第五章 〜興国(一)〜



  

 
 
 
 
1340年(北朝では暦応三年)、吉野南朝は元号を延元から「興国」に改めた。
南朝後村上天皇がこの元号に込めた思いは、もはや言うまでもない。

さて、本題に入る前に、前回の補足をしておきたい。
前回、筆者は南部氏の曾我領攻撃を取り上げたが、ここでは当時の惣領たる南部政長は陣頭指揮を執っていなかっ
た。
では、一体何をしていたのか?というと、二つの可能性が考えられている。
まずひとつは、岩手郡への出撃準備である。現在の盛岡市周辺を押さえる事で、更なる奥羽南軍の進出を図るのと、
版図の拡大も視野に入れていたと考えられる。
もうひとつは周辺豪族の勧降、特に津軽北部を中心に隠然たる勢力を誇っていた安東(安藤)氏の引き抜き工作であ
る。
それまでの資料では「一貫して北朝側であった」とされてきた安東氏ではあったが、最近では南部氏の勧降を受けて、
南朝側に転じた事が分かってきている。それも、顕信が奥州に着く前年の内に、である。
どうやら何らかの「餌」を、政長が外交材料としてちらつかせ、それに安東の宗家が食いついた様であるが、それが何
だったのか、あるいはそもそもこの外交攻勢が吉野からの命令であったのかどうか、実際の所は分かっていない。もし
かすればこの餌とは、「曾我氏を平定した暁には、その領地を切り取り自由にしていい」とかいったものだったかもしれ
ない。
いずれにしてもこれ以後の安東氏宗家は、それまでの資料の見解とは全く異なり、「一貫して南朝側として」顕信を支え
る事となる。もちろん、この時点では一族全体がそうだったわけでもない様であるが、これは別におかしい事ではなく、
当時は領有問題で敵味方となる事もよくある話なら、一族が生き残りをかけて双方に分かれるという話も、これまたよく
ある話だった。
結論を急いでしまうと、少なくとも以後の安東氏を全体で見れば、北軍に加わった形跡は見当たらない。そういう事であ
る。

さて、ここからが本題である。

ようやく渡航の準備が成った北畠顕信は、再び伊勢から海路奥州へと出発した。
時期は、1340年(興国元年・暦応三年)の春、四月あるいは五月頃と推定されている。
当時の顕信直属軍は、前年の下向で嵐に遭って伊勢に残留した、奥州軍の将兵が中心であったと推測される。それ
も、軍記物に記される「何万人規模」と言う様な、大規模なものではなかったと思われる。
例えばかの「元寇」の時でさえ、元軍は数千艘の軍船を仕立ててようやく十万にも及ぶ将兵を運んできたのであるが、
当時の日本においてそこまで船の数は多くなかったし、ましてや兵力などは論外である。顕信直属は、せいぜいが中隊
規模(100〜300名)程度ではなかっただろうか?
また、当時は各地で戦闘が繰り広げられていたから、陸路を突っ切ろうなどとはとても考えられない話である。
この時もやはり海路を取ったと考えた方が、辻褄が合う。伊勢、熊野の水軍は南朝側としてしばしば活動していた事が
知られている為だ。
顕信は直接奥州に向かったのではなく、一度房総、あるいは常陸に上陸したと考えられている。顕信としては常陸にい
る父、親房に一度会って、奥州・関東の最新の情勢を知る必要があったはずで、その状況次第によっては、戦略の立
て方も当然変わる事になった。
親房は当時小田城(現・茨城県つくば市)に拠って、関東の南軍を指揮していた。もちろん奥州の南軍諸将とも連絡を
取っていたのは、前回において触れた通りである。顕信は親房と合流して最新の情勢を聞き、この時に奥州において
然るべき総指揮官の、早期下向の要請を知ったと思われる。
こうした情勢を聞いた顕信は、時を移さず奥州に向かっている。

