、わたしが援助隊に参加したいって言ったらどうする?」
そう言うフィリス先生の目は真剣だった。
診察している時のような優しさに充ちた目でなく、プライベートの時のような明るい目でもなく、鋭いという表現が一番
なんだろう、決意に満ちた目。
フィリス先生のそんな目を見たのは初めてだった。
「……先生、もう決めていらっしゃるんでしょう?」
なぜかそう思った。
「うん、きっと海鳴大にも派遣要請が来ると思うの。わたし、行きたい。行って一人でも多くの人を助けたい。だって、そ
のために医者になったんだもの」
「……」
『命を奪うために作られたわたしが、一人でも多くの人の命とか悩みとか苦しみとか、そんなものを救っちゃうの。それ
が、わたしたちを作った人たちとか運命へのわたしの仕返し……』
付き合い始めて間もない頃だった。フィリス先生は俺に自分の生い立ちを話してくれた。
自分は戦闘用に作られたハイブリットクローンであること。実際に殺し合いまでして何人もの姉妹を失ってきたこと。そ
してそういう自分は「仕返し」のために医師を志したこと……
そんな過去を聞いていたから……フィリス先生だったらきっとそう言うだろうと自然に考えていた。
俺にはこの女性を止めることは出来ない。だったら俺は何をしたらいいのか……
答えは決まっていた。
「先生、お一人で行かれるつもりなんですか?」
「えっ?」
「俺も行きます。先生だけに行かせるわけにはいきません。先生の『仕返し』を俺にも手伝わせてください」
俺は自分でも驚くくらいに落ち着いた口調でそう言った。
「きょうやくん……」
フィリス先生の目に見る見るうちに涙が溢れてきた。
「恭也くん……ありがとう……恭也くん……」
あとは言葉にならなかった。
「そうと決まったら夜食にしましょう。食べるものを食べないと闘えませんよ」
俺は勤めて明るく言った。
「うん、ココア淹れ直しましょうね」
フィリス先生も明るく応じる。
二人でどれだけのことが出来るかなんてわからない。
でも、『仕返し』はきっと無駄にはならない。
俺たちと同じ気持ちでいる人が必ずいるはず。
その人たちと一緒になって行動していけば、きっとそんなことなんて必要がなくなる世界が来ると思いたい。
そのために出来ることをしよう……
そして、勇気をくれたこの女性(ひと)とずっと一緒に歩いていこう。
俺はそう考えていた。
目の前に赤と金色の線の入った純白のジャンボ機……政府専用機が駐機している。
「先生、行きましょう」
「うん、恭也くん」
俺たちは搭乗口に向かって歩き出した。
俺たちの『仕返し』をするために。
|