Written by タケ
「死は勝利に飲まれてしまった。死よ、汝の刺(とげ)は何処に?地獄よ、汝の勝利は何処に?」
――コリント人への第一の手紙より:第15章 第55節――
――夢を、見ていた。
そこにいたのは、ぺたりと座り込んだ一人の少女。
泣いていた。泣きながら、左手の甲を目の前の炎にかざして焼いている。
「何かから必死に逃れよう」として、泣きながら焼いている。
しかし、黒く焦げた部分はその炎から離すと、すぐに元に戻ってしまう。
そこにくっきりと現れるのだ。
『蒼い龍の刺青』
――彼女はまた、泣きながら炎に左手をかざす。
まるで、賽の河原で石を積む薄幸の童の如く。
「止めろ、止めるんだ!」
駆け寄る。駆け寄って、彼女の左手を委細構わず炎から引き離す。自分の手も焼けたが、何故か炎から離すと肌が元
に戻る。
少女が抵抗しながら叫ぶ。
「離しテ!どウしても、こノ"烙印"ヲ消さなイと……!」
「だからって、何故無茶をする!?一人で何故無茶をする事がある!?」
「私は、私ハ……っく、こレを消さなけレば……本当ニ、心かラ、ひっ、みんナを愛せナい!お願イだから、うくっ、手を
離シてぇ!離しテェ!!」
泣いていた。駄々っ子の様にしゃくり上げながら、少女は喘ぐ様に、絞り出すような声を上げた。
……俺が彼女を支えてやらないと……自然に言葉が紡ぎ出された。
「一人で苦しむ事など、何も無いんだ……俺の手と、お前のその左手を繋いで、一緒にここにかざそう。俺と、お前の二
人で。お前の罪も、苦しみも、全てをかざすんだ」
「……あ……」
「お前は"嘘つき"だ。だが、本当は自分に嘘をつくのも、相手に嘘をつくのも、下手くそで大嫌いな"大嘘つき"だ」
「うっ、ぐすっ……」
少女の背中を体全体で支えてやり、彼女の左手に自分の左手を添える。
「全てを解き放って、かざすんだ」
「……(コク)」
二人の左手が炎に包まれる。
熱い。
痛い。
だが、引っ込めてしまう事は出来ない。俺は、彼女と全てを分かち合う。その為にこの苦痛に耐えている。こんな程度
で、負けるわけにはいかない。
楽しい事、苦しい事、嬉しかった事、悲しかった事、そして、まだ成し遂げていない全て……。
どれ程の時が過ぎた事か。
不意に、少女の左手から「黒い何か」が、激しく揺らめきながら抜け出してきた。
それは、炎の中でのた打ち回ったかと思うと、呆気なく、本当に呆気なく、新たな炎に姿を変えて――跡形も無く消え去
ってしまった。
はっ、として、少女の左手を炎から引き離す。黒焦げになったはずの手が、瞬く間に元に戻っていく。
少女の左手の甲には――何も、何も残されていなかった。かつて少女の精神を縛り付けていたはずの「鎖」が、跡形も
無く消え去っていた。
少女を振り向かせて、
「これで、これでいいんだよ。これから、二人でこうしていけば良いんだ」
優しく語り掛ける。
少女はしばらく左手の甲を見つめて、それから俺の顔をまじまじと見たかと思うと――表情をくしゃくしゃにして首っ玉に
かじりつき……子供の様に泣きじゃくった。
抱き締める。
こんなにも、彼女は――
「火影様、うくっ、火影さまぁ……うあああああぁぁんっ……!!」
柔らかい、暖かい、しかし、折れてしまいそうな繊細な身体を抱きすくめる。
「もう、もういい。これからは、一人で何もかも背負わなくていいんだ」
――唐突に、意識が戻って来た。
白い天井が、否応も無く視界に飛び込んでくる。
それは、宗教関連の書籍とも、前世とも後世とも、何ら全く関係の無い"病室の白い天井"だった。身体の至る所から、
鈍い痛みが遅れて存在を主張し始める。
さすがに同時多発の鈍痛に耐えかねて、呻き声が上がった。
「……ぬ、ぐうっ……」
夢の中では、あの炎にも耐えたというのに、現実の身体の何とも情けない事か、などと考えた火影の左手が「何かに包
まれて」いた。
「む?」
首を曲げてみるとそこには。
「ぐすっ……火……影、様ぁ……すんっ、死んダら……嫌でス……」
べそをかきながら、火影の左手を下敷きにして突っ伏している弓華がいた。
ふっ、と自然に微笑が浮かんだ。そのままでつぶやく。