さて、ここで気になるのが、顕信は常陸から奥州へ下向するのに陸路を使ったか、それとも引き続き海路を使ったか?
という事である。

これが困った事に、戦前と戦後では全く見解が違っているのだ。
まず戦前の通説であるが、顕信は常陸から下野(現・栃木県)を経由して白河(現・福島県白河市)の結城親朝の領地
に入り、その後北上して宇津峰城(うづみね。現・福島県須賀川市)に入ったとされている。そして後で触れる事になる
が、陸奥国府奪回を期して更に北上し「三迫(さんのはさま)合戦」と呼ばれる作戦を発動した、という見解である。
一方の戦後の見解であるが、顕信は海路奥州に向かい、葛西氏を頼って石巻に上陸し、その後「三迫合戦」を発動し
た、という見解である。
結論から述べると、現在は海路を使って石巻(あるいはその近辺か。現在の塩釜港などは有力な上陸地候補である)
に上陸したという説が、陸路説よりも信憑性が高く、通説となっている。
では何故、陸路説が退けられるのか?
それは、後で触れる「三迫合戦」が行われた場所、そして当時の状況が関係する。
「三迫合戦」は、実は当時の栗原郡(現・宮城県北西部)を舞台に繰り広げられているのだが、栗原郡は陸奥国府(古
代国府の多賀城は、中世当時廃墟だったと考えた方が良い)よりも北に位置している。宇津峰城は福島県でも南の方
にあり、そこからではむしろ、直接国府を目指した方が早いはずである。
また、当時の国府周辺は北朝方に押さえられていた。足利尊氏の派遣した奥州北軍の総指揮官、石塔義房(いしどう・
よしふさ)を始め、周辺に所領を持つ留守氏、国分(こくぶん)氏等が固めていた陸奥国府を素通りして、栗原郡まで北
上出来たとは、とてもではないが考えられないのだ。
東北地方の地図を開いて、こうした地名を掴んでいけば、以上の論調の正否は簡単に分かるはずである。

ここで、当時の陸奥国府について少し触れてみたい。
我々が知るところの陸奥国府は「多賀城」(現・宮城県多賀城市)であるが、ここは元々古代の行政府であって、奥州藤
原氏の頃には有名無実と化していた。更に鎌倉時代も進むと、最早廃墟と化していたであろう事は、容易に想像できる
事である。
では、南北朝期に陸奥国府として機能していた場所はどこなのか?という事になるが、現在最も有力視されているのが
岩切城(いわきり。現・宮城県仙台市と利府町に跨っている)である。この岩切城は、別名「鴻(こう)の館」と呼ばれてい
たとされているが、この「鴻」とはどうやら「国府」が変化した呼び名と見られているらしい。また、当時の宮城郡(現・宮
城県仙台市周辺)全体が「府中」と呼称されていた事からも、この岩切城が国府としての機能を有していたと考えられて
いる。
尚、この岩切城は留守氏が所有していたのを、建武政権(つまりは北畠顕家等)が接収して使っていたらしく、その後
は北朝の奥州探題が継続して使用していたようだ。
元々の城主のはずだった留守氏としては、実際のところえらい迷惑な話であったろう。
ともあれ、それまで言われ続けていた「多賀城を修理改築していた」という推論は、全く成り立たない事になる。
実際多賀城で発掘によって出土した遺物の中に、中世のものは確認されておらず、繰り返すが「中世の陸奥国府=岩
切城説」は、最も有力な説となっているのである。

