「慟哭」


Written by タケ


「今、私は何に慰められるのでしょうか?」
――詩篇第39編:第7節より――










納得がいかない――





どうして?





どうして私ではなくて――





「その光景」は、耐え難い程の理不尽さを弓華に強要していた。





菟弓華は、犯罪組織『龍』に属する一組織を追って来ていた。
そして、この組織を葬れば現地――つまり海鳴市の事だ――での休暇が約束されていた。
それは、いつもの事……のはずだった。
それなのに。

御神流の生き残りの一人、御神美沙斗と共に日本の地を踏んだのもつかの間、先に展開していたエージェントの一人
が血相を変えて待っていた。そして、手配されていた車に乗って海鳴に向かうや否や、そのエージェントはこう言ったの
だ。弓華、貴方の身元引受人――御剣火影さん、でしたね――彼が、先程『龍』の刺客との交戦で重傷を負いました、
と。
弓華は思わず自分の全ての感覚を疑った。そんな馬鹿な。"あの"火影が『龍』の刺客などに不覚を取るなど、断じてあ
りえない。
確かに私は以前、彼に重傷を負わせた事がある。だけど、それは彼に「足枷」があったから。もし"それ"がなかったな
ら、私は手もなく捻り倒されていたはず。

車は海鳴市に入り、駅前をかすめてとある場所へ向かう。目的地がはっきりした途端、弓華の表情が俄かに引きつっ
たのを、美沙斗は黙ってはいたが見逃さなかった。





――海鳴大学附属病院――





施設内の、とある会議室。

そこには、HGS(高機能性遺伝子障害)研究の権威のひとりである矢沢医師と、もう一人初老の医師、そして警防隊の
エージェントが数名と、見覚えのない、しかし一目で高度な訓練を受けた事が分かる若い男二人(後で知ったが、火影
の部下であった)、そして、火影の妹にして今や無二の親友である御剣いづみがいた。
通された部屋の中にいた人の集まりを視認した時、弓華の心は落ち着きを殆んど失っていた。

「ほ、火影ハ!?」

放っておくと医師達に掴みかかりかねない弓華の勢いを、美沙斗とエージェントの一人がどうにか抑える。そのエージェ
ントは火影と共同作戦を組んだ、警防隊の現場指揮官だった。
どうにか表面上とはいえ落ち着いて、いづみの隣の席に座った弓華に応えたのは、矢沢医師の隣に座っていた初老の
医師だった。左胸のネームプレートには「伴 満(とも・みつる)」と名前が書かれている。伴医師は難しい表情のままで
弓華の方を向くと、苦い声を発した。

伴医師の話によると、火影の身体のおよそ十数ヶ所に手榴弾の破片が突き刺さっていて(正確には13ヶ所だった)、
急所こそ外れてはいたものの出血が激しかったそうだ。とにかくも苦労して破片を取り除き、輸血を施したが――

「酷な言い方になってしまうかもしれませんが、ここから先は患者の"無意識の力が強いか弱いか"で、生死が定まって
しまう事になります。強ければヤマを乗り切れますが、しかしそうでなかった時は……」

弓華の両の瞳が大きく開かれ、次いで視線が、医師二人を睨みつける様なものに変わった。
そこから先は聞かなくても良かったし、聞きたくもない。伴医師が難しい表情のままで口を閉ざすと、矢沢医師が更に厳
しい表情で語を継ぐ。

「私は、今までHGS克服の為に、出来る限りの事をしてきたつもりだ。そしてこれからもそれは変わらない。だが、時に
――そう、特にこんな時――HGSを"金の生る樹か宝の山と勘違いする者"が何故絶えないのか、と暗い気分になって
しまう……まして、こうして傷付く者が出てしまうと尚更ね……」

矢沢医師の苦渋の表情が、この場の雰囲気を一層重くさせていた。





……特別に許可を得て、弓華といづみは集中治療室に入る事が出来た。
生命維持装置を始め、いくつもの医療機器に囲まれてベッドに眠る火影の姿が、そこにはあった。
まだ彼の意識は戻っておらず、その瞳は閉じられたままで、その「閉じられた目蓋に"硬さを感じないのに気付いた"
事」が、弓華の心をなおの事打ちのめしていた。火影が何故、こんな目に遭わなければならないの?火影が一体、何
をしたと言うの?こんな理不尽な事が、あっていいとでも言うの?
そして弓華の怒りをますます増幅させたものは、「今の自分が、火影に対して何もしてあげられない」という、全く不快極
まる深刻な現実であった。ふといづみの方を見ると、いづみは柳眉を逆立てて火影を見詰めている。