「……弓華、お前……人を勝手に殺すなよ……ただでも身体中が、シクシク痛むんだ……」
と、弓華がまるで何かに弾かれたかのような勢いで跳ね起き、くりくりとした可愛らしい目を文字通りまん丸に拡げて、
火影を見つめ返してきた。
その頬に涙の跡がこびりついているのを、火影は確かに見た。
「ア……あ、ああ……」
跳ね起きたままの状態で、弓華は彫像の様に固まったかと思うと、口をぱくぱくしていた。そして、見る間に見開かれた
瞳から涙が溢れて、一筋、また一筋と零れ落ちていく。
「……どうやら、今のところ死神には嫌われているようだ。その方が俺としてもありがた――」
火影は最後まで言葉を紡げなかった。
「火影さまあああああぁ〜〜〜ッ!!!」
ベッドに横たわる火影に、弓華が泣きながら覆い被さってきたからだ。
「う、ぐっ!?」
ボロボロの火影にはちと酷であったかもしれないが、それでも火影は弓華のなすがままになるより他に、方法も無い。
がたん!
「うわぁ!ど、どうしたっ、弓華!?」
大慌てにうろたえたいづみが、椅子を引っ繰り返して立ち上がる。
弓華のあまりの大声に、相当驚いたらしい。
「ふええええぇぇぇん!!」
火影は泣きじゃくる弓華にがっちりと覆い被さられて、身動きが取れない。それでも何とか言葉を絞り出した。
「いづみ、すまないが……い、医者を、頼む」
「え?あ、ああ、はい!……ぷっ……くっ、うふふふ」
いづみは、最後に笑いながら病室を出て行った。
火影が弓華から"解放"されたのは、それから47秒後の事である。
「ヤマは完全に越えた、そう言っていいでしょう」
ナースステーション横の待合フロアで、伴(とも)医師が弓華といづみ、そして美沙斗を前に言った。火影は再び眠りに
ついていたが、それはもう「死と戦う為の眠り」ではない。
「後は、このまま無理をせず回復を待つ事です。身体が動くようになってくると、大抵は"もう大丈夫だ"と早合点してしま
いがちですが、その時が実は一番危ない」
医師はそう言うと、表情をいたずらっぽく綻ばせながら下手なウィンクをして、
「我々が本当に"もう大丈夫"と判断するまでは、せいぜい"甘やかす"事ですな」
と言って声を立てずに笑った。
……伴医師が去った後、弓華の携帯が震えた。
「……はい?」
「俺だ、"樺一号"だよ」
それは、陣内啓吾――香港特別警防隊実働部隊隊長にして、弓華の上司――の声だった。
「あっ、隊長?」
「うん、ところでどうだい?御剣君は?」
「は、ハい。お医者さンは、もウ大丈夫だト……」
「そうか、それは良かった。"賭けた甲斐"があった、というもんじゃないか……ところで、美沙斗君は今、側にいるか
い?」
「あ、はイ。代ワりますカ?」
「いや、どうせ簡単なものだから伝えておくだけでいい。これでまずはひと段落ついたから、現地での休暇をたっぷり楽
しんでくれ、とね」
「はい、分かリましタ」
「さて、君は、と言うより君だけには、別に重要な命令がある」
「は?」
「本日付を以って、現在の隊から離れて特殊任務に就いてもらう」
「……ソ、それハ、一体?」
内心身構えて命令を待つ弓華。
啓吾は、それを感じ取ったらしくクスクスと含み笑いを漏らして、おもむろに告げた。
「御剣火影の護衛任務――公私に渡って、な――ああ、言っておくが期間は無期限、今更命令拒否は受け付けない
よ。ついでに言えば、すでに上層部の了承は取ってあるから、君に"拒否権なんて大層なもの"は無いからね。それだ け覚えててくれれば結構だ」
「ナ、ななナ、な……!?」
内容を聞いて二の句を継げない弓華。その反応を面白がるかのように多少の間を置いた啓吾は、一転して真剣極まり
ない口調でこう言った。
「人を愛するのに、理由や方程式なんてものはいらんのさ。君はもう、一人で出来る限りの"償い"はしたはずだ。手を
汚してるからだの、日なたを歩けないからだの、自分を追い詰めるのはこの辺りにして、そろそろ火影君の想いに応え てもバチは当たらないよ。俺から言える事は、それだけだ」
「け、啓吾……さン……イ、いえ、隊、長……」
やはり、"知っていて"今まで見守ってきたのだろうか。今の弓華に、啓吾の言葉は充分以上に染み渡った。