話を戻して。
石巻付近に上陸した顕信は、

「周辺に所領を持っていた葛西氏を"頼って"石巻日和山城(ひよりやま)に入った」

というのが戦後の説のもうひとつの論調なわけだが、これは一見正しく感じるかもしれない。
例えばこれは後の話だが、室町幕府の将軍の中には自分の権力を取り戻す為に、地方の有力守護あるいは戦国大
名を頼ったり、またはそうした勢力に身を寄せたりした者がいたからだ。
だが、ちょっとここでタンマ。
前回までの文章を、もう一度良く吟味してもらいたい。在地の豪族達はこの時代、自分の所領の領有権を確保するの
に、南北どちらかの朝廷の「権威」をどうしても必要としていた。要はいわゆる"御墨付"というやつである。
それに、当時南朝側の有力な豪族だった葛西氏は、関東の北畠親房に対し、"自分達の上に立つ然るべき大将"の早
期着任を望む旨、書状に認めて送っているのだ。そこからは、顕信が葛西氏を頼る、というより葛西氏の方が、ひいて
は奥州南軍諸将が顕信の早期着任を待ち望んでいた、顕信を頼っていた、そうしたものが見えてくるのである。
ただでさえ、一武将の城に鎮守府将軍が将軍府を置く、という事は非常なリスクを伴う。
そのリスクとは何か?味方と頼んでそこまでしても、その武将に裏切られればそこまでなのだ。
これでは「たかが地方の一武将」に死命を制される、という事になってしまう。鎮守府将軍という官位は、この時代は未
だに相応の権威を持った、しかも「朝廷より正式に任ぜられた」官職であったのだから。
こうして見ると、その「権威ある官職」に就いた顕信が、地方豪族の所領を転々と逃げ回っていたという論拠が、この時
点でガラガラと崩れ去ってしまう事になるわけだ。
では、日和山城に入った顕信とその幕僚を、彼等の拠る城を一体誰が守っていたのか?
石巻近辺の、牡鹿郡(現・宮城県牡鹿半島周辺)や桃生郡(現・宮城県石巻市周辺)に所領を持つ山内(やまのうち)氏
や桃生(ものう)氏、そして葛西氏の一族が旗本として出仕して城を守っていたと考えられている。
葛西氏の本領は、宮城県北部と岩手県南部にまたがっていて、石巻近辺の所領はいわゆる「飛び地」であったから、
葛西の宗家がおいそれと出てこれる様な距離ではなかったと思われる。

そして、鎮守府将軍たる顕信の身辺を誰が守っていたのか?

ここで、一見何の関わりもないような事から。果たして、諸賢の中に「御魂 〜忍〜」という成人向けゲームをプレイして
みた、という方はおられるだろうか?
面白いかどうかはともかく、時代考証としては赤点なゲームではあるが、実は、分かりにくいながらも少しだけヒントがあ
ったりする。
答えを先に言うと、顕信の身辺警護に当たっていたのは腕利きの「修験者」である、と見られているのだ。
忍術の源流のひとつとして、この修験道は切っても切れないものとなっているが、そうした修験の中でも腕の立つ者
が、顕信の周囲に目を配っていたわけである。現在の「SP」という役回りと見ればいい。もっともそれだけではなく、彼
等は顕信の「盾」としてだけではなく「耳目」の役割、すなわち後の忍者の役割に相当する諜報活動も担っていた。
先にも話したかと思うが、伊勢あるいは熊野の水軍が南朝のバックについていたのと同様、熊野系の修験も南朝の側
について活動していたのである。当然、ありとあらゆる事態を想定して対応策が取られていた事は言うまでも無い。
ちなみに石巻の日和山城は、山自体が古代より続く寺社地帯のひとつであった。ここが中世には修験道勢力の霊地に
なっていたのである。周辺には「吉野」とか「一皇子」(いちおうじ)なる地名が残っていて、これを南北朝期と結びつける
見方も一部にはあるらしい。しかし、これはどうやら修験の寺院の名前から取られたもののようだ。
更に塩釜と推定されている「持渡津」(もちわたのつ)には、修験系の有力な勢力があって、三陸海岸などで信仰を集め
ていた。そして葛西氏や津軽の安東氏も檀那(檀家と同義)になっていた、という資料も見つかっている。もしかすれ
ば、安東氏の南朝転向には修験勢力も一枚絡んでいるかもしれない……。

この頃糠部にあった南部政長は、前年の曾我氏攻めに続いて鹿角郡(現・秋田県鹿角市周辺)への軍事行動を開始、
その余勢を駆って岩手郡西根(現・岩手県西根町)方面まで南下し、そこに前線拠点を築く事に成功している。
これらの行動は早速、石巻日和山城の顕信に伝えられた。この報告が届いた時、顕信は石巻に到着して間もない頃で
あり、政長の報告は着いて早々の朗報であったと思われる。
これに対して顕信は早速、政長宛てに教書(指令書とでも言えばいいだろうか?)を発行している。





北畠顕信教書


去十一月七日御状 同十二月十八日到来 委細令披露候了

一、津軽安藤(安東)一族等 参御方候之条目出候 併御方依被誘仰候 如此候殊神妙候

一、鹿角合戦  将監被致忠節候 殊目出之由被感仰候

一、今度又対治岩手西根  被構要害候之条目出候 此上者明春?和賀滴石成一手可被対治斯波  候左様候者 
可馳向和賀?貫辺之由 可被仰葛西一族等候 此途入眼候者 当国静謐不可有子細候歟 河村六郎可参御方由令
候なれは 相構能様可被誘仰候 所望地等事 随注進可被経御沙汰候也