「兄様……この"オトシマエ"は、必ず着けます……ですから、絶対生きて……!」

怒りを懸命に抑え付けながら、いづみはそれだけ呟いて先に治療室を後にした。
弓華はもう一度火影を見る。火影を囲み、拘束する医療機器さえなければ、その姿はただ単に「眠っている」様に見え
る。そう感じる事自体が、弓華の精神に「いたたまれない何か」を自覚させていた。これ以上この場にいる事は、今の
弓華にとっては拷問と同義でしかない。心の中でいくつもの「負」を混ぜこぜにして、弓華も治療室を後にした。

――私ハ、こンな光景ヲ見る為に「戦っテ来た」んじゃなイのニ!……これガ、私が"火影に応えなかった事の報い"ダ
とでも言うノ!?――

弓華は『龍』を抜けて以来、警防隊でも屈指のエージェントとして活動してきた。その精神の奥底に、様々な屈折を押し
込めながら。それを可能たらしめていたものが、ひとえに火影の存在である事を弓華は知っていたが、弓華は火影に
対して好意以上の感情と、ある意味「後ろめたさ」がせめぎ合った、複雑な感情を抱いていた。
つまり、火影の好意を嬉しく感じ、自分も本当は応えたいのに、自分の抱える負債――『龍』の一員であった事、何より
も自分の手が"血と闇に染まっている"と思い込んでいる事――に縛られて、それ故にどうしても飛び込めなかったの
だ。
だが、今この状況を見てみると、最早そのチャンスを得られないまま(弓華自身がそう思い込んだまま)、火影の生命
の方が喪われようとしているかに思えてしまう。

それは、何と残酷な報いであろうか。

「弓華?」
いづみに声をかけられた。彼女の目を見る。そこには"今のところ抑制された怒り"が見え隠れしていた。
「……まだ奴等の居場所は掴めてないらしいな。だから、今の内に頼んどく。弓華達が動く時、あたしも一緒に行かせて
くれないか?」
「いづみ……」
その目には、何の迷いも無い。強靭なまでの意志が、弓華をまともに射抜く。これこそがいづみの「本当の強さ」なのだ
――改めて弓華は実感していた。そして、こんな時のいづみは誰にも止められない。無理に断っても自分から行動する
であろう……弓華は頷いた。
「……原則ハ駄目なんダけど……うん、分カった。必ズ」

今は兄様の側にいる、と言ったいづみと別れてメンバーの元に向かっていた弓華は、美沙斗が場を外して一人の青年
と話しているのを見た。その青年の一歩後ろでは、一回り背丈の低い銀髪の女医――白衣を着た小柄な医大生に見
えない事もなかった――が、やはり会話に参加している様だった。
黒ずくめの服装に身を包んだ、精悍な美男子。彼からは「美沙斗と同じ雰囲気」を感じ取れた。
三人ともすぐに会話が終わったらしく、美沙斗は二人と別れてこちらに戻って来る。
美沙斗と弓華が揃って来るのを待って、メンバーは病院の許可を得て借り受ける事とした先程の会議室で、善後策を
話し合う。既に念の為、御剣の宗家と連絡が取られており――こうした根回しは、この場にはいないが啓吾が行ってい
た――火影の部下は矢沢医師の護衛を引き続き行う事とし、刺客の黒幕捜索は警防隊に一任された。
香港から、幹部二人が新たに応援として派遣されて来る事が知らされると、改めてメンバーに緊張が走る。絶対に失敗
は許されなかった。





弓華、美沙斗の実働班と、その他メンバーの支援班は、基本的に別行動を取る事になっている。ブリーフィングが終わ
ると、支援班は直ちに行動を開始する。情報を収集し、標的を捕捉する為だ。
一方実働班は標的捕捉の連絡を受けるまでは、多少ながら自由な行動が出来た。だがその代わり、いざ実際の戦闘
で死線を潜る事になるのは、他ならぬ実働班である。