ここ数日で何度目になるだろう、弓華の双眸からまたしても涙が出てくる。
「ああ、やっぱり美沙斗君に代わってくれないか?」
「は、はい……ぐスッ」
美沙斗に携帯をいっとき預けて、涙を拭う。
「大丈夫か、弓華?」
いづみが気遣って声をかけると、弓華は泣き笑いの表情で応えた。
「ウん、グすっ……私……一人じゃ、無かっタんだヨね、いづみ?」
「……ああ、そうさ。当たり前だろ?」
「……火影様ヲ、無期限で"護衛"しロって……隊長サんが」
「……へ!?」
一瞬面食らった表情を見せたいづみだが、その命令の"真意"はすぐに理解した。
「……ぷっ、くくっ……あ、あははははっ、そ、そりゃいいや……あははは」
「い、いづみぃ……な、何モ笑わナくてモ……」
「あははは、ああ、すまない……でも弓華、気付いてるか?兄様の事を自然に"様"付けで呼んでる事」
「…………あっ!?」
いづみは神妙な面持ちになると、弓華の両手を己が手で包み込んで、言った。
「弓華……兄様を、火影兄様を……宜しく頼む……」
「いづみ……いづみぃ……多謝……」
弓華は、いづみの肩に自分の頭をもたれかけ、いづみはそんな弓華の肩を抱きながら慈愛に満ちた笑みを浮かべる。
そんな光景を、美沙斗は携帯越しに啓吾と会話しつつ、優しく微笑みながら見守っていた。
――数日ほどの時が経った。
すでに事件は事後処理が進み、入院中の火影はともかく、弓華も事件に対して何らする事は無かった。
この間、流石に「忍者」と言うべきか、火影の身体は急速に回復していったのだが……。
「はイ、火影様……あ〜ン♪」
「い、いや、弓華?そ、そのぉ……な、気持ちは有り難いが……もういい加減自分でも食べられ――」
「……ううぅっ、ホ、火影様ぁ〜、ワ、私の事嫌イになったンですカぁ?(うるうる)」
「う、うっ!?……い、いや、そ、そうじゃなくてだなぁ……(汗)」
すでに火影は、自分で食事を取れる分には回復していたわけで、本人としてはそろそろ、最低限なまった腕くらいは動
かしておきたいところであった。
ところが。
弓華がそれこそ着替えから食事に至るまで、とことん世話を焼き始めたのだ。
伴医師が「本当に大丈夫と判断するまで、せいぜい"甘やかす"事ですな」と言ったのと、啓吾が下した「命令」とを、どう
やら"これでもか"と言う位に拡大解釈したらしい。
まぁ、むしろ弓華の「抑え付けていた感情、あるいは想い」が、医師と上司の言葉をとどめの一撃として暴走した、と考
えた方が余程しっくりくるかもしれないが。
おかげで火影は、リミッターのぶち切れた弓華(笑)の「お世話いタします、火影様♪」な大攻勢に、まともに晒される羽
目になったのである。
今も弓華は、それこそ甲斐甲斐しく切り分けたりんごをフォークに刺して、火影に「あ〜ん♪」攻撃の真っ最中。なまじ断
ろうものなら、瞳をうるうるさせて「私、火影様に嫌ワれたらもウ、生きテいけませン……」なんて言葉が返って来るだろ うし、現に"さっきの言葉"を言っただけでこの始末だ(笑)。
で、こんな場合。
火影に勝ち目などあろうはずもない。
「うぁ、わ、悪かった、弓華。俺が悪かったから」
「……ほんトに、そう思っテますか?(うるうる)」
「ああ、もちろんだ」
「じゃ、ア〜んして下さイ♪(にっこり)」
「うぅっ!?」
…………確信犯(ぼそ)。
フォークに刺したりんごを差し出して、弓華が「あ〜ん♪」を迫る。火影もいい加減観念して、
「あ〜……」
と差し出されたりんごを口に入れ――
がちゃ。
「兄様ぁ〜、空也兄様と澪義姉様に鋼兄様、それに尚護も……って――」
「火影、どうだ具合のほ――」
「見舞いに来たぞぉ、火……」
「火影兄様、見舞いに来――」
「火影さん、具合は……あら?」
(注:上記台詞は、上よりいづみ、空也、鋼、尚護、澪の順です)
――ばっちり、見た(爆)。
弓華が差し出したりんごに「あ〜ん」して口を付けたそのままで、火影は固まってしまった。いづみが見舞いに来るとは
聞いていたが、まさか兄者達まで来るとは……いや、それよりも何よりも、何故よりによってこんな時に来る!?