一、着到入見参候了 面々被成下御感教書候 彼輩抽賞事 自其就注進  可有其沙汰候 長継致忠節候 神妙候
 被感仰候也

一、官途所望輩 無子細候 定成其勇候歟 長貞長継官途事 助ハ是にて無御沙汰候 可有常州候定無相違候歟 
尚々云日来忠節 云令対治  併御高名候間 感悦不少之由被仰候也 抽賞事追加其沙汰候

一、倉満三郎左衛門尉忠節事間食了 所望地事 先立被宛行岩楯太郎跡候之処 不是之由歎申候歟 只今楚忽難
被仰候 追加被仰候 此様可被問答候也 恐々謹言

十二月廿日    清顕

御返事

南部遠江守殿





この教書は顕信直筆のものではなく、「清顕」なる人物が代筆し、発行したものである。
この「清顕」なる人物は、顕信の幕僚のひとりとして奥州に供奉してきた五辻清顕(いつつじ・きよあき)という人物であ
る事が、研究によって分かっている。ちなみに、彼は北畠氏の一族に連なる人物であったらしく、顕信を「軍監(この場
合は参謀)」として補佐する役目を負っていたようだ。

さて、この教書を少し紐解いてみる事にしてみよう。

まず「去十一月七日御状 同十二月十八日到来」という文面である。
これは、南部政長が11月初めに送った書状が、翌12月中頃に手許に着いた、という意味に取る事ができる。惜しくも
元号が書かれていなかった為に、いつの教書か?という事で議論になったらしい。
戦前の通説の中には、顕信の奥州下向を1341年(興国二年・暦応四年)とするものもあって、「岩手県中世文書」なる
資料でもそれに従っていたという。
だが、戦後の様々な歴史研究や教書自体の内容から、顕信が五辻清顕に代筆させたこの教書は、奥州下向後間もな
い1340年(興国元年)12月と断定して、間違いないものと言える。
それにしても同じ奥州の中で、11月初めに送った書状が届くのに、12月の中頃までかかったという事は、それだけ周
辺の状態が悪く、使者の通行がいかに困難を極めたかの証左と言えよう。
ちなみに、白河の結城親朝が同じ頃、顕信に書状を送った事が分かっているが、この書状が顕信に届くまでほぼ一ヶ
月を要している事から、顕信がいた場所は現在の青森県東部と、福島県南端部の白河の間、という事になる。
つまり、顕信が当時宇津峰城にいた、という説が成り立たなくなってしまうのだ。結城親朝の本拠地であった現在の白
河市と、宇津峰城のあった須賀川市の位置を地図で確認すれば、バカでも分かる話である。

本文の最初に、

「津軽安藤一族等 参御方候之条目出候」

とあるが、先程の補足にある通り、津軽に隠然たる勢力を有していた安藤(安東)氏が、南朝に帰順した事を祝してい
る内容である。
要は、
「津軽の安藤一族が、味方に参った事は目出度い事である」
くらいの意味であろう。
南部氏は曾我氏を叩き、なおかつ修験まで引っ張り出して安藤氏を南朝に帰順させたのであろうか。そこまでは定か
でないが、顕信には有力な豪族が味方に付いた事になる。

次に。

「鹿角合戦  将監被致忠節候 殊目出之由被感仰候」

という項目が顔を出すが、南部氏は曾我氏を叩いた後、鹿角郡(現・秋田県鹿角市周辺)に出兵して北軍と交戦したも
ののようだ。
当時の鹿角郡に北軍方の豪族は確認できないが、隣の出羽国に属する比内郡(現・秋田県大館市周辺)には、当時
北軍に付いていた浅利(あさり)氏がいた。恐らくは鹿角郡に浅利氏が攻め入ったのかもしれないが、戦闘がどの様に
行われたのか、詳しい事は分かっていないのが現状である。
この文の中で、