今、弓華は中庭の一角で美沙斗と佇んでいた。
「君にとって、火影さんという人は……本当に大事な人なんだね……」
少しばかりの沈黙を、美沙斗が静かに破った。それが、弓華に脈絡も無く衝動を突き動かさせる。
「……そう……そウね……」
弓華はかけていた眼鏡を外して胸ポケットに差すと、ふと微笑んだ。
「その大事ナ人が、私に示してクれた気持チを、私は……拒絶しテ……」
弓華は座っていたベンチから立ち上がると、美沙斗に背を向けたままで空を見上げる。自分の心とは正反対に、何と
蒼い空だろうか。視界が訳もなく霞む。
「……私……間違ッてたのかナ……?」
今気付いたところで、もう遅いかもしれない……弓華は暗澹とした思いで顧みる。自分がどれほど御剣火影という男に
"拠り所"を求めていたのか……。
「何て、馬鹿だっタんだろ……こんなニ、自分ガ火影を必要トしてる事に、今頃気付かサれるなんテ……」
瞳を閉じた。涙が両の頬を伝っていく。
美沙斗がベンチを立って、歩み寄る。
「私もね……静馬さんを、夫を喪って……気が狂いそうになったよ。いや……きっと、一度狂ってしまったんだ」
「……み、美沙、斗……?」
「長い回り道をしたけれど、今になってようやく……そう、ようやく修正出来た様な気がするんだ」
「……うくっ……」
美沙斗は、いつになく言葉を紡いだ。もしかすれば、弓華に以前の自分をどこか、重ねるところがあったのかもしれな
い。
「美沙斗ぉ……火影ガ、死んだ……ひくっ……ラ……うくっ……私ノしてきタ事……みんナ、無駄になっちゃウのかな…
…?」
弓華はもう、涙を抑える事など出来なかった。これが「本当の悲しみ、悔しさ」なのだろうか?涙どころか、自分すら抑え
られそうになかった。
「まだ、勝負は決まっていないよ。今、火影さんは"死"と必死に戦っているんだろう?それこそ、弓華?君が"引き篭も
って"しまっては、本当に無駄になってしまうよ?」
美沙斗は、あくまでも優しく弓華に話しかける。
「弓華……私の自慢の甥っ子がね、いい事を言っていたよ。優しくなるのに、必要なものなど何もない……痛みも悲し
みも、悔しさも、何もかも全て、自分の一部だ……そう、言ってたよ」
弓華が美沙斗の方を振り向く。涙に濡れてくしゃくしゃな表情になっていた。そんな彼女を、美沙斗は優しく抱き寄せ
る。
「泣いて、いいんだよ。思い切り、泣いていいんだよ」


「う……うあ、うああああああああああぁぁぁぁぁぁ…………!!」


泣いた。心の底から、泣いた。堰を崩したかのように涙が止め処も無く流れ、美沙斗の服に染み込んでいく。
「嫌……ひくっ……火影ぇ……し、死んダら……嫌ァ……うっ、うわぁああああああっ……」
美沙斗に「母の香り」を感じながら、弓華は思い切り泣いた。
弓華の頭を撫でながら、美沙斗は慈母の如き表情で、ただ泣くに任せていた。