一番最初に動いた、と言うより言葉を発したのは、空也の妻である澪だった。
「あらぁ、火影さん、それに弓華さん……」
唯子以上に「とぼけている」と評された(いづみ談)澪は、ゆったりとした口調で――
「二人とも、いつの間に"籍を入れてた"のかしらぁ?それならそうと、早く言ってくれれば良かったのにぃ♪」
しゃくっ!(←火影がりんごを半分かじり取った音。笑)
ぼん!!(←弓華が真っ赤。笑)
どこからどう見ても、火影と弓華のその様は、
「入院した"夫"に世話を焼く"恋女房"」
としか見ようがないし、それ以外に見えようもない。
普段は冗談すらたたかないように見える空也が、
「全く、火影も水臭い事を……」
と澪に同調して追い討ち。
末弟の尚護も更に追い討ちをかけようとしたが――
「後は一角(いづみ)姉様が、いつ相川さんと式を挙げるか、だね」
……微妙に着弾点がずれた。
「ん、んなっ……!?しょ、尚護っ!?」
今度はいづみがうろたえる番になってしまう。
「ああ、そうだなぁ。こっちはいつでも一角と相川君を祝う準備は出来てるんだが」
と、今度は鋼がいづみに追い討ちをかける。
「そうですねぇ♪」
と、またも澪がほのぼのとした表情と口調で更なる追い討ち。
「ちょ、ちょ……そ、そのぉ……し、真一郎"様"は、そのぉ……」
完全にうろたえてしまい、言葉もよれよれになってしまういづみ。
こうなると、もう何が何だか(笑)。
「ぷっ、くすっ……あははは」
「しゃくっ……ふふふっ……しゃく、しゃく……ははははっ……」
その様子を目の当たりにして、弓華と火影は揃って笑い声をたてる。
その日は、弓華にとって久し振りの「最良の日」となった。
――高町家――
高町恭也は、午後から大学を休講していた。何の事はない、特に受ける科目が無かったからだ。
庭に出て、五葉の松のひとつに鋏を入れていく。
パチッ。
パチッ。
そこへ、塀伝いに縄張りを巡回してきた「小飛(しゃおふぇい)」が帰って来た。ほとんど高町家お抱えのこの猫は、恭也
が盆栽の手入れをしている頃に必ずやってくる。
「にゃあ」
そして、恭也の足元に擦り寄ると、そこに行儀良く座る。それを目を細めて見ていた恭也が、ふと気配を感じて玄関の
方を振り向いた。小飛もそれに習って振り向く。
表の引き戸が開いて――現れたのは美沙斗だった。
「ただいま、恭也」
控えめに微笑みながら、美沙斗が庭に歩いてくる。
「お帰りなさい、美沙斗さん」
鋏を置いて恭也は美沙斗を迎え、小飛はそのまま付いてくると美沙斗に一度擦り寄って「にゃあん」と鳴く。縁側に美沙
斗が座ると小飛は一度恭也を見上げ、恭也が軽く頷くと美沙斗の膝に飛び乗って丸くなった。
「ふふっ、恭也の言う事をよく聞くんだね」
「何故かは分かりませんが。ああ、今お茶でも淹れてきます。もう少しすれば、美由希やうちの料理長達が帰ってきます
よ」
小飛の背中を優しく撫でながら、美沙斗は恭也を見送る。
久し振りに、皆と楽しく過ごせそうだ。
美沙斗はそう呟くと、蒼い空を見上げる。
……弓華、幸せを手放しては、絶対にいけないよ……。
小飛が美沙斗の膝の上で寝息を立てる。
美沙斗の仰ぐ海鳴の空は、気持ち良く晴れ渡っていた。
「勝利」 了
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