「将監被致忠節候 殊目出之由被感仰候」

という一節がある。
ここに登場する「将監」とは、南部信政(なんぶ・のぶまさ)という人物と見られている。彼は南部氏の系譜上において政
長の長男とされているが、最近の研究では政長の兄で、先に戦死した南部師行の娘婿ではないか、という説が有力視
されている。
信政は、北畠顕家の第一次西上に参加したといわれているが、もしかすれば顕信とはそれ以前、元弘以来面識があっ
たのではなかったろうか?いずれにしても旧知であったのではないだろうかと推測できる。
というのも顕信はこの文面で、
「将監(左近将監。つまりは信政の事)が忠節(手柄と同義)を致した事は、"殊に目出度く"感じている」
くらいの意味合いで絶賛しているからだ。
顕信が特に、個人的に信政を賞していると取れ、また同時に公卿の顕信と、武士である信政の「旧知の関係」を推測す
る論拠でもある。

さて、次である。

「今度又対治岩手西根  被構要害候之条目出候 此上者明春?和賀滴石成一手可被対治斯波  候左様候者」

この文面が、実は教書の発行された年号に大きな関わりを持っているのであるが、これは次回述べる事として、今は
先に進みたい。
ところで、政長の書状は11月7日に発しているわけだが、この教書には12月18日に着いたと書かれている。そして、
「今度(このたび、と読むべきか?)又、岩手西根を対治(ここでは占領、確保)し、要害を構えた事は目出度い事であ
る」
という趣旨の文面となっているので、南部政長が岩手郡に侵攻し、西根に要害を築く事に成功したのは、当然書状を発
する前となる。即ち、遅くとも10月末までには要害を築いた、と考えるより他になくなってしまう。
更に続けて、
「此の上は、明春和賀、滴石と一手となり斯波を対治云々」
と続けている。
つまり顕信は、政長に対して年を越して雪解けを待ち、和賀、滴石の南軍と協同して斯波(紫波郡。現・岩手県紫波町
周辺)を確保せよ、という指示を出しているわけだ。
ちなみに、この文面に登場する「和賀滴石」であるが、豪族の姓と見てよい。北上川中流域に勢力を持っていた和賀氏
は、宗家が北朝側であったが一族全てが北朝に付いていたわけではなく、一族の中には南朝と気脈を通じている者も
いた。
滴石氏は、江戸時代に新庄(現・山形県新庄市)を治めた戸沢(とざわ)氏の前身とされており、戦国時代には角館
(現・秋田県角館町)に本拠地を変えて生き残った、と推測されている。この滴石氏も、和賀氏の一族ではないかと目さ
れているが、当時は苗字の由来ともなった滴石(現・岩手県雫石町)に所領を持っていた。

「可馳向和賀?貫辺之由 可被仰葛西一族等候」

という文面からは、葛西氏とも協同して和賀、稗貫(ひえぬき)氏といった北朝側を挟み撃ちにするべし、という計画が
窺われる。計画通りに進んで勝利出来れば、陸奥国の北部(特に岩手県全体)が丸ごと南朝に帰する事となる、規模
の大きな作戦だった事が分かるかと思う。
それだけに顕信は、仏に魂を入れるという意味で用いられる「入眼」という言葉を盛り込む程、この作戦を重視していた
ようだ。

そして、

「河村六郎可参御方由令候なれは 相構能様可被誘仰候 所望地等事 随注進可被経御沙汰候也」

という文面が続く。
ごく端的に要約すると、顕信は政長に対して、河村六郎なる人物の処遇、恩賞の推挙権を一任した、と言う意味とな
る。
これがどんな意味を持つのかというと、政長が名実共に、現在の岩手県盛岡市より北の奥州における、検断職(この
場合、警察権や軍事、または恩賞の推挙や鎮守府将軍への公事等を引き受ける事から、地方長官とでも言うべきだ
ろうか)を与えられた、という事になり、権限が大きく強化された事になるのだ。
顕信が、政長に最大級の賛辞を惜しまなかった事が分かるはずである。