――それほど時間は経っていなかったかもしれない。弓華はひとしきり泣くと、ようやく美沙斗から離れた。
「謝謝、美沙斗」

まだ一筋流れていた涙を拭い、

「あリがとう」

ふわりと微笑む。

「もウ、大丈夫」

その瞳に決然としたものを映して。

「今ノ私は、火影に何モしてあげられナい……その代わリ……」

迷いも何もない。

「火影ヲあんな目ニ遭わせタ奴等を、絶対に、許しハ……しない!」

火影が"死と戦い勝利する"事に、自分は全てを賭ける。

美沙斗が微笑み、頷く。

「私もいる、皆もいるよ。弓華は、一人じゃないのだから」

「……多謝!」










弓華は、ようやく自分自身に素直な一歩を踏み出した。










――私の勝利が、即ち"火影の勝利"たらん事を――










――海鳴市某所――





――グエン・ヴァン・タオとクラトゥ・ナグマは、日本に降り立つと直ぐに海鳴市に向かい、支援グループと合流した。
二人が指揮権を引き継ぎ、いよいよ徹底的に標的を捕捉するのだ。
グエンがまず始めにした事は、弓華、美沙斗のバディと連絡を取る事だった。弓華の精神状態次第では、ナグマとの
交替も視野に入れていたのだが、弓華はグエンの予測に反して快活な、と言うより、終始どこか「据わった」雰囲気で応
えていた。少なくともグエンにとって、弓華の携帯越しの口調はそんな風に聞こえたのである。
「……どうやら、弓華は代えなくても良さそうだな」
「大丈夫ですかね?」
「ああ、さっき聞いた限りではかなり堪えていたようだが、もう心配いらんだろう。それに、御神君もいるしな」
「では、予定通りですね」
「そういう事だ。さて……確か、今度の襲撃者の中でたった一人生きてたヤツが、アジトはこの辺りだと吐いていたそう
だな」
海鳴市の地図のとある一点を、グエンは指差す。
都市開発計画の一環としてビルがいくつか建設されながら、バブル崩壊やその後の計画頓挫によって、解体する予算
も計上出来ずそのままほったらかしになっていた場所。そこは偶然にも、かつて美沙斗が、クリステラ・ソングスクール
の海鳴公演を阻止せんとした時に隠れ場所としていた、今はもう瓦礫の山となった廃ビルの辺りであった。
「はい、しかし信じていいものでしょうか?下手をすると空振ってしまいますが?」
ナグマの危惧にグエンは頷く。
「かもしれん。だが奴等も追い詰められている。敢えて人いきれの中に活路を求めるか、それとも滅多に人の来ない場
所に陣取るか、恐らくはその辺りで、奴等の"今の実力"が分かるだろう」
「確かにそうですね」
「まだ奴等がフォス博士や矢沢医師の事を諦めていなければ、どこに潜んでいるにせよ、必ずもう一度動く。だが、そ
れを待って動いてやる義理はこっちにはない。後手を踏むわけにはいかんのだ」
「……では、この廃ビル周辺の索敵を強化しましょう」
ナグマが直ぐに、展開中のメンバーに指示を出す。
「ところで博士達の護衛ですが、敵の居場所が判るまで誰か回しましょうか?」
「ん?……うぅん、こっちも苦しいんだが……まぁ、向こうも同じ、いやもっと苦しいか……よし、御剣側と連絡を取って、
許可を得次第何人か出そう。郊外の索敵は何人だ?」
「四、五人は展開させています」
「確か、郊外はほぼ空振りだったな……なら、いつでも回れるようにさせておいてくれ」
「キャップ、"樺"より入電です」
メンバーの一人がグエンに携帯を渡す。
「グエン、そちらの状況は?」
樺一号こと、陣内啓吾であった。
「はい、怪しい地点を割り出しまして、今そこに重点を置くよう指示しました。それと、御剣側にも護衛面での根回しを―
―」
「それは私がやろう。そっちからは何人回せそうだい?」
「多くて四、五人かと」
「分かった。ああ、それと今から言う番号にかけてくれ。私の知り合いの情報提供者だ。話は通してあるから、すぐに動
いてくれるよ」
「了解しました。感謝します」
グエンに件の番号を教えると、啓吾はきついだろうが頑張ってくれ、と言って電話を切った。
直ぐにグエンは、教えられた番号を携帯に打ち込む。二回コールした後聴こえてきた声は、多少ぶっきらぼうな女性の
声であった。
「警防隊のグエンです」
「あぁ〜、話は聞いてますよ」
「ならば、話は早いですな。では、今から言う場所の詳しい情報をお願いしたい。そこには、こちらからも数人向かわせ
るがね」
と、グエンは話を進めていく。
「OK、どうせなら張り込んどいた方が早いか……時間が勿体無いから、すぐに動くよ。あぁ、それと」
「……?」
「啓吾さんに、仕事をくれる事には感謝してるけど"もう少しはずんでくれ"って伝えといて。じゃあ、バァ〜イ」

通話を終えると、グエンはナグマに向かって肩をすくめて見せた。

「ふふっ、女性というのは本当に強い。改めて実感するね」





……この翌日、警防隊は『龍』のアジトを捕捉した。そして、火影は最初のヤマを越えたと診断され、病棟の個室に移さ
れる事となったが、未だに意識は戻っていない。




















「慟哭」 了



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