これ以降の文面は主に恩賞に関する事柄であり、大体が南部一族に対する返答となっているのだが、ここから少し抜
き出してみたい。

「抽賞事追加其沙汰候」

この文面は、政長の勲功に対する返答となっており、「恩賞については追って沙汰あるべく候」という意味合いで書かれ
ている。
南部政長は、当時「遠江守」の官位を拝領していたが、これは政長の最終的な官位であった事が分かっている。もちろ
ん、当時は官位を自称するなどという事は出来ず、もしそれを実行したとしても無視されるのがオチだった。政長は、正
式に朝廷(建武政権あるいは南朝)から任命された「遠江守」だったのである。
さて、政長にはその後恩賞として所領が宛がわれたわけだが、宛がわれた場所がどうやら八戸(現・青森県八戸市)周
辺であったらしい。
諸説の中には、兄の南部師行の頃から八戸が所領として宛がわれていた、というものもあるが、実際は三戸(現・青森
県三戸町周辺)が師行の所領だったと見られている。
政長は、1335年(建武二年)に北畠顕家の推挙により、七戸(現・青森県七戸町周辺)の領有権を得ているが、当時
の八戸地域には、工藤氏(黒石工藤氏と同族か?)の一族などが所領を持っていて、師行も政長も当時は八戸に所領
を持っていなかったようだ。
顕信は、政長の軍事行動の成功を賞して、八戸の中でも工藤氏などの所領外の地域を宛がったものと思われる。
政長の代でのこうした軍事的活躍が、恐らくは後の南部氏の礎となったものであろうか。

もっともこの時点において、まだ南部氏を中心とする北奥の南軍は、岩手郡全域を手にしたわけではなく、北朝に属し
ていた厨川工藤氏(くりやがわ。現・岩手県盛岡市周辺に所領を持った工藤氏一族)が岩手郡の南半分を押さえてい
た。

さて、政長の書状とほぼ前後して、白河の結城親朝の書状が顕信に届き、顕信はこれに対して五辻清顕の名で返書を
送っている。





宮内少輔清顕書状

去月十九日御礼 今月廿一日到来 慥入見参候了 抑坂東辺事 雖荒説多候  公私無為先以目出候 河村六郎并
葛西一族等 大畧無所残参御方候間 対治府中  急可有御上候 其間先被談合田村石川輩  成常州御力之様被
相斗候 吉野殿御事無殊御事候 心安可被存候 当方事委賢意可語申候也 恐々謹言

十二月廿五日

清顕(花押)

白川修理権太夫殿





この書状もそれまでの通説では、1341年(興国二年・暦応四年)のものとされていたが、最近の研究によって興国元
年末のものである事が分かっている。

「河村六郎并葛西一族等 大畧無所残参御方候間」

という文面は、

「河村六郎並びに葛西一族等が、残るところなく味方になり候」

くらいの意味になるが、河村氏が南朝への旗幟を表明したのが、顕信の石巻着到の前であった事を考えると、それが
通説のように一年も経って、おっとり刀で「味方に参り」でもあるまい。

さて、ここに「吉野殿」という人名が登場するが、この人物は書状の中では「殿」付けで呼ばれている事から、皇室関係
ではない事が分かる。
では一体何者なのか?
結城親朝に対して、特にこの事を触れている以上、少なくとも「吉野殿」という人物が親朝ゆかりの人物である事は明ら
かである。
現在「吉野殿」と呼ばれた人物に該当すると考えられているのが、戦死した北畠顕家の遺児といわれている北畠顕成
(きたばたけ・あきしげ。名の読みは"あきなり"とも読めるが、特に指摘の無い限り"あきしげ"で通したい)である。
彼は、津軽浪岡(現・青森県浪岡町周辺)に所領を持ち、戦国時代まで続いた「浪岡北畠氏」の祖とされている。
顕成の生年については定かでないが、この頃は今で言うところの幼稚園児(年少組?)くらいだったはずだ。
顕成と結城氏の関わりについては未だよく分かっていないが、顕家と結城氏の関係が非常に良好であった事を考える
と、何らかの事情で結城氏に托されていたのではないか、という推測が出来ない事も無い。

さて、

「対治府中  急可有御上候 其間先被談合田村石川輩  成常州御力之様被相斗候」

という文章を見ると、どうやら顕信は陸奥国府奪還の暁には、すぐにでも西上する考えを固めていたらしい。

「対治府中  急可有御上候」

という文面がそれに該当する。

「府中(国府)を確保したら、(西へ)急ぎ上るべく候」

という意味合いになるだろうか。そして結城親朝に対しては、

「其間先被談合田村石川輩  成常州御力之様被相斗候」

という文面を書いているが、

「その間、先ず田村氏や石川氏(あるいは伊達氏も含まれていたかもしれない)と談合し、常州の力となって相戦う様」

という意味に取れる。
ちなみに「常州」とは、当時常陸国にあった顕信の父、北畠親房の事である。

この様に、顕信は奥州下向すぐにあらゆる手段を尽くして、奥州の南軍に対して働きかけを行っていた。奥州、ひいて
は出羽の南軍もこれに士気を高めた事と思われる。

ここで出羽国を出した手前、簡単に当時の出羽の情勢に触れておく事にしよう。

鎌倉幕府滅亡後、建武政権は北畠顕家を奥州に派遣する一方で、出羽守兼秋田城介として葉室光顕(はむろ・みつあ
き)を派遣した。
葉室光顕は後醍醐天皇に仕えた公卿で、正中の変において六波羅に捕らえられ、出羽への流罪にされた人物であっ
た。それだけに、建武政権も光顕に出羽の事を任せたものの様であった。
当時、出羽国には北条一門の安達高影が、幕府より任ぜられた秋田城介として秋田城のあった秋田郡(現・秋田県秋
田市)を所領としていて、津軽の旧北条方残党と呼応しながら、政権に対して抵抗の姿勢を取っていた。また、当時は
北陸などからも北条の残党が出羽に流入していた事が知られている。
光顕に最も期待されたのが、この秋田郡の確保であったろう。ちなみに秋田城は元々古代の城であるから、平泉藤原
氏の頃や鎌倉時代の状況はよく分かっていない。
筆者は学生時代に一度、秋田城からの出土品を見る機会があったのだが、それを見た限り中世の頃のものは確認で
きなかった。
余談は置いて話を先に進めると、葉室光顕は出羽に着任して間も無く「叛徒」の襲撃を受け殺害されている(この場合
は北条残党であろうか?足利尊氏の関与も取り沙汰されているが、詳細は不分明である)。
襲撃を受けた場所は、当時の出羽国府が置かれていた藤島(現・山形県藤島町)ではないかと推測されていて、どうも
光顕の体制は最初から弱体であった様だ。
その後の出羽守には、急遽光顕の子息であった葉室光世(はむろ・みつよ)が任ぜられ、秋田郡や小鹿島(おがしま。
現・秋田県男鹿市)に拠る北条残党の討伐が進められた。安達高影等を首班とする北条残党は、葉室光世率いる軍
勢に敗北して津軽に逃れたが、後に津軽も北畠顕家の命を受けた奥州軍に鎮圧されている。
その後、出羽国で大きな争乱は確認されておらず、南北朝期が始まるまで特に大きな動きはなかったようだ。

出羽国、特に現在の秋田県は、南北朝期において「空白地帯」であるかのように扱われている感があるが、元々古代
から開発が進んでいた地域が、本当にその後何の戦乱も無く、戦国時代を迎えたとでもいうのであろうか?
確かに、秋田における中世の史料は本当に少ないが、だからと言って秋田が南北朝における「空白地帯」だった、など
と断定するのはあまりにも短絡に過ぎるだろう。東北の中世史における一大盲点、あるいは死角が、秋田ではないだ
ろうか?

出羽国の話はここまでにして、奥州で急激に活発化した南朝側の動きに対して、北朝側は何の手も打たなかったのか
というと、そうではない。
奥州北軍の司令官たる石塔義房(いしどう・よしふさ)は、当然これに対応していた。
ただ、これに関する史料はほとんど残っていないらしい。僅かに催促状の写しが残っているとの事であった。





石塔義房軍勢催促状写

兇徒退治事 ?可発向也 早致用意  随重左右可被馳参之状如件

暦応二年五月十五日  沙弥(石塔義房)(花押)

閉伊左衛三郎殿





これは暦応二年、つまり1339年の発行となっており、概略として石塔義房が、閉伊(へい)氏という豪族に軍勢を出す
よう催促したものである。
閉伊氏は、閉伊郡(現・岩手県宮古市周辺)に所領を持っていて、当時は北朝の側に付いていた事が推測される。
ただ、その後の閉伊氏が北朝側に参加したという史料は確認されておらず、閉伊氏が後に、南部氏と合戦して敗れた
か何かで、南朝に属した可能性がある。
いずれにせよ、石塔義房も南部氏の動きを警戒していたと見て間違いは無い。





さて、色々と詰め込んだおかげで、相当な長さになってしまったようだ。
この後、更に状況は混沌としていく事になるので、読者諸賢には宜しく覚悟を据えていただきたい。





第五章 〜興国(一)〜 了了